遣らずの雨
悲しいことが起こるときは、いつも雨が降っている。すると私の心にも、どんよりとした雲が広がっていく。
あの日も、そんな空模様だった。
憂いを含んだ湿気が私を包みこんで、まるで同情するように雨粒は落ちていく。
零れた涙は雨に流されていった。けれど、私の心は雨に晒されたままだった。
空はいつも、グレーでホワイトだ。黒に白を混ぜたような、曖昧な心の反射鏡みたいなものだ。
やまない雨はない。晴れない曇りもない。
けれど、私の心にまぎれて、雨が降る。
どうか──私の目の前で、降らないで。
そう願ったのは、いつの思い出か。なくなってしまったものは、一体どうやって取り戻せば良いのだろう。
今日も、雨が降っていた。私の心は、水溜まりの底に沈んでいった。
踏み入れた雫の音が、耳の奥でずっと響いている。
***
十月になった。長袖の制服を着ても、まだ少し肌寒い。夏はあんなにも長かったのに、秋の気配すらも追い越して、気がつけば冬だけが訪れていた。
あっという間に日が暮れて、部活を終えたときには、空はすっかり宵が覆い尽くしている。
昼すぎまで降っていた雨はやみ、その気配も寒さに吹き飛ばされたようだった。
わずかな足跡として、ところどころの地面が黒く滲んでいる。
光の乏しい住宅街に、ポツンと古びた街灯が立っている。その傍に、ミフユだけが光を宿していた。
「ミフユ。待たせちゃって、ごめんね」
私がおずおずと声をかければ、ミフユはパッと晴れたような笑顔をみせた。それにつられて、私の頬も緩んでいく。
「大丈夫、ぜんぜん待ってない! それよりもさ、めちゃくちゃオシャレな喫茶店見つけたんだ! ちょっと寄ってこ?」
フッと肩の力が抜けて、体の中に安堵が駆け巡った。
ミフユは、私の部活が終わったら、毎回なにかに誘ってくれる。お金の足りないときは、一緒に帰れるところまで着いてきてくれる。
「うん、行きたい!」
他の人なら、断ってしまう誘い。けれど、私はミフユとなら行きたいと思えた。
彼女と会ってから、良い意味で不思議なことばかりが起きる。私はその感覚が擽ったいけれど、少しも悪い気はしない。
ミフユは私が塞いでしまった箱の中を、いつも見透かしているような気がした。
「どうやら……今回はアップルパイの美味しいお店らしい。いやあ、是非とも食べたいよぉ〜」
ミフユは今回も、自信ありげにそう言った。
私は、「アップルパイ」と聞いて思い出した。
最近、SNSで見た記事の中に、アップルパイが美味しいと話題になっているお店があったはずだ。
ミフユは流行りに詳しいから、私も少し触れてみようと思った。そして、見つけたのが──
「喫茶まほろば……?」
気づいたときには、既に口に出していた。
違かったら、どうしよう。少し慌てて、私は弁解しようとした。
けれど、それは言葉にならずに、ふわりと空気に溶けていった。
「そうそう! まほろば! さっすがユズちゃんだ。ミフユのこと分かってるぅ」
そんな思いとは裏腹に、ミフユは目を輝かせながらはしゃいでいた。
「行こ行こ!」
そう言って私の手を引いた。やや引っ張られるようにして、私は追いつこうと駆けていく。
そのときのミフユは、雪の結晶みたいに光って見えた。まるで、スノードームの中にいる気分だった。
私たちは、夢中に走った。今がスローモーションのように過ぎていった。
商店街に抜ける道を走り抜け、街の光が目立つようになってきた頃。私の息が切れてきた。息は短く、心臓の音が聞こえる。
ミフユは息を切らしてなかったが、私を気遣ってか私に歩幅を合わせてくれた。
「疲れてきちゃったね! 歩こっか」
街の光に照らされて、私たちは手を繋いで歩いた。
喫茶まほろばの看板を見つけ、ミフユは扉の前に小走りで駆け寄った。
ドアを開ければ、真鍮のベルが低く、ガランと鳴った。
昔ながらの立ち構えと現代が上手く混ざりあって、磁石みたいに引き寄せられる気がした。
ふと、ショーケースの方に目を向ければ、アップルパイの文字の上には完売の文字が書かれている。
「あちゃあ、完売しちゃってたかぁ……」
ミフユが頭を抱えてしゃがみこんだ。
「う〜ん、でも! ミルクレープ食べたいし。あ、店員さん!! 二名でお願いしまーす」
そう言って立ち上がり、付近の店員に声をかけた。
この切り替えの早さには尊敬する。私にはない、ミフユの良さだ。
店員についていけば、窓際のテーブル席に案内された。
端に置いてあるメニューを開き、数秒だけ沈黙が走った。
「あたしはミルクレープとレモンティーかな!」
ミフユが早々に決めたのに対し、私は中々決められないでいた。
「私は、メロンソーダと、えーと……」
メニューを見れば、ズラリと並ぶケーキの種類に気圧された。
定番のショートケーキ、旬のモンブラン、好物のチョコレートケーキ、オススメのチーズケーキ、そしてフィナンシェ……
どうしよう。どれも今しか食べられないもののようで、どれか一つの名を挙げるのを躊躇してしまう。
結局決められなくて、ミフユと同じものを選んだ。
最近のファストフード店のように、猫型ロボットで運ばれてくることはなく、人の手で頼んだものが置かれていく。
「わぁ〜!」
ミフユが短く声を上げた。そのままスマホを取り出して、次々に写真におさめる。そして、スマホを空に掲げるようにして、内カメに切り替えた。
「ほら、ユズちゃん。はいチーズ!!」
その合図に合わせて、片手でピースをする。二人だけの時間の記録。これも、いつものルーティンだった。
ひとくちひとくちを噛み締めながら、ミフユと言葉を交わす。この瞬間に、いつまでも浸りたかった。
そうして──気がつけば、机上には空のグラスと白皿だけになっていた。残った氷だけが、カランと軽快に鳴った。
出入口を見れば、両手では数え切れないほどの行列ができている。辺りを見渡したが、空き席はなかった。
私はミフユに声をかけた。
「食べ終わっちゃったし、そろそろ帰らない? 長居するのも申し訳ないし……」
「そうだね、今日は帰ろっか!!」
そうして、手早く会計を済ませる。ゆっくりと扉を押せば、さっきまで暖かかったはずの体が、指先から一気に冷えていく感覚がした。
帰り際、ミフユが言った。
「次来た時には、一緒にアップルパイ食べようね!!」
それは誓いのようで、叶わない願いのようなものだった。
***
それから、何日も経たずに、ミフユの訃報が知らせられた。一瞬、時が止まったような気がした。耳からゆっくりと滲んで、ストンと心に入り込んでいく。降り積もる雨音が、耳の奥で反響した。
交通事故だった。飛び出した男の子を助けようとして──そんな話を聞いたとき、胸の奥を強く掴まれた気がした。
ミフユとは、まだ出会ってから半年ぐらいだ。四月に転入してきて、始業式前に職員室の場所を教えただけ。初めはそうだった。
二年生になってもクラスに馴染めないでいた私に、決まって話しかけてくれる不思議な人。私だけ、クラスで浮いているのは確実だったのに、ことあるごとに関わってこようとする人だった。
それが、いつしか私の世界の一部になって、離れることも、忘れることもできない存在になっていた。
あの日に交わした約束は、もう守れなくなってしまった。
ミフユの葬儀が終わって、私は何とも言えない空虚に包まれた。
雨の中の外を、ぼんやりと眺める。ミフユのいない世界は、グレーでつまらなくなっていた。以前は、これが普通だったというのに。
「ユズちゃん」
とんとん、と控えめに肩を叩かれた。ゆっくりと振り向けば、ミフユの親戚だった。一度だけだったけれど、家に行ったことがある。だからか、すぐに誰なのか分かった。
その人の顔は、照明が影を落として、妙に青白く見えた。
「あなたに、渡さなければと思ったの」
差し出されたのは、一冊のノート。表紙には、二〇二五年三月二十八日〜と書かれていた。ミフユの日記帳だろうか。
私はそれを受け取った。ずっしりとした重さが、ミフユの心の重さのように思えた。
「……ありがとうございます」
ノートを抱きしめ、礼をする。言葉になったのは、感謝の言葉だけだった。
「こちらこそ。ミフユと仲良くして頂いて、ありがとうございました」
言葉が、過去形になっていた。それが、ミフユの喪失を一層濃くする。
戻りたくても、もう戻れない。そんな日常が、私にはあったのだ。
渡された日記帳に、さっそく目を向ける。なんとなく、最初から読まなければいけない気がして、私は表紙を捲った。
『三月三十一日──。
今日は雨が降っていた。
お父さんとお母さんがいなくなって、もう三ヶ月が経つ。
親戚のレイさんの家に来てから、時間の流れが少し違って感じられる。
来月からは、新しい学校に通うことになった。
前の学校は、もう遠すぎて行けなくなってしまったから。
この一ヶ月は転入試験の準備で、忙しいような、寂しいような日々だった。
でも、合格できたから、大丈夫。たぶん。
新しい友達、できるといいな。』
『四月七日──。
今日から学校だった。
職員室の場所が分からなくて、同い年ぐらいの女の子に話しかけた。
そうしたら、嫌な顔せずに案内してくれた。
そのときは名前を聞きそびれちゃったけれど、あの子と仲良くなれるといいな。』
『四月十日──。
あの子に会えた。
別クラスだったから探すのに時間がかかっちゃったけれど、お話しできてよかった。
名前、ユズって言うらしい。
友達になれたらいいな。』
それから、ミフユの日記は、ほとんど私との思い出が綴られていた。
『六月三日──。
初めてユズちゃんと一緒に帰れた。
今日は部活がなかったらしい。
何部? って聞いたら、吹奏楽部だって。
帰りの方向が、ほぼ一緒だったから嬉しい。』
『六月二十八日──。
放課後に初めて、ユズちゃんを誘えた。
実は、ユズちゃんの門限は緩いんだって。
レイさんに門限の延長を頼んだら、快く承諾してくれた。
来週が楽しみだな。』
『七月五日──。
今日は、近場のカフェにユズちゃんと行けた!
天気予報の通りに、ちゃんと晴れてよかった。
ユズちゃんの笑顔も増えた気がする。
前までは、雨の降る前の雲みたいな顔をしていたけれど、雨上がりの晴れたような顔を見せてくれるようになった気がする。』
『八月九日──。
最近わかったことがある。
ユズちゃんは、毎回メロンソーダを頼んでる気がする。
メロンソーダはユズちゃんの好物ってことは、覚えておかないと。』
『十月 日──。
ユズちゃんと帰りに、アップルパイを食べようって約束した。
喫茶まほろばのミルクレープ、めっちゃ美味しかった。
でも、ユズと一緒にアップルパイも食べてみたいな。
明日か、明後日か、来月か、来年か。
いつになるかは分からないけど、約束を果たせたらいいな。』
そこで、終わっていた。数ページを残して、日記は途切れていた。まるで、ミフユの心を覗いているような気がした。
読み終わった頃には、視界が歪んでいて、何も見えなかった。涙は、雨と一緒に流れていった。
あの日が夢ならば、醒めて欲しくなかった。だって、そのとき、私は永遠を信じていたから。
悲しいことが起こるときは、いつも雨が降る。すると私の心にも、どんよりとした雲が広がっていく。
あの日も、今日も、そんな空模様だった。
憂いを含んだ湿気が私を包みこんで、まるで同情するように滴が落ちていく。
零れた涙は雨に流されていった。けれど、心の雨は降り続けたままだ。
ふらふらとおぼつかない足取りで、あの日を辿るように足を進める。
気がつけば目の前に、あのときと同じような看板があった。扉を押せば、真鍮の低い音が響き渡る。
「一名様ですか?」
店員さんがそう言った。
「はい、一名です」
案内されたのは、窓側の席だった。
あの日と同じようにメロンソーダを頼み、アップルパイを二つ頼んだ。
ミフユが、窓ガラスに映った気がした。硝子の奥で、手を振りながら笑っている。
あの日に撮った写真のように、私はスマホを掲げて写真を撮る。ミフユのやっていた自撮りを、見よう見まねで。
勿論、上手くはできなかった。
フォトアルバムを開けば、ブレて何が映っているのかも分からない写真がある。
窓ガラスは照明を反射するだけで、そこには何も映っていない。
けれど、窓の外には、いくつもの傘が流れていた。




