KO旋風児 池山伊佐巳
立教の長嶋と早稲田の池山といえば、今日の大学スポーツ界ではありえないほどの人気者だった。学生身分で芸能人と芸能雑誌のグラビアを飾るアマチュアアスリートなんて、これからも現れることはないだろう。
“モンスター”こと井上尚弥が史上初の高校七冠の実績を引っ下げ、二十五年ぶりの八回戦デビューを果たしたことは大きな話題となったが、日本ボクシング界で新人にしてA級ライセンス(八回戦以上)を取得したのは井上を含めて七人しかいない。
ただし、実際にプロテストで受験できるのはB級ライセンス(六回戦以上)からになっており、井上の場合もB級にパスしたうえで、過去の実績を加味した特例措置としてA級での試合許可が下りるという形式を踏んでいる。
とはいえ東洋人初の世界ライト級チャンピオンとなったガッツ石松が最初のプロテストでC級に落第しているように、相当に喧嘩慣れしているストリートファイターでも、ボクシング技術が低ければそう簡単に合格できるほどプロは甘くない。ちなみに東京五輪バンタム級金メダリストの桜井孝雄でさえプロデビュー戦は六回戦だった。
これほど高いB級ライセンスのハードルを越えて日本ボクシング史上初のA級(10回戦)デビューを認可された池山伊佐巳こそアマチュアボクシング界最大のヒーローであった。
そのフィーバーぶりたるや、桜井以来の五輪金メダリストとなったアマチュア時代の村田諒太が霞んでしまうほどの凄まじさだった。
池山伊佐巳は長崎県西彼杵郡野母崎町野母の蒲鉾店の次男坊として生まれた。
東京の東亜商高に進学したのは、県下でも名店として知られる家業を継ぐために商業を学ぶことが目的だった。
小中学校時代は鈍足でそれほど運動が得意でもなかったせいか、本格的にスポーツに取り組んだ経験もなく、ましてやボクシングのような荒っぽい格闘技などとは全く無縁だった。
それまでTV中継でしかボクシングを観たことのなかった池山がボクシングに興味を持つようになったのは高校三年の秋口くらいからしばしば日東拳に顔を出すようになったのがきっかけである。
別にボクシングが好きだったからではない。合宿所に寄宿している友人に貸した金を返済してもらおうとジムに足を運んでいるうちに、次第にこのスポーツの魅力にとりつかれていったという。
練習を見学するようになってから三ヶ月後の昭和三十年の末には日東拳の合宿テストに合格し、三十一年一月から本格的な練習を始めたが、初スパーリングでいきなりウエルター級の練習生を圧倒し周囲を唖然とさせた。
背を向けた相手に背後から殴りかかってゆくほどの旺盛なファイティングスピリッツとハードな練習でもほとんど疲れを見せない無尽蔵のスタミナを持つ池山は、先輩ボクサー小坂克己(後の日本ウエルター級チャンピオン)の手ほどきでみるみるうちに腕を上げ、わずか数ヶ月でスパーリングではほぼ互角に打ち合えるようになった。
小坂の公開スパーリングでパートナーを務めた時には、見学に来た記者たちから「どっちがチャンピオンなんだ」という声があがるほど素晴らしいラッシュを見せ、益戸克己会長を唸らせた。
合宿テストに合格した時点で本格的にボクシングをやる決意を固めた池山は、早大商学部に進学し、ボクシング部に入部する。
早稲田を選んだのは、中学時代から将来的に家業を継ぐために早大商学部への進学を強く希望していたからで、わざわざ上京して東亜商高に入学したのも進学に有利な環境で学びたいという理由によるものだ。
しかも奇縁というべきか、益戸会長の次男和雄は東亜商高の先輩にあたり、当時早大ボクシング部主将でもあったため、早大ボクシング部としては池山の入部は大歓迎だった。
高校時代は無名でも、ジムでは八回戦クラスのプロをスパーリングで滅多打ちしてしまうほどのラッシングパワーを誇っていた池山である。入部から程なくして名だたる先輩連中も池山には歯が立たなくなってしまった。
益戸和雄とともに出場したメルボルンオリンピックの選考会こそ決勝まで進めなかった(和雄は決勝で敗退)ものの、年末にレオ・エスピノサのスパーリングパートナーを務めた時は、バンタム世界三位の強豪を一方的に追い回し、天才的強打者の片鱗を見せている。
世界チャンピオンが各クラスに一人しかいない時代に東洋チャンピオンとして君臨し、世界戦で白井義男を苦しめたエスピノサは今日ならゆうに世界王座を手にしている実力者である。それほどのボクサー相手に一階級上とはいえアマチュアが打ち勝つというのは只事ではない。
翌年一月、リベンジを誓ったエスピノサ側からの依頼で、再度のスパーリングに応じた時こそ逆にこっぴどくやられてしまったが、この時は池山の右強打を恐れたエスピノサから左はそのまま十オンスで右は十四オンスのグローブを付ける条件を提示されていたという。世界を股に掛けて活躍したバンタム級トップクラスを本気にさせたことで、池山は自分の実力を確信した。
昭和三十二年五月の関東大学選手権は「噂の強打者」がその桁違いの実力を大観衆の前で披露した記念すべき大会だった。
下馬評では中央大学が絶対有利と言われたこの大会、早大の池山は五連続KO勝ちで早稲田優勝の立役者となり、アマチュアボクシング界に旋風を巻き起こした。驚くべきはその内容で、一回戦の三十八秒KO勝利も含めて四試合を1ラウンドで終わらせているのだ。
この連続KO勝利はその後十まで伸び、プロアマ通じての日本記録を更新した池山は「KOキング」の異名を取り、立教大学の長嶋茂雄と並ぶ東京六大学屈指のスポーツヒーローとしてスポーツ誌のみならず、芸能雑誌でも特集が組まれるほどの人気を博した。
同年十月の国体でも益戸和雄とともにポイントゲッターとして奮闘し、ボクシング競技における東京都の優勝に貢献した。
池山の快進撃は続く。昭和三十三年五月に日本で開催されたアジア選手権大会でも優勝候補だったフィリピン選手を圧倒して金メダルを獲得した他、二年連続アマチュア選手権(フェザー級)も制し、連勝も三十一まで伸びた。
こうなるともはやアマチュアでは池山の相手になる者がおらず、池山との試合では対戦相手側がいつでもタオルを投入できるように準備するのが当たり前のようになっていた。「長嶋か池山か」と騒がれたのも当然のことだろう。
一時はプロ転向かローマ五輪出場かで悩んだそうだが、二年後のローマを待つより全盛期のうちにプロのリングで実力を証明したいという思いが勝り、早大在学中のままB級でプロテストを受験した。
B級合格後に異例のA級ライセンスが与えられたのは、その実力の裏付けだけでなく異常なまでの池山人気にあやかって業界を盛り上げてゆきたいというコミッショナー側の思惑もあってのことだろう。半年前に米倉健志が史上初めてプロ入りと同時にA級ライセンスを付与するという特例措置を受けていたことも追い風になった。
米倉は明治大学四年でメルボルンオリンピックに出場し、メダルまであと一歩の四位という堂々たる実績を誇るトップアマで、白井義男を日本初の世界チャンピオンに育てあげたアルビン・カーン博士の指導を受けたこともある日本ボクシング界期待の星だった。その米倉でさえ、ライセンスはA級でも八回戦からのデビューだったのに対し、池山は日本ボクシング史上初の十回戦デビューが認められるほどの高評価を得ていたのだ。
これは、米倉は傑出したアウトボクサーであっても、KO街道を驀進する池山のような派手さがなかったぶん、人気面では大きく差をつけられていたことにもよる。そもそも米倉と池山では集客力が違っていた。
なにしろ池山の場合は、デビュー前からボクシング雑誌の老舗『ボクシングガゼット』(三十三年十一月号)の表紙を飾るほどの特別扱いで、まだ大学卒業前の新人でありながら『ベースボールマガジン』(三十三年三月号)の表紙に抜擢された長嶋茂雄と同格だったことがわかる。
昭和三十三年十月二十二日、ボクシングファン大注目のプロデビュー戦の相手は元日本フェザー級チャンピオン、中西清明だった。
昭和二十三年の国体優勝を手土産にプロ転向した中西は、東洋無敵のフェザー級チャンピオン、金子繁治との四度にわたる死闘で名を挙げたダンディーなファイターで、著名人の贔屓も多く一時期は金子を凌ぐ人気者だった。すでに無冠とはいえ直近の二試合でKO勝ちしており、池山にとっては難敵だったが、好戦的であるぶん組みやすい相手と見られていた。
客席に陣取った早稲田大学の応援団が『都の西北』を大合唱する中、おずおずとリングに姿を現した池山は、観客からのヤジもない厳粛で公正なアマのリングとの違いに戸惑っていた。これまでも注目を浴びる試合は数多くこなしてきたが、観客席の盛り上がり方がこれまでとは全く違っていた。
これぞエンターテインメントという雰囲気に呑まれたまま、第一ラウンドのゴングが鳴ると、緊張して動きがぎこちない池山にいきなり中西の右ストレートが襲いかかった。
アマチュアのデビュー戦の時と同じくらい舞い上がっていたという池山は、フェザー級きっての強打者の一撃を浴び、もろくもダウン。場内は騒然となった。
中西の主武器は左フックだが、ライバルの金子が最も警戒していたのは速くて見えにくい右のショートの方だった。実際、金子はこの右が見えずにダウンを喫し、あわやKO負けのピンチに陥ったこともあるのだ。
しかし、アマ時代にも第一ラウンドのダウンから逆転勝利を収めたことがあるように、タフな池山はダウンによるダメージはほとんど感じておらず、これで目が覚めたか、すぐさま反撃に転じた。
結果は判定勝利だったが、KO決着を期待していたファンにとっては今ひとつ物足りない試合だった。むしろこの試合で株を上げたのは健闘した中西の方で、再び試合のオファーが急増した。
池山はボディから顎へのアッパーと続く素早いコンビネーションを得意とするインファイターである。反面、防御技術は未熟だったため、出会い頭のパンチをもらうことも多かったが、往年のピストン堀口のように打たれ強く、たとえダウンを喫してもそこからの回復力が驚異的に速かった。
昭和三十四年二月二十五日の酒井源治戦まで毎月にように試合に出場し、5連勝(2KO)の好成績を残していた池山だが、そこから九月四日のエキジビションまで大きなブランクをつくり、ファンをやきもきさせた。
条件が合わずに直前になって流れた試合も二、三あったそうだが、ブランクを作った最大の要因はアメリカ遠征がご破算になったことだ。四月頃、試合報酬二千ドルという好条件でのオファーを受けた益戸会長は早速交渉に入り夏場に渡米という線で話が進んでいたが、直前になってプロモーターがギャングから襲われて重傷を負い興行ができなくなってしまったのだ。
遠征試合に照準を合わせていた池山は、その間トレーニングを続けながら大学に通っていたため、いつの間にか日本ランキングからも姿を消していた。その一方で、かつては人気面で大きく水をあけられていた米倉が三十四年一月四日に史上最短となるデビュー四試合目にして日本フライ級チャンピオンの座に就いたばかりか、世界タイトルマッチの大舞台(パスカル・ペレスに判定負け)まで経験するに至り、今や矢尾板貞雄と並ぶ日本軽量級の二枚看板として絶大な人気を得ていた。
米倉の躍進が池山だけでなく益戸会長の焦燥感を助長したことは想像に難くない。
去る九月一日に日大講堂でプロ転向発表をした時には、人気横綱若乃花と花篭親方に挟まれてリングに姿を見せたほどのスーパールーキーを、このまま朽ち果てさせるわけにはゆかない。これは日東拳のみならす、日本ボクシング界の宿願でもあっただろう。彼らが池山人気挽回のために打ち出した仰天企画が東洋J・ライト級チャンピオン、フラッシュ・エロルデとのノンタイトル十回戦だった。
全盛期の金子には一度も勝てなかったとはいえ、金子をKOしたサンディ・サドラーから殊勲の星を挙げたこともあるエロルデは、十七歳で東洋バンタム級の王座に就いて以来「東洋の閃光」と崇められるフィリピンの英雄である。かつてスパーリングで善戦したレオ・エスピノサあたりとは比較にならないほど強い。
それでも米倉の快進撃を目の当たりにしている関係者は、彼以上の素質の持ち主と確信している池山が圧倒的不利の下馬評を覆すことに賭けたのだ。
昭和三十四年十一月二十六日、日大講堂に六千の観衆を集めて行われたエロルデ戦は、池山の猛ラッシュで幕を開けたが、スピードとリーチで勝るエロルデの前にパンチは空を切り続けた。
三ラウンドに入るとエロルデの左右連打が池山の左目を完全に塞ぎ、もはや勝負は誰の目にも明らかだった。
それでも、これだけ打たれながらパンチを繰り出す池山の余力を警戒してか、エロルデは不用意な打ち合いには応じずヒット・アンド・アウェーに徹していた。結局、池山は一度もダウンすることなく左目の出血が原因でレフェリーストップ。
いくらスーパールーキーとはいえ、この四ヶ月後に世界J・ライト級チャンピオンになるような男と対戦させるというのは無謀過ぎた。かつて並び称された長嶋茂雄がルーキーにして本塁打、打点の二冠王に輝き、プロでもスーパースターの名を欲しいままにしていることでライバル心を掻き立てられたのかもしれないが、長嶋の活躍はあくまでも日本球界の中でのことであって、当時のメジャーに入団していればレギュラーになれたかどうかもわからない。それに比べると、池山が目指すのは世界の頂点であってそこに立ち塞がるライバルは日本人だけではないのだ。
惨敗に近い内容であったにもかかわらずファンも同情的だったのは、エロルデと戦うのはメジャーリーグで四番の座を争うようなものだったからだ(エロルデは世界タイトルを十度も防衛する名チャンピオンになった)。
昭和三十五年六月二十日の再起戦で後楽園ホールに三千人もの観客が集まったのは、池山人気が健在であることの証だった。なにしろ同日大川寛が東洋J・ライト級タイトルの防衛戦を行った時の観客数が千五百人だったのだから、怪我によるブランクで日本ランキングからも姿を消したボクサーがメインエベントを張る試合としては驚くべき数字である。
三ラウンドまでの池山は佐々木史朗(日本ライト級十位)をラッシュで圧倒していたが、四ラウンドに偶然のバッティングで左瞼をカットしたのが命取りとなった。五ラウンド終了後にはレフェリーが試合続行は不可能と判断し、このペースでゆけば確実視されていた白星が掌からこぼれ落ちた。
勝利には繋がらなかったとはいえ試合内容は悪くなかったことで、日東拳は池山を再びロイヤルロードに乗せるためにまたしてもビッグマッチを用意した。
対戦相手に選ばれた日本ライト級一位の小坂照男は、目下破竹の二十連勝中と乗りに乗っていた。まだ十九歳の若さながら「エロルデに勝てるとすれば小坂しかいない」と言われるほど評価も高く、高山一夫と並ぶ帝拳の看板選手として人気もうなぎのぼりだった。
十一月七日、超満員の後楽園ホールで火蓋を切った叩き上げの若きエースと天才児の対戦は全く一方的なものとなった。池山が互角に打ち合えたのは二ラウンドまでで、後はさながら小坂のワンマンショーだった。
九ラウンドには小坂の左でカウント九のダウンを取られた池山はレフェリーストップされてもおかしくないほどのダメージを負っていたが、最後まで試合を捨てることはなかった。
これで三連敗の池山は完全にスター戦線から脱落した。年度末には大学卒業が決まっており、ここで引退して社会人になるかと思われていたが、連敗のまま終わりたくないのかまだリングに上がり続けた。
昭和三十六年四月十六日に酒井源治、七月三日にノエル・デ・レオン(比)にそれぞれ判定勝ちを収め、日本ライト級五位までランクを上げたまではよかったが、九月十四日に勝又行雄に敗れたのを最後にリングからその姿を消した。
なまじ打たれ強かったがゆえに試合数が少ないにもかかわらず眼疾を患い、めっきり防御勘が衰えたのは残念だった。
ゴールデンルーキーとして常にマスコミの注目を浴びていたにもかかわらず、自らがビッグカードで勝ち名乗りを受けることはなく、逆に池山戦を経てエロルデは世界チャンピオン、小坂、勝又も東洋チャンピオンへと飛躍していったのは皮肉としか言いようがない。
結局のところ「KOキング池山」という金看板は、対戦相手にとっては、高額報酬に加えて、勝てば世界に飛翔できるという特典付きの踏み台のようなものだったのかもしれない。
ハードパンチに対する警戒心よりも、一攫千金を狙う功名心で池山の寝首を掻こうと群がってくるハングリーボクサーたちの前では、折り紙つきのエリートも“狩られる”存在でしかなかったのだろうか。
アマチュア 通算三十八勝三敗(十八KO) プロ通算 七勝四敗(三KO)
千葉の貧しい農家の倅だった長嶋と長崎の富裕な商家のぼんぼんだった池山は、学生時代は日本スポーツ界の輝く星として並び称せられながら、プロ入り後は明暗をくっきり分けるなんて、やはり神様はよりドラマティックな展開がお好みなのだろうか。