喪失の間
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶつぶは、自分の家を隅から隅まで把握しているかしら?
アパートやマンションの一室とかだと、面積的な都合もあっておおむね理解できているという人も多いでしょうね。
一軒家で暮らした人だと、サイズは環境によるかもしれないけれど、すべてを行き尽くしたと言える人は少ないかもしれないわ。
物置、屋根裏、あかずのとびら……最後はちょっと大げさかもしれないけれど、親から出入りを禁止されているスペースとか、あったんじゃないかしら。
親にとっての貴重品や、子供が扱うには危うさがある品などからは、遠ざけておきたいと思うのが親心。へたに話すと興味を持たれるのではと、黙っていたら黙っていたで、子供が勝手にやってしまうかもしれないから、気が抜けないものよね。
私も小さいころに、経験したことがあるわねえ。家の中の妙な空間での経験。聞いてみない?
私の家にあったのは、2階の廊下沿いにあったクローゼット。
観音開きになるその扉の合わせ目には、物心ついたときから養生テープで閉ざされていたの。
合わせ目に沿って、縦に長く一枚。明るい緑色をしたテープには、赤いマジックかなにかで記号らしきものが書き記されていたの。
ここを開けないように、とは両親から聞いていたけれど、なぜかというのは教えてもらえなかったわ。でも、一度ここを開きかけたときに、これまで一度も怒ったことのないお父さんに怒鳴られて、ひっぱたかれて……「しちゃいけないこと」と本能に教えられたわ。
けれど、その中に何があるかは興味がわくもの。
養生テープ表面に描かれている記号たちに関しては、私の持っているものどころか、家にあった百科事典をひっくり返してみても検討がつかなかった。
いや、そもそも記号なのかしら? 私の感じている方向性は見当違いのもので、本来は向きが異なるか、それとももっと大きく区切るべきだったり、小さく区切るべきだったりするものなのか。
あるいは、更に別の意味が隠されているのか。謎を帯びながらも24時間365日おつとめを続け、いささかも粘着力をかげらせる兆しを見せない、ド根性養生テープを前に私のできることはそれくらいだった。
わずかなはがれさえも見せないその様子は、あたかも生き物の命をつなぐために動きを止めない心臓かなにかのように感じさせたわ。
そのテープの向こうを見ることになったのは、小学校5年生のころ。
下校からの帰宅直前数分前に、急激にトイレへ行きたくなった私は、玄関を開けるやランドセルを放り出して、トイレへダッシュしたわ。
一階と二階にそれぞれ一つずつあるトイレのうち、一階のものは故障中。二階へ駆けあがったわ。
けれど、あいにくの施錠中。階段をダッシュしたことで、決壊のときは明らかに早まっている。たまらず、私はドアをどんどん叩きながら、ジタバタと足踏みをして急かす急かす。
中にいる母から怒鳴られたけれど、自分がせっぱつまっているのだと伝えることの、なにが悪いというの? そして、水が流れる音を聞いたときの安堵感といったら、この上なかったわ。
母のあとへすぐさま入り、地獄から天国へのぼるような心地の時間を過ごす私。
すっきりした気持ちで外へ出て、そして見てしまったの。
くだんのクローゼット。それはこのトイレから見て正面右手にある。その養生テープすべてがぺろりと剥がれて、廊下の床へ落ちていたの。
つまり今、クローゼットは完全な無防備。
千載一遇、という言葉が頭をよぎった。
母はもう下へ降りて行ってしまい、父が仕事から帰ってくるのはまだ先のこと。
かといって、母がまたここへのぼってくるかは分からない。もしそうなればテープを元のように貼り直されてしまうのは確実。
――ちょっとだけ。ちょっとだけならいいよね。
自分がこれからする行いを正当化するために、はげまして。
私はずんずんと、クローゼットへ向かうと、その取っ手を握って開け放ったわ。
中には何もかかっていなかった。ただ鮮やかな木目を浮かばせる板材の表面が目に映るだけ。
中をじっくり見回しても、他には何もない。拍子抜け……なんていうのは、つかの間で許される心地だったとすぐに私は思い知ったわ。
私の視界は、あのクローゼットの底の板材のまま、固定されてしまったの。
クローゼットの戸を閉めたときに、すぐそれに気づいたわ。手触りなどは確かに戸を閉めているのに、目に映る光景はいささかも変化することがない。
あわてて、上下左右を見回しても見慣れた家の中はいっさい映ることはなく、ばかな私でも、大変なことになったとすぐにわかったわ。
わめいて母を呼んで、父に早く帰ってきてもらって……すぐに処置が施されたわ。
病院にいったんじゃない。自宅の布団で、眠りを促す薬を処方されて、ぐっすり眠って起きたの。
私の目にする景色に、家の中の様子が戻ってくる。でも、起きた時の布団は血だらけで、寝ている間にただならぬことが起こったのは悟ったわ。
それについて母も父も教えてくれなかったけれど、このときを境に父はメガネをかけるようになったの。視力については我が家で一番を誇っていた父がね。
父は私がひとり暮らしする前後に、亡くなったわ。
あのときのこと、結局聞けずじまいだったけれど、もし私の想像通りならお礼も謝罪もするべきだったのかも。その機会を永遠になくしてしまったのは、今でも心残り……。