桜守
「桜守さまの御成」
そう言われてわたくしは桜家の人たちが顔を下げているところに歩いてゆく。
あの日わたくしは二度と戻ってくることがないのだろうと思っていた。
けれどそれは予期せぬ主人の再来によってまたここに戻ってきた。
「桜守さまはあなたです」
そう指名されたのはわたくしがまだ三歳か四歳の頃だった。桜家の末端の分家の第三子に生まれたわたくしはそれまで桜守という存在を知らなかった。
わたくしは桜家に引き取られ桜守としての教育を受けることになり、元の仮名をなくし新たな仮名をつけられた。それが遠碧だ。
まず初めに教えられたのは桜守についてではなく姫巫女に尽くすことだった。それから姫巫女の歴史や神について教えられ、最後に桜守の役割を教えられた。
桜守は姫巫女に仕え、神の血縁である京家に尽くし、この二方は決して裏切ってはいけない。
桜守はただその2つのためだけに存在する。京家の、姫巫女の再来を待つのが桜守なのだと。
それは呪文のように刷り込まれて、いつしか疑うことすら無くなった。
さらに桜守には伝説があり、前の桜守の生まれ変わりが今の桜守である、というものだ。
そのあと一通り立ち振る舞いや言葉遣いなどを教えられて中央の後宮を見下ろせる桜家の別邸を与えられたのは六歳の頃だった。
それに伴い正式に桜家の人たちに桜守としてお披露目された。
「桜守さま。お久しぶりです。覚えておられますでしょうか」
そう人々が聞いてくる。わたくしは喋る必要はない。
人々は喋らないという反応から何かを読み取る。
ただの分家の第三子が当主より尊い立場になって、父と母とはもう何年も会っていなくて、京家も存在しなくなって、姫巫女さまにすら認識されていないかもしれない。
わたくしという存在は、多くの偶像によって形作られた遠碧という形はこのようにしてできた。
しばらくはそうして過ごした。
もう何年も一人で別邸で過ごし、髪が伸びてきて少し引きずるようになったころ、わたくしは一人の友と出会った。
桜守の館に迷い込んできた少し年下の女の子。商人の娘でもうそろそろ結婚するのだと笑っていた。
「あなたはどうしてここにいるの?」
「わたくしは尊いお役目があるから、ここを離れられないの」
けれどその子はわたくしを外へ連れ出した。
商人や町人向けの異国風のスカート型の服を買って、簪を買って。
楽しかった。
何もかもが新鮮で、初めて見る人ばかりで、買ってもらったものはどれも美しかった。
けれどわたくしには誰に言われたでもない予感があった。
この服や簪を大人に見られてしまったら取り上げられて、捨てられてもう二度と外には出られないと。
だから隠した。
徹底的に隠して、見つからないようにして。
そうして三ヶ月ほどは平和だった。
けれどある日その子は約束したところにやってこなかった。
嫌な予感がして物を念入りに隠して屋根の上に登ってその上に立って町を眺めた。
風が頬を撫でて髪を靡かせていた。
「桜守さま、そのようなところにおられては危ないですよ」
そうしたから声をかけてきたのは何回かここに様子見にやってきたことのある桜家の使用人だった。
「お久しぶりです。本日は来られる予定ではなかったと記憶しているのだけれど、どうかしたのかしら?」
その人はまるで自分が正しいと思っている笑顔で、悪びれもせず言ったのだ。
「桜守さまを誑かす不届者の店を潰して参りましたことをご報告に。」
まさか知られていたとは。
「なぜあなたがそのようなことを?直接手を下さずともよかったでしょうに」
その人はまだ笑っていた。目も、顔も笑っていて、本当に楽しいのだと伝わってきた。
「桜守さまを誑かす者など一刻も早くいなくなった方がよろしいでしょう?」
それからわたくしはひたすら屋敷に閉じ籠り、屋根の上に立って町を眺めるのが好きになった。
多くの人から尊ばれ、畏怖されて利用される桜守。
ただその伝説が偶像を作りだれもわたくしを見ない。
だからわたくしにとって唯一の希望となりえたのは主人である京家の人々だった。
わたくしを受け入れてくれるかもしれないと考えて過ごす日々は夕焼けの町とともに過ぎて行った。
けれど引きこもりには限界があるもので、服がだんだんと小さくなり市井に買いに行かなくてはならくなってしまった。
仕方なく昔あの子に貰った異国風の衣装と簪を身につけて市井で買い物をしていると、明らかに上流階級の服を着た人がうろついていた。
その衣はわたくしがどれほど見たいと願った、黒色だった。
それが、わたくしと小夜の出会い。そしてわたくしの存在意義が見つかった瞬間だった。
彼女を支えることがわたくしの存在意義。生まれてきた意味。
きっと一目惚れに近かったのだか、前々から会いたいと渇望していたため一目惚れとも少し違った。
わたくしは桜守として後宮にも出入りでき、華の方とも会うことができた。
それを使って必死で小夜を支えた。
どれだけ小夜を待ち侘びていたかわからない、唯一のわたくしの主。
彼女は決して美しくはなかった。けれどその振る舞いや気遣いは綺麗で見惚れてしまった。
けれどわたくしはいつまでも小夜と共にいることなど不可能だった。
なぜならわたくしは一番大きな“わたくし”を隠していたから。
だから一度桜家に戻ることにした。
わたくしは小夜にわたくしとして向き合いたいと思い始めていた。
桜守・遠碧ではなく、わたくしとして。
それを叶えるために、わたくしは一度小夜の目の前から姿を消す必要があった。
初めて出会ったわたくしの存在意義。わたくしがわたくしとして向き合いたいと思った人。わたくしにずっとそばにいたいと思わせてくれた人。
そのためにわたくしは小夜の元からさった。
そして二度と戻らないと思っていた桜家の門をくぐり、わたくしは”家族”と決別した。
わたくしが家族よりも守りたいと思った人を優先させて。
この小夜を思う気持ちには偽りはない。焦がれていた、渇望していた。この想いは、命をかけられるものだ。