玉繭,下
新たな皇女が現れたのは、出会ってから二年ほどした後だった。
調べ物のために図書棟に行っていると遭遇したのだ。
黒い衣を羽織った小さな女の子。
けれどその目には私たちにあるような世界への絶望感はなかった。
幼かったからからもしれないが、それでも姫としての諦めのようなものは感じられなかった。こちらと交渉してくる小夜という侍女は自立した人だった。
官吏として働く人たちの自立とも宣旨たちの自立とも違う、強がらなくて強くなくて自立した人だった。
それが、無性に羨ましいと思ってしまった。
「小夜、と言いましたか。あなたは元々どのような出自なのです?」
薄い髪に黒い衣。そんな正体不明の人だったが、興味を持ったのはある意味必然だった。
「本来は蘭家筋ですが、今は別の立場として振る舞っております。」
その立場は、おそらく京家だ。
解体された京家。繭が姫巫女として背負う重荷を作り出した張本人たち…
「そうですか。では、なぜあなたは自立しているのですか?」
むしろ小夜の方が首を傾げる番だった。
「他の家では珍しいと伺いました。女性当主の家とは。」
それが京家だと。
その日、繭姫さまは珍しく縁側に座っていた。
「あら、どうかしたの?」
「いえ、月見でも。」
私が暖かいお茶を差し出すと繭姫さまはその手を伸ばして受け取った。
「熱いわね」
「ゆっくり飲むものらしいです」
二人でのんびり過ごす。
そういえばこんな時間初めてだ。
「ねえ、双葉。あなたはなぜわたくしが蚕を育てるのだと思う?」
そういえば考えたことがなかった。当たり前すぎて。
「”繭”姫だからとか?」
繭姫は首を振った。
「順番が逆よ。蚕は、繭になって回収された後どうなると思う?」
「煮られる」
繭姫はくすくす笑ってお茶を少しすする。
「まあそうだけれど。はじめにね、上繭と屑繭に分けられるの。屑繭はよごれたり、中で蚕がしんでしまったりしたもの。」
うすいせんべいはほんの少し塩味だった。
「中で死んでドロドロになっても、外からはわからない。わたくしがどろどろになったところで、気が付く人は誰もいない…」
繭姫はお茶を一気に飲み干した。
「蚕はね、孵化しても飛べないの。にんげんが飛べなくしてしまった。孵化してただ子を残すだけ。」
どれだけ大人になったところでけっきょく子供を残すことしか求められていない。
そうして利用されるか、煮られるか。
けれど飛べる環境があると知ってしまった。飛べる虫がいるのに、身分が邪魔をして飛ぶことができない。
「双葉には教えるけれどね、わたくし、誰とも結婚する気はないの」
ただにこにこしている繭姫。
「どうして?」
「嫌になってしまったのよ。お母さまは結婚しても思い人を思い続けたのに相手は別に子供がいる。鈴泉皇后は、誰よりお父さまを思っていたのについには天羽になれなかった。」
すらすらと、淡々と述べていく繭姫。
「一人で生きていくのは不安よ。結婚を否定する気はないわ。けれど…」
なんとなくわかる。”兄上様”がああなのだ。
「双葉は?入内、嫌じゃない?」
わからない。もう嫌とかそんな話ではないぐらい、入内は言ってしまえば元服と同じぐらい私には当たり前のことだ。
「そう…それがいいことかはわからないけれど、わたくしはあなたの幸せを祈っているわ。」
そして、わたくしは入内のために一時帰宅することになった。
「久しぶりね。さあ、入内までに用意することがたくさんあるから、今日ぐらいはのんびりしなさい。」
お母さまに出迎えられて、久しぶりに戻ってきた水家は驚くほど変わっていなかった。
「後宮では何かあった?お母さまに話してごらんなさい。」
お母さまはにこにこしている。
「お母さまは」
思わず口からこぼれた。
「お母さまは、結婚が嫌ではかった?」
お母さまは少し考えて、切り出した。
「あのね、嫌ではない方がおかしいのよ。反発したわ。弟から決められた縁談だったけれど、あったことがなかったもの。」
お母さまは懐かしいとでもいうように目を細める。外には鳥が止まっていた。
「でも、あのまま後宮にい続けることなんてできなかったし、楽しそうだったもの。」
「楽しそう?」
お母さまは頷いて窓の外を指す。
「海を見てみたかったから」
水家本邸からは海が見える。とはいっても遠くに小さくだが。
「あんまりしっかりとした理由ではない」
「それをいっては元も子もないけれど、当時15,6歳だもの。」
お母さまは幼い時にここに来た。
わたくしは姫巫女さまを守るために、後宮に行く。
大切なものを守るというのも、しっかりとした理由だ。
ねえ、私はひどく虚しいよ。
私は男性に頼らなければ生きていけない。そのために身を滅ぼした人なんていくらでもいる。
けれど女性でも自立できるのだと知ってしまった。
形骸化した役割に興味はない。ただ、自由に振る舞いたいだけ。
そのためだったらなんでもしてやる。
たとえ風宮を傀儡にすることであっても。
あなたを守れるのならばなんだっていとわないから。