玉繭
「あなたの一生は、きっと屋敷の中だけで完結することでしょう。それに甘んじず、その中で恥じないようにしっかりと振る舞いを身につけるのですよ。」
そう、お母さまから聞いたのはまだ四つにならない頃だった。
「なぜですか?」
その言葉の意味を、今の私は痛いほどよく知っている。
「お初にお目にかかります。火羽の資格を所持しております、華水の双葉と申します。」
はじめて姫巫女さまに出会ったのは私が十五、姫巫女さまが十三の時だった。
姫巫女…国内唯一の神祇官として政治にも参加でき、天羽の資格を取得することが皇后と後見人にならんで認められている。控除の中から選ばれ、確か姫巫女さまの前は華宮の御方だった。
「初めまして。ちょうど良い時期に来たわね。あなたには蚕の世話を頼むわ。」
姫巫女さまの衣は薄紫のを何枚も重ねていて薄くなったり濃くなったり煙のような模様が浮かんでいて、髪は漆黒で背よりなお長く豊かに流れ、その目は薄茶色で、本当に美しい人だった。
そしてしばらくは二人で蚕の世話に明け暮れた。
宮には姫巫女さま一人しかいないと聞いていて、本当にその通りだったのだが、それにしては蚕が多かった。
姫巫女さまはただ一人で淡々と蚕の世話をしていて、私は主に桑の葉を取ってくることに明け暮れ、二日目には体が痛くなった。
「蚕が忙しいのはこの時期だけだから。」
そう言ってせっせと蚕の世話に明け暮れる姫巫女さま。
蚕室の中は蚕が葉を食む小さな音に満ちていた。
二週間して、いくつかだけを残して繭が回収されていった。
「膨大な量ですね。お一人で後宮内のものを全て?」
姫巫女さまは首を振った。
「これはわたくしの趣味。蚕室は別にあるわ。わたくしはお裾分けをいただいているだけよ」
霊宮の隣にある蚕室はここよりはるかに多い蚕が育てられているらしい。
これより多いのは、どれだけの桑の葉がいるのだろうか…
そうだ、と姫巫女さまは立ち上がった。
「今から朝議に参加するから、ついていらっしゃい」
そう言って中に入って正式な服に着替えて出てきた。
裳唐衣をつけない形だったが、今の上流階級としては異例なほど衣を身につけていた。
私も慌てて水色の羽織に着替えて、姫巫女さまの後に続く。
「姫巫女さまの御成」
そう言って使用人に帷を開けさせる。
姫巫女さまは華の方の隣の部屋に御簾を降ろして座り、私はその後ろに立つ。
御簾越しに本当に久しぶりにお父様を見た。
普段は都の屋敷にいて、本邸にはあまり帰ってきていないのと、私が奥に引っ込んでいたからだ。
朝議に関して、姫巫女さまが意見するようなことはなかった。
神祇官とは言っても政治に意見するわけではないのだと姫巫女さまが後で教えてくれた。
「先代の頃はそうでもなかったらしいのだけれど。」
先代とは、姫巫女さまと並んで現在唯一天羽の資格を持つ御方。
後宮の頂点に立つお方だ。たしか三代前の華の方の皇女だった。
「双葉、兄上さまにお会いする?」
姫巫女さまがそう聞いてきたのはここにきて二週間も経たない頃だった。
「姫巫女さまの兄上さまと言いますと、風宮さまですか?」
ええ、と姫巫女さまは頷く。
「あなたのような身分の人がここにくるのは後々入内するからなのだと聞いたわ。なら、お会いするべきではない?」
そう言ってさっさと面会の日取りを決めてしまった。
東宮、風宮さま。
水羽で華風の鈴泉皇后の御子であり、唯一の華の方の男皇子。
私が入内するお方だ。
「繭、どうかしたのか?」
開口一番繭姫の元へ几帳をかき分け入ろうとするという礼儀を失した行為に完全に風宮さまへの信頼も期待も打ち砕かれた。
「おやめくださいませ」
静かに声をかければ、風宮さまの目がこちらを向いた。
「おや?繭には侍女をつけていないはずだが、其方は何奴か」
服装を見て気が付かないのかこの人は。
「失礼いたしました。華宮の御方によりこちらに参りました侍女でございます。火羽の資格を所持しております、華水の双葉と申します。」
華水、と聞いただけでわかる苗字に風宮は納得したようだった。
「其方が私の妃か」
「まだ入内しておりません。」
この人は、どこまで私たちを侮辱すれば気が済むの。
「まあよい。それより繭と話したいから、其方は席を外せ。」
そう命じられては離れないわけにはいかない。
几帳の内に入って姫巫女さまに伝えようと思うと、姫巫女さまは震えていた。
「姫巫女さま?いかがなさいましたか」
姫巫女さまは震えながらも前を向いていて、それが余計痛ましかった。
「申し訳ありません。姫巫女さまの具合が悪いそうなので、ご退出願います」
けれど風宮さまは下がらない。
「なんと。それは私の力が必要であろう。」
ああ、どうして話が通じないの。
困り果てていると、奥から姫巫女さまの声が聞こえた。
「兄上さま。本日は兄上さまと双葉との面会の場であります。わたくしはただこの場を設けた者としてここにいるだけでございます。双葉が不快な思いをするのなら、どうぞお引き取りください」
風宮さまは呆気に取られて几帳に手を伸ばした。
けれどその手が几帳に届く寸前、姫巫女さまがまるでわかっていたかのように声を出した。
「おやめください。もしやめないのであれば、わたくしの宮に二度と兄上さまはお呼びいたしません。それでもよろしければ、どうぞその几帳を退けなさい」
風宮さまは渋々諦めて帰って行った。
「ごめんなさい。兄上さまはいつもああなの。」
諦めように笑う姫巫女さま。
そこにはどうしようもない憤りがあった。
「けれど、どんなに嫌っていても風宮さまを受け入れるしかないのですよね。」
私たちは男性なしでは生きていけないから。
姫巫女さまは困ったように笑っただけだった。
「それと双葉。いつまでもわたくしを姫巫女と呼ぶのはおやめなさい。」
まだ笑っていたが、今度は嬉しそうな笑いだった。
「わたくしの仮名、繭姫と呼ぶことを許可します。そして、二人の時は側仕えとして振る舞わなくても結構よ。あなたは火羽なのだから。」
それは、姫巫女さまが初めて見せてくれた歩み寄りだった。
「なぜ、それを許可したの?」
姫巫女さまはもうこちらを見てはいなかった。
「あなたはわたくしを守ってくれたからよ。」
繭について色々なところに行った。
図書棟、廃宮、霊宮。
そしてほとんどの桜宮の部屋を使えるようにしたが、唯一一つの階段だけは決して入らせてはくださらなかった。
「双葉、わたくしの母上について何か知っていることはあるかしら?」
繭の母というと、玉兎妃か。
「‘とある罪’を犯して身分を剥奪されたのですよね」
そう、と繭はつぶやいた。
「では、近いうちに会いに行きましょうか。」
玉兎妃と出会ったのは、少ししてからだった。
予想通り桜宮の地下の座敷牢に居た。座敷牢とは言っても十畳はあって、食事も日光もしっかりしたところだった。
「あとは二人で好きにしてもいいわよ。」
そう言って繭はさっさと帰ってしまった。
改めて玉兎妃を見つめる。
今では見る影もなく痩せているがきっと昔は美人だったのだろう。けれどこの人は愚かな真似をした。それに同情する気はない。
「繭姫は、元気でやっているかしら?」
「繭姫は何か困ってない?」
そうやっていくつも聞いてきた。
ほんとうにお母さんのように見えて眩暈がした。だって、密通した人なのに。
「繭をよろしくね。」
戻ると繭姫が待っていた。
「明日にでも、お兄さまに会いに行きましょう。」
風宮さまは兄上さまと呼んでいた。つまり別人?でもそんな人いたかしら。
案内されたのは廃宮、幽宮だった。
ここは罪人が送られる宮で、宮女も一人しかいないはず。なぜこのようなところにお兄さまがいると言うのだろう。
「お兄さま、お久しぶりです」
部屋の一つ、一際大きなそれでいて手入れされていない部屋に繭が声をかけた。
その中には私より大きい、でも風宮さまより痩せている男の人がいた。
「繭姫さま。いかがなさいましたか」
完璧な敬語。一体どこで習ったと言うのだろう。
「いいえ。久々に顔を見るために。お元気ですか?」
話している間にその人の容姿を見て驚いた。
これほど桜家を強調した容姿の人はそういない、というより不可能なほど桜家の特徴が多かった。
色素の薄い髪と目、日に焼けにくい白い肌。
繭も玉兎妃は桜家だが目の色がほんの少し薄いだけ。これほど濃いのは、ありえない。
そのあと繭は一言二言交わして宮に戻って行った。
「あの人はお兄さま。名は佑。仮名か諱かは知らないわ。わたくしとお母さまが同じ兄よ」
お父様が同じとは言わなかった。つまりそういうことか。
「あの人はやけに桜家の血が濃かった。父は桜家の人なの?」
けれど繭は斜め下に視線を動かした。
「桜の方よ」
それは、玉兎妃の弟君。
納得はしたが、それ以上に嫌悪感が込み上げてきた。
嫌な思いは言葉にならず、けれど一つの言葉を見つけるとどんどんそれが膨らんでいった。
気持ち悪い。
風宮さまの態度も、姉弟で密通する愚かな玉兎妃も、みんな気持ち悪い。
けれど私はここで生きていくしかない。
それがひどく虚しいことのように思えた。
何度目かの朝議で私は思い切って違和感を口に出してみた。
「姫巫女という存在は、なに」
繭は首を振った。
「神祇官の長。けれど求めているのはこれではないのでしょう?」
さすが繭。
元々3代前まで神祇官がいたのだ。なのに別で皇女を神祇官にする必要なんてない。
なぜ存在するのか。なんのために存在するのか。
「それを解けば、きっと次の姫巫女は苦しまずに済むわね。調べましょうか」
現在実質後宮を管理しているという六花姫とは割と早い段階で遭遇した。
ある意味繭より完璧な皇女としての振る舞いをする、火羽の人。
けれどそれが憎めないほど慈悲深く綺麗な人だった。容姿が、ではなく振る舞いが。