勿忘草、夕月
あたしには、本当に小さなころの記憶がある。
みんなが集まって、勉強していて、一人の年上の子が優しかった。
彼女たちがどうしてああして勉強していたのか、そもそもあたしは何者だったのか、今ではもう忘れてしまって思い出せない。
「夕月、あなたもいよいよ独り立ちね。」
師匠が言う。
今日、師匠から離れて師匠の姉妹弟子の弟子、従姉妹弟子の美玲と行動を共にすることになる。
小さなころに一度会ったことがあるらしいが覚えていないのでほとんどはじめてになる。
「いいえ。あたしは二人立ちをする。」
師匠は苦笑いをする。
「あなたはむかしの私そっくりね。」
そう言ってほほに手を添えられる。
「どうかそのままつぶされないでね」
「初めまして。美玲と申します。」
美玲は厳格そうな顔をしていた。
厳しそうに眼が吊り上がっている。4つ年上だと聞いていたから、少し怖い。
「よろしくお願いいたします。」
そうして独り立ちしたのだ。
まず行くところは3日かかるところだったので2人で初の旅になった。
道中、小さな女の子がこけて泣いていた。
美玲は通り過ぎようとしたがあたしは蕾を手に取ってその子のもとに駆け寄った。
そして取り出した花は、見事に咲いていた。
あたしが有名になったのは、独立しばらくしてから経った後だった。
曰く、花咲く白拍子がいる、と。
有名になって、嬉しかった。
沢山のところで舞って、人と交流して、本当に順調だと思っていた。
それを怒られたのは、二月経った頃だった。
「なんでそれが悪いの。有名になってるじゃん!」
けれど美玲は悲しい目をしたままだった。
「それが本当に私たちを見ての有名さなら受け入れたことでしょう。けれど、今はあなたが見せ物になっているだけで私たちの本質など人は何も見ていない。」
言っていることが理解できた時、血の気が引いた。
わかっていたはずだったのに、嫌だと思っていた。私たちの実力だと思っいたがっていた。
「でも、できない。あたしはこの力をあたしの意思で操ることができないから」
そう、それが唯一の欠陥。
心が動いたときに発動するが、心が動いても発動しないこともある。
そんな言い争いを何度も繰り返した頃、後宮に呼ばれた。
「やったね」
美玲も喜んで、二人でワクワクしながら最寄りの白拍子協会で過ごしていると、二人の師匠に出会った。
あたしたちが別行動になってから、険悪そうな仲だったのに何がどう転んだか姉妹弟子の二人は一緒に行動するようになって、火聖羅として活動している、というようなことを話して過ごした。
「私たちも昔後宮に行ったよね」
「師匠の付き添いとして」
そんな二人の話と、あたしたちの師匠の師匠、先代の阿国についても聞けた。
「私たちの師匠をしているときも、もう白髪のおばあちゃんだったんだよ。」
「礼儀作法には厳しい人だったわ」
そうやって二週間過ごして、後宮に行った。
後宮…
華の方の妃とその側仕えと女官吏である宣旨が住まう女の園だが、内部と華の方の許可があれば男でも入ることができ、ある程度の身分があれば宮女を下賜されることができる。
他の国の後宮はもっと厳しいらしいが、この国では緩い。
過去に過ちもあったらしいが、それでも規制は強化されなかった。
やけに木が多くて、それぞれの宮は簡素だが贅を尽くしたものだった。
一番下の使用人の宮女でも上流の証である丈の長い着物を着ていた、水干姿のあたしたちが惨めに見えた。
「始めよう」
美玲の言葉にあたしも手をあげる。
終わった後は束の間の自由時間になって、後宮を探索することにした。
林の奥に行ってみるのが楽しそうだったので桜宮から枯れ葉を踏みしめながらまっすぐ続く道を進む。
たどり着いたのは、真っ黒な宮だった。
なぜか周りには桜の花びらが散っていて、宮は黒一色で豪華な模様が彫られている。
そんな馴染みのないところなのに、なぜかとても懐かしかった。
「白拍子?」
上から声がした。
黒い衣を纏った黒い髪の人が階段の上からこちらをみている。
「白拍子夕月と申します。」
その人はコツコツと音を立てて階段を降りてきた。
「そう、あなたが…」
そうして手を伸ばしてきた。
キラキラ輝く黒い衣。そこにはいくつか花の模様が描かれていて、内側の衣は白一色。
「あなた、何か困っている?当てようか」
にっこりと笑うその人は、綺麗だった。
「あなたの能力?」
言い当てられて、目を見開いた。
その人はくすくす笑う。
「大丈夫。わたしもあなたと同じで能力がある。わたしは精神感応。」
優しげに笑う彼女は、一枚の紙を差し出した。
「もし本当に力をなくしたいほど困っているのなら、ここに行けばいい。そしたらきっと助けてもらえる。」
そこには、京家と書かれていた。
「あなたは、誰?」
彼女はほんの一瞬だけ、雰囲気が揺れた。寂しそうに、泣き叫んでいるように。
けれどまたにっこりと笑った。
「京宮の侍女。」
その後また引っ張りだこでしばらく忘れていたが、たまたま近くにある母校に寄る機会があった。
母校、とは言ってもあたしたちは特殊でほぼ通っていなかった、花街の梅林楼閣だ。
「ここが母校なんだね」
という、おおよそ母校に対しては使わない感想を抱きながら四日過ごすことになったので、京家に行ってみることにした。
京家ー
崖に建った屋敷。
一つの貴族の屋敷より少し小さなぐらいの大きさで質素な感じだった。
近くには池があって餌やりの小さな女の子が一粒一粒ゆっくり餌をあげていた。
美玲は後輩の指導といっていないので一人だ。
「ごめんください」
そう声をかけると、だいぶ間が空いてから門が開いた。
「はい」
中から出てきたのは黒い衣を纏った三十ぐらいの女の人だった。
長い髪を三つ編みにしている。
「すみません、ここを訪ねるように言われた白拍子夕月と申します」
夕月、と名乗ったときにその人はとても驚いて、慌てて奥に引っ込んでいったのでまた待ちぼうけを喰らう羽目になった。
もう一度出てきたのはそれから魚が餌を四つ食べた後だった。
「申し訳ありません。当主さまがお会いになられるそうなので、ご案内いたします。」
そうして案内されたのは、今まで入ってきたどの屋敷より簡素な間だった。
普通に豪華なのだろうが、なにせここ十年ほどで目が肥えてしまって、物足りなく映る。
「久しぶり、夕月」
そう声をかけてきた当主はやはり黒い衣で、なぜか顔をヴェールで覆ってしまっていた。
「初めてお会いしたと認識しておりますが…」
「ああ、忘れたのも無理はないわ。夕月がここにいたのはほんの四歳までだものね。」
懐かしいわと微笑む当主は、あたしと殆ど変わらない年齢に見えた。
「それで、何か用があるのよね。」
そういえばと思い出した。
「わたくしはこのあいだ後宮に行って参りました。その際、京宮の侍女より能力で悩んでいるのならここに来いと言われて参りました。」
そうなの…と当主は少し間を置いた。
「あなたはその能力をどうしたいの?」
「なくしたいです」
悩む暇もない。
こんな力、ない方がいい。
そう、と当主は目を伏せてあたしを連れてきた人に何かを囁く。
「さて、来るまで少し時間があるから、おしゃべりしましょうか」
そう言って当主は段を降りてこちらにやってきた。
「ああ懐かしいわ。もう十五年ほど前なのよね」
そう言って当主は笑う。
「あの、わたくしはなぜここにいたのですか?」
当主は少しだけ首を傾げた。
ヴェールにつけられた鈴がちりちりと鳴る。
「あなたは、私達と同じ、京家当主候補だったの」
初耳だ。それに、私達?
「もし気になるならここに来なさい。あなたの力の対処法も教えてあげられるから。」
ちょうどそのとき後ろから人が戻ってきた。
「本当に封印してもいいのね?」
あたしは迷いなく頷いた。
当主は箱から琥珀色の石を取り出した。
「少し変な感じがするかもだけれど、耐えていてね。」
そう言って親指ぐらいの大きさの石をあたしの額に当てた。
抜けていくような感覚があるのかと思ったが、逆に当主の熱が入ってくるようだった。
やがてそれが消えたとき、琥珀色の石は真ん中あたりが赤くなっていた。
「これでいいわ。今日はもう戻れないだろうから、泊まって行きなさい」
外を見ると、もう夕日が沈む三分前ぐらいの明るさで、なるほどこれは今から戻れないと判断してお言葉に甘えることにした。
その日、夢を見た。
まだ小さなあたしが四歳ぐらいの子と二十歳ぐらいの女の人とおばあちゃんに囲まれている様子、一番年上のお姉ちゃんが倒れる様子、お葬式、稽古の始まり、能力を出さないように言われて能力に関する教育が停滞し、舞にのめり込み、逃げ出すあたしが。
朝、まだ日が上らないうちに起きて、服を着替えて日の出で明るくなった頃に外に出ると、当主がいた。
「あら、早いのね」
「はい。」
当主はヴェールをかぶっていなかった。
光に照らされて逆光でよく表情が見えない。
「もし、戻ってきたくなったらここに来なさい。いつでも歓迎するわ。」
そう言ってくれて、嬉しくなった。
親もいない、家もない、信念もない。そんなあたしが、帰る場所になると言ってくれて。
「はい。」
思わず笑った。
いつぶりだろう、笑うのは。
「そうそう、これ。」
そう差し出したのは、昨日の石が入った鳥籠のような飾りの首飾りだ。
「もし能力を戻したいと思ったら、これを飲めばいいわ。大丈夫、痛くないから。」
そう言って渡してくれた。
受け取った首飾りは暖かくて、あたしは頭を下げて一目散に戻っていった。
「おかえりなさい。」
美玲は怒りを滲ませながらも出迎えてくれた。
「ただいま」
なんだかスッキリした気分だ。
「ねえ美玲、早く次のところに行こう。」
けれど次からは人気がどんどん落ちていった。
いや、今までが異様であっただけで今も相当売れっ子と言えるが、それでも落ちた。
あたしたちの舞を見た人たちは、決まってこういった。「これは花咲く白拍子ではない」と。
やがてそう呼ばれることに嫌悪感を示していた美玲すら、あたしに花を咲かせろと脅すようになった。
「あなたが花を咲かせさえすれば私達は有名になれるのです。」
「元々それが嫌だと言っていたのは美玲じゃない!なんで今更否定するの。あたしは美玲のために封印したのに!」
そうやって、あたしたちの仲はボロボロになっていった。
それでも一緒にいた。
美玲には、本当に帰るところがないから。
「あたしが花を咲かせれば、美玲は満足なの?」
美玲は目を逸らした。
そうではない、ただ売れたい。
阿国の名に恥じない白拍子でいたいと思っているのは、あたしがいちばんよくわかっているつもりだ。
でも…
あたしはその日、石を飲んだ。
痛くないどころか、くちに入れた途端跡形もなく溶けていくような感じがした。
そして、花が咲くようになった。
「美玲、見ててね」
芝生の中、足を踏み出す。
その途端、木々には季節関係なく花が咲き、草が青々とした緑の葉をつけ、花が咲く。
みんな息を呑む。
けれど、と思う。
あたしの舞を見て。こんなに練習したの。
舞で阿国の資格を取ったの。
ねえ、あたしの、本当のあたしの価値を見て。
そしてあたしは水干を脱ぎ捨てた。
黒い屋根が崖の上に見える。
あたしはそこへまた一歩踏み出した。