枯橘物語
今となっては昔のことでございますが、左京区の外れに住む大夫の御屋敷がございました。特別に優れたご身分の方ではございませんでしたが、まことに栄耀溌溂として、優れた漢学者の家柄でございました。先の殿は紀伊守をご立派にお勤め遊ばされ、現在の殿は式部省にお勤め遊ばされております。
穏やかなお屋敷でございまして、殿にはすでにお世継ぎの若君がお一人、少々潔癖な姫君がお一人いらっしゃいました。
いつものように、殿がお勤めにお向かいになりますところ、釣殿から姫様の悲鳴が響いたのです。殿は慌ててご様子に伺いに釣殿へと参ったのでございますが、そこには姫様と尼女房様がいらっしゃったのです。
釣殿から見える庭先には目立った異変はございませんで、池と雪に埋がえた山橘があるだけ。となれば何事があったかと申し上げれば、当然釣殿の中という事にございます。
扇を取り落とし御顔をお晒し遊ばした姫様に、殿は扇を拾いお渡しになると、お諌め遊ばして仰るには、
「はしたない声など出してどうしたのだ」
とのこと。姫様は顔面蒼白のまま、尼女房様を指し示しつつ、お答えになって曰く、
「婆様が手折った花を食べてしまわれましたの!父上、どう致しましょうか」
とのこと。確かに、尼女房様は花瓶にお向かいになりつつ、何かを咀嚼していらっしゃるようでした。
殿がご確認遊ばしたところによると、枝からこぼれた椿のお花を、お召し上がりになったとのことでした。殿が尼女房様にお優しく語りかけて仰るには、
「母君、そのようなものは食べてはなりませんよ。お体に障ります」
対して、尼女房様はお口をおすぼめ遊ばして、「美味しいお漬物でございますね」などと仰せになりました。口の中から覗く椿の花の、無惨に潰れたありようは、確かに恐ろしげな舌がいくつも覗かれるよう。これは困った、と殿は御皿をご用意遊ばして、尼女房様の口からお花を御取り除き差し上げました。すると、先ほどまでおっとりとしておられた尼女房様は、「やめて、殺される!!」などと悲痛に御叫びになる始末。殿が「殺しなど致しませんよ、お口のお掃除にございます」となれたご様子でお世話遊ばすのを、姫君は怯えながらご覧になっておられました。
騒動も落ち着き、対屋に御戻りになった尼女房様をお見送りになると、お二人は庭先の橘の木をご覧遊ばしつつ、しばらくお話しになった。
「父上も、婆様のご様子をちゃんと見て差し上げて。お勤めもそうですが、侍女も私も気が休まりませぬ」
「そうは言っても仕事は休めぬからなぁ」
「もう・・・!なら太郎にもそのように申しつければ良いではありませんか」
太郎とは、殿の若君のことにございます。姫様とは歳の差は4つ。まもなく元服という事もあり、大学寮の文章生を目指して漢籍の御勉強に精を出しておられるところです。
そういうわけですから、殿も容易く「あいわかった」とは申し上げる事もおできにならないのです。
「そうは言ってもなぁ・・・」
「父上そればっかり!!」
そのように散々にお諌め遊ばした後、姫君は庭先の橘の木をご覧になりながら、さらに白い息を吐くのでございます。
橘の木には雪が埋がえております。朝焼けを受けた白露が葉先からそっと垂れ、凍てつく中でも光り輝いております。艶々とした葉も見事に手入れされており、橘色の実が艶やかに実っておりました。
「特別に美しい花というわけでもないのに、どうして婆様は橘の木がお好きなのでしょう」
「ん?」
「世の中には梅や藤、山桜など美しい花は色々ございます。まして橘は夏の花でしょう。でも婆様がご覧遊ばすのはいつも、冬の橘にございます」
「橘始黄」
などと、殿が仰せ遊ばしたので、姫君も小首を傾げてお言葉の続きをお待ちになる。ところが、殿はしばらく白雪の化粧を受けた橘をご覧になり黙り込んでいるばかりでした。あまり思わせぶりになさっては、姫君がご機嫌を損なうので、殿はようやく微笑みを姫君にお向け遊ばして仰るには、
「お前も夫を取ればわかるかもな」
とのこと。姫君がしつこく意味をお伺いになるものの、その甲斐もありませんで、殿はお勤めに行っておしまいになったのでした。
「もう、なんだというのですか!」
姫君も、お怒りのままに廊下をお上りになる。対屋には尼女房様とおつきの方しかおられません。
北の対におわしますお方様も、間もなく顔を見れなくなる若君を大層お可愛がりになっておられて、姫君や尼女房様のご様子にまでお気を配れぬご様子でございました。
とはいえ、それでは面白くない姫君は、お屋敷のうち、人のいらっしゃるところ、まぁ、従者などを呼び寄せればよろしいのですが、それではお気が収まられぬということで、尼女房様のご様子をお伺い遊ばされたのでございます。
尼女房様は、橘をよく御覧になるので、釣殿と繋がる東の対におわしました。侍女などが尼女房様の褥を囲んで、色々とお世話をなさっておられる。
当の尼女房様は、どこをご覧になっておられるのか、またご自分がどこにおいでなのかもわからないご様子。
姫君のご訪問ということで、お仕えの者どもはいずれも場所を開け、姫君を尼女房様のお側にお招きになる。ところが、尼女房様は姫君をご覧にもならない。どうも呆けておしまいのようでございます。
「婆様、橘の木がお好きなのでしょう?どうしてお好きなのですか?」
と、姫君。すると尼女房様は
「おやかわいい姫様。どこのお方かしら」
とのこと。
「殿の姫様にございますよ」
と、侍女がお答え遊ばされるのですが、それもお分かりにならない。姫君も呆れたご様子で、やはり面白くない。
そのような有様でございますから、その日一日中お側にいらっしゃっても、尼女房様はこれっぽっちも反応をなされない。
姫様が諦めてお立ちになろうとすると、尼女房様が突然胸を掴んでお苦しみになられたのでした。
「婆様!?これはどういうこと?」
侍女たちも、陰陽師やら坊主やらをお呼びになる。屋敷はすっかり大騒ぎになってしまいました。
坊主がたくさんご参上遊ばされ、ご回復のご祈祷が始まります。お祓いの間、集まった形代などがお苦しみになって、色々な物の怪のお取り憑きになる御有様は、まことに恐ろしげなご様子です。
北の方と若君も、東の対にお集まりになって、雪景色のよく見える中庭の、激しいご祈祷のお声をお聞き遊ばされたのでございます。
「いよいよか・・・」
と北の方が御不安そうに仰せられるのを、お側でお聞き遊ばされた姫君は、ご祈祷のお声に合わせて、西方浄土へお向かいになってお祈り申し上げる。
すると、俄かに強い風が吹き、北の方の、しとどに濡れるお袖に、はらり、はらりと白い雪が届いたのでございます。
その時、ふと、尼女房様がお庭をご覧遊ばしたのでございます。
ぼんやりとしかお見えにならないのでありましょう。目を窄めて、必死に、あの、雪の埋がえた山橘の木をご覧になる。明け方の隠れ行く月の向かいには、茜色の太陽が登ってゆくのでした。
「つとめての 灰となりゆく 身なれども 山橘の色は枯れせぬ」※1
と仰せになって、静かに、お隠れになってしまわれたのです。
そのお知らせをお聞き遊ばされた殿は、「お疲れ様でございました」と、そのように手を合わせてお祈りになったとか。
尼女房様がお目覚め遊ばされたのは、極楽浄土の蓮の上にございました。不思議なことに、お姿も若く有り難い御有様でございました。
尼女房様の目の前には、ご立派な山橘の木が立ち、美しい橘色の実が実っておりました。白く澄んだ色の雪で艶やかな中緑の葉が薄化粧をしております。そのまことに見事な佇まい。
尼女房様はその橘へ向かってお歩きになる。徐々に歩速を速め、最後にはおかけ出しになる。そして、その根元には、尼女房様の旦那様、先の殿のお姿がございました。
尼女房様は旦那様を強くご抱擁遊ばされます。そして、お二人で顔をお向かわせになると、尼女房様はこのように仰せられました。
「本当でした!本当に殿のお植えになった橘の木は、一度も枯れずに青々としておりましたよ!」
「ははっ。そうだろう。私はそう知っていたからね」
「何故わかったのですか?」
煌めく瞳で旦那様をお見上げになった尼女房様がお尋ね遊ばしますと、旦那様は自慢げに口を御持ち上げになって曰く、
「君への想いが昔から色褪せることが無いからだよ」
殿はそっと尼女房様の御髪を御掻き撫で、強く胸にご抱擁になったのでございます。
橘に埋がえる白い雪化粧は、夏の橘の花に似てたいそう美しく、黄ばみ始めた実と共に、青々とした葉に彩りを添えるのでございました。
尼女房様と殿の、お約束のお話をいたしましょう。
昔の年の暮れ頃の、冬の寒い日のことでございました。
尼女房様がまだお方様と呼ばれていたの頃、単衣をいくつもお襲ねになって、お庭をご覧遊ばしておりました。お庭は見事に雪化粧、池などもすっかり凍りつき、鏡のような具合でございました。
そこに、前紀伊守、つまりはお方様に対して殿でございますが、まさにその人がお越しになったのでございます。
「寒いのは苦手かな」
「はい。冬は辛いことばかりと存じます」
そのようにお答えになるのを、先の殿は少しお悩み遊ばされると、少し楽しそうに仰った。
「では、何か冬が楽しくなるものを用意しよう」
「まぁ、それは楽しみです」
そのように仲睦まじくお話しされてから数日後、先の殿がお運び遊ばしたのは、小さな橘の木でございました。
「まぁ、橘の木」
お方様が嬉しそうに仰ったのは、雪の頃でも艶やかな葉が緑に色付いていた為にございます。
先の殿はこれを釣殿からよく見えるように、庭先にお埋めになると、
「橘の木は冬も葉枯れせず、青々として艶やかなのだよ」と仰せになりました。
殿の仰せになったことに、お方様は大層驚いて仰ったのでした。
「そんな事もございますの?大抵の木の葉は、冬には枯れるものかと」
すると、お気をよくした殿は、お方様の方をお向きになって、仰られたのでございます。
「賭けをしよう!二人がこの世を去るその時まで、この橘の木が青々と枯れぬまま残っておるか、おらぬか!もちろん、私は枯れぬと賭けるぞ」
「では、私も枯れぬと思います」
このようにお方様はお答えになりました。そうしますと、殿はお困りのご様子で、「それでは賭けにならぬではないか」と仰せになりました。
すると、お方様は殿に身をお寄せになって、
「それでも一緒がいいのですよ」
と、仰せになったのです。
「まったく、困ったことだ・・・」
などと、お返しになる殿も、満更でもないご様子。
そのような経緯で、庭先の橘の木は埋められたのでございます。
さて、時は経ち、尼女房様の服喪の時も過ぎる頃のことでございます。
若君もが元服を済ませ、まだまだ幼いところもございますが、お健やかにご成長遊ばされておりました。
殿はお勤めを終えて御帰り遊ばされた折のことでございます。姫様は釣殿から庭の橘をご覧になって御寛ぎになっておりました。
そこに、殿が従者に御本を持たせて御運びになりました。
不思議な光景でございますから、姫君もすぐにお気づきになって、殿に仰せになって曰くは、
「何をお持ちですの?」
すると、殿はお荷物を御受け取りになって、以下のようにお返し遊ばしたのでございます。
「お前が退屈をしているのではないかと、式部卿直々に御本をお貸しくださったのだよ」
姫君は大層お喜びのご様子で、殿からお荷物を御賜りになりました。
早速と御本の表紙をご覧になられますと、題字をご唱和になります。
「枕草子」
「そう、なんとも『をかし』な御本であるそうだよ」
「父上もこういうものをお選びくだされば良いのに」
と、姫君は皮肉もそこそこに、御本をお開きになる。すると、写本は見事な筆致でございまして、たいそう滑らかにお読みできるご様子。
姫君は御本をお開きになってすぐに、目に浮かぶような四季折々の情景を思い起こされて、つい嬉しくなって以下のように御唱えになります。
「春はあけぼの。夏は夜。秋は夕暮れ。冬は・・・」
そこでお言葉を詰まらせた姫君は、殿とお顔をお向かわせになる。そして、お二方は、慈しみ深く御微笑みを御こぼし遊ばしたのでございました。
「「つとめて」」
『枯橘の物語』という御本には、このように書かれてあったのでございますよ。
※
意訳「明け方の(昼になってしまえば本には『わろし』と書いてあるような)灰として消えていくのが我が身ですけれど、(あなたの仰っていた通り)山橘の色は、枯れずに青々とした葉を萌えさせていますよ(そのように、私の心も変わらずに青々としたままあなたを思っています)」