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ドッペルゲンガー、そうじゃなくて

作者: かわうそ

 最近、僕の周りの人たちがよそよそしい。そんな気がする。気のせいかもしれないけど、何か様子が変だ。


「……まぁ、原因は分かってるけどさ。なんだかなぁ……」


 そう言って、僕は机に突っ伏す。──が、ふと思い立ったように席を立って、誰にも気づかれないように教室を出ようとする。しかし、四十人の群像は、しがらみのように、それを許してはくれなかった。


「あ、圭くん。ちょっといいかしら」


「……友森さん」


 クラスは、今や文化祭に向けた準備で忙しい折である。九月末のその日に向けて、生徒は皆、各々の仕事に取り組んでいる。このクラスは、確か、カフェをやるそうだ。それも僕のいない間に決まってしまったことなのだが。


「クラスのTシャツと、メイド衣装のサイズ、書き込んでないの圭くんだけだから」


「メイド……?」


「何、この前はノリノリだったじゃない。……毎年あるのよね、女装メイドと男装執事カフェ」


 あぁ、そういうことか……。なるほど、確かに“僕”は好きそうな趣向だ。だがしかし、服のサイズなんて知る由もない。僕は友森さんに、恐る恐る、当てられたくないが、一応挙手した生徒という風で、片手を上げた。


「ちょっと待ってて、サイズ確かめたいから、トイレ行ってくる」


 片眉を上げた友森さんは、ボールペンを、持っていたボードでノックする。少し苛立ったような雰囲気が、かちりという音で増幅したようだ。


「……自分の服のサイズくらい、把握しときなよ」


「ごめん、すぐ、戻ると思う」


 そう言って、教室を出ていく。すると、友森満琉が目を離した隙に、“僕”が教室に帰ってきていた。


「……早くない?」


「は? 早いって何が?」


 友森の間が抜けたような顔に、僕は「何言ってんだこいつ」という視線を投げかける。すると、その侮蔑的な色彩を、絶妙に感じ取ったのだろう。明らかに不服そうな声音で、友森は小脇のボードを突きつける。


「サイズ、書いて。注文するから」


「え~、Mだよ。大体分かるだろ中肉中背なんだから」


「……オーバーサイズが好きな人もいるんですぅ。とにかく、これで全員分か……」


「加次井センセのは?」


 友森は、あ、という顔をした。まぁ、しゃあない。担任っていつも顔合わせてるからいいけど、副担任って、全然会わないもんな。


「山本先生と同じくらいかな……、圭くんはどう思う?」


「いや、聞きにいけよ……」


 しばし無言の時間があって、友森はバツが悪そうに目をそらす。


「加次井先生って、何教えてたっけ……」


 そんなもの、僕だって知らないが。


「まぁ、いいじゃん。オーバーサイズ好きそうな顔してるし、XL頼んどけば着れるでしょ」


「あの人私と身長同じくらいじゃん、絶対着れてないよそれ。……ったく、いつにも増して調子がいいんだから……」


 それはそうだが、しかし買わぬ訳にもいかぬだろう。友森は、ため息一つ、まずは担任の山本先生のいる数学科の教務員室に小走りで駆けていった。その背に、からかうように僕は、廊下を走っちゃいけまっせ~ん、と声をかけてやる。


 ──────


 そんなやりとりが教室で起きているとは露知らず、“僕”は学校の一角にある、小さな物置のような部屋の中に、息を切らして駆けこんだところだった。廊下を走るな、という、誰かおじさんの先生の声が聞こえたが、それを振り切って今に至る。


「……そうどたばたと、うるさくしないでくれたまえ。こちらは降霊術の最中だ、障りが起きかねん」


「……何してんだ、それ」


「降霊術と言っているだろう。くだらん質問は……」


「クラスの方はいいのか?」


「クラスに居場所がないからここに来ているんだよ!! あぁもうダメだ!! ……今日は何の用だ!! 基次!!」


 二階建ての旧校舎、移動教室の時にしか使わないような、古い校舎である。その二階の一番奥の部屋は、向かいに立つ新校舎から見ても、暗幕のようなカーテンがかかっていて、何があるのか分からない。物置ということになっているらしいが、いつからか、オカルト研究会なるもののたまり場になっているという。もっとも、研究会といっても、会員は一人だけなのだが。


「……僕のドッペルゲンガーの件で話がしたい」


「まぁ、そうだろうな。だが安心したまえ、俺も調べるべきことは調べた」


 富岡隆登という男。伸びた癖のある髪の毛が顔の半分を覆い隠さんとしている、白衣の人物。オカルティズムに傾倒している危ない人物で、半ば煙たがられている人物として記憶している。


 その存在を知りながら、近づかぬようにしようと努めてきたが、しかしことここに至りて、彼以外に頼れる相手もいない。


「ドッペルゲンガー、自分自身の姿をした影法師。もし、自分自身のドッペルゲンガーに出会ってしまえば、その者には必ずや死が訪れる。かつてはエイブラハム・リンカンや芥川龍之介も見たとされるドッペルゲンガー、脳腫瘍によって引き起こされる幻覚だと、科学的には言われている。だがね、そんな簡単に、全てのドッペルゲンガーの説明はつかないと、そう思わないかね基次!!」


「うるさいよ」


「結構!! 俺は興奮しているからな。ドッペルゲンガーという現象に、しかも!! そのドッペルゲンガー本人と意思疎通が図れるとは!! あぁ!! 素晴らしき哉我がオカルト人生!! ありがとうケイシー、ありがとうブラヴァツキ夫人……」


「……」


 こんなんで大丈夫なのか、いや、彼以外にまともに信じる人間がいなかったのだから、仕方がないのだ。最早、僕の命運は彼が握っているといっても、過言ではない。


 ──────


 始まりは、数日前。“僕”が、正確にはオリジナルの僕が、文化祭終わりの帰りがけの、駅のホームで佇んでいたところからである。その日はたまたま満月の夜で、いつもの電車を乗り過ごしてしまった僕は、缶コーヒーを買って、ぼうっと月を眺めていた。すると、背後から甲高い声が聞こえたのだ。


「……何だ?」


 振り返ってみるとそこには、見たこともない動物がいた。毛のない犬のような、得体のしれないそれが、線路の向こうの草むらの中で、一頻り、鳴いているのが見える。


「なんだあれ……、捨て犬?」


 線路に立ち入る訳にはいかず、ただ月明りに照らされるそれを、無言で見つめていた。いつしかそれは動き回るうちに、溶けてしまうかのように姿を消していたが、僕はその場で動けずに、月に背を向けた格好で立ち尽くしていた。──それが良くなかったのだろうか。僕の足元から伸びた影が、ゆらゆらと動いて見えたのだ。硬い線路に移る影だから、揺れるはずもないのにそれは、震えるようにひとりでに動く。それが段々と怖くなってきて、僕は緊張で硬直して、結局電車が来るまで、足が張りついたように動くことができなかったのだ。遠くから地鳴りのように車両が迫り、警笛が壊れたラッパのように鳴り響いたのが、どれだけ心強かったか。


 ──そうして僕は車内に逃げ込んでいき、電車が去った後に残された影法師の“僕”は、線路上で途方に暮れた、という訳だ。


 そこまでのことを、もう一度富岡に説明する。彼は髪の毛の端を指でこねながら、にこにこと、もといにやにやとした表情で相槌をうつ。


「興味深い、君は基次圭のドッペルゲンガーであるという自覚があり、また彼に接近すると消滅するということを本能的に知っていると、そう言ったな」


「……間違いないよ」


「そしてこの状況を解決するために、何人かの人間に接触したが、皆が真に受けず、また返って、基次圭本人と引き合わされそうになるなど、危険と判断した、と」


 パソコンの光が、暗い部屋の中でいやに眩しい。富岡は山積みになった分厚いファイルの一つを引っ張り出してきた。背表紙には毛筆で、『ドッペルゲンガーの研究』と書かれている。中にはA4サイズの紙の束が、ぎっしりと詰まっていて、持ち上げるにも力がいりそうだった。


「これ、全部お前が?」


「だと良かったんだが、これは先代のオカルト研究会の会長が、──あぁ、実際に会ったことはない、もう随分前に卒業したんだが、その遺留物だ。そこに継ぎ足ししながら、君のレポ―トを書こうとしているところだ」


 A4の紙は、驚くべきことに全て肉筆である。おまけに挿図も全て、鉛筆のデッサンだ。そのドッペルゲンガーと同じようなファイルが、所せましと並んでいる。──相当暇な人物だったのだろう。『UFO』などは、その11まである。あまりに途方もないので、咄嗟に言葉を返すことができず、呆けた返答をしてしまう。


「継ぎ足しって、秘伝のタレみたいだな」


「俺は『月刊モー』の編集長になるんだ、実家を継ぐ気はないぞ!!」


「鰻屋なのか……」


「莫迦め、お前の最寄りの駅前の串カツ屋だ」


「あぁ、『串屋とみおか』って、お前の家なのか……」


「そんなことはどうだっていいのだ!! いいか、よぅく聞きたまえよ……」


 そう、本当にどうだっていい。問題は、どうやってこの状況を解決するかだ。


 富岡の話をまとめてしまえば、解決策は単純である。すなわち、基次圭本人の視界に映ることなく、接触する。これだけである。


「ドッペルゲンガーは、本人の接触時に姿が消えることが、多くの例で目撃されている。しかし同時に、それを見た本人は、死ぬか、もしくは人間としての生活はままならなくなるだろう。クククッ、その場合、基次圭がどのように扱われるのか、気にはなるが……」


「ふざけんなよ、こっちは本気なんだぞ!!」


「分かってるさ、俺だって本気さ。落ち着きたまえよ。それよりお前は、どうやって相手の視界に映らずに、接近するか考えた方がいいのではないかい?」


「……そうなんだよ」


 もし、背後から近づいて接触を試みたとしよう。すると、周りに人がいれば、必ず違和感に気づく者が出てくるだろう。そうすれば当然のように、基次圭本人も振り向く。だるまさんがころんだ、と同じだ。振り向かれたときに、その場で視界に映ったらアウトである。


 人気のない駅や、帰り道の暗がりではどうだろう。確かに周りに人がいないならば、心配は少ないだろうが、その分足音や影の接近で気づかれる危険性が高い。第一、物陰の少ない駅のホームや、一本道の帰路は、隠れて接近するのには向かない。


 学校のロッカーや体育倉庫、トイレで接近することも考えたが、どこもかしこも他の生徒が来る可能性がある以上、やはり危険が大きい。


 そして、寝ているときに近づいてしまえば、と思ったが、息子が帰ってきた後に、もう一人息子が帰ってきたとして、家に上げる親がどこにいるのか。第一、今の基次家で一番夜更かしをしているのは、圭その人のはずである。


「なんで高校二年のこの時期に『Fortnight』とか『荒原行軍』とかにはまっちゃうかな」


「……それは因みになんなんだ?」


「FPSゲームだよ、銃とか撃つやつ」


「俺にはできん。速い動きは目が追いつかん」


 富岡は、心底興味がないという風に、はん、と鼻を鳴らして、パソコンの画面に向き直った。


「ともかく、全ての案は危険すぎて実用に向かんな」


「……何か、もっといい手があるんじゃないか……。もっと、もっと……。あ──」


「……!? 何か、思いついたのか!?」


 がばりと椅子を蹴り上げるように振り返った富岡に、やや押されながらも、僕は頷いた。


「でも、力を貸してほしい。……ここに、僕本人を呼ぶことってできるかな」


 ──────


 暗い室内は、パソコンの光だけが頼りだ。蛍光灯は外されて、無意味な三角形の突起が、山脈のように連続して、白い天井を彩る。


 僕の考えた作戦というのは、この部屋に基次圭本人を誘い出して、殴って、気絶させて、接触するというものだ。事情を知るのが、この部屋の主である富岡隆登しかいないこと。周りに人がいる状態での接触は危険であること。そして、視界に映らなければ、つまり姿が見えなければ、万が一抵抗されても、問題ないであろう、ということである。


 後は、首尾よく富岡が基次圭本人を誘い出してくれればいいのだが、実のところこれが一番問題であった。


 一方その頃、富岡隆登は、新校舎の三階にいた。ずるずると白衣を引きずりながら歩みを進める男の姿に、文化祭ムード一色の廊下は、いやなざわめきに包まれていく。科学部か、せめてお化け屋敷のクラスのメンバーだと勘違いしてくれれば御の字である。もっとも恐れるべきは、自分のクラスメイトに遭遇することだった。なるべく接触をしないように気をつけてはいるが、意図せぬ遭遇ということもあろう。青ざめた顔で爪を嚙みながら、周囲に聞こえる音量で、富岡は悪態をつく。


「何故引き受けたのだ富岡隆登よ!! このような危険を冒さず、あの部屋にいればよかったものを!!」


 しかし、異様な男の行進は、目を引くものであっても、声をかける雰囲気ではなかったのだろう。ついに誰にも何も言われぬまま、富岡隆登は、基次圭本人の所属するクラスに辿り着くことに成功した。まだ、文化祭のために残っている生徒の中には、先程まで話し合っていた影法師と、同じ姿かたちをした人物がいる。


「見つけたぞ基次圭本人!! ……ふぅ──、大丈夫、大丈夫なはずだ……」


 がらりと扉を開けると同時に、教室の中の生徒の視線の波が、一挙に押し寄せる。途端に、鼓動が早くなる。


「……ひっ、あ、その……。基次圭くんは、いますか……」


「何の用ですか、三組の富岡隆登さん?」


 目の前に立ちふさがったのは、クラスのまとめ役の友森満琉だ。いつもは下げている髪を縛って、ボールペンとバインダーを手に、内装の指示を出していたところだった。


「あっ、あ、友森さんは、俺の名前、知ってるんですね……」


 自分の名前を呼ばれたことに、多少なりとも嫌な顔をする友森。しかし仕方がない。富岡とて、全校生徒の名前を把握しているから、呼ばぬ道理もないのだ。大体の家の位置から通学ルート、部活動まで、特に自分のクラス、次いで自分の学年は、しっかりと頭に入れている。


「本当に何の用? 私たち忙しいし、圭くんは作業が遅れてるから、忙しいんですけど」


「あ、はい、へへ……。あの、すぐ、終わるんで、はい……」


「富岡~? 久しぶりに見たわ。でも本当に僕に何の用事なん?」


 ひょっこりと、友森の肩口から首を覗かせたのは、ターゲットの基次圭本人。ドッペルゲンガーよりもやや、というよりかなり、明るい性格をしている。そういえば、ドッペルゲンガーは往々にして、本人より攻撃的な性質を持つといわれることもあるが、基次圭の場合はそれに当てはまらないようだった。


「あ、基次、くん……。あの、ホント、一瞬だから。あの……」


「今じゃなきゃ、駄目なんですか?」


「あひ、……は、はい。ホント、あの、へへっ、一瞬、一瞬なんで、お願いします……」


 困惑と同時に、僅かに怒りが滲み始めた友森満琉の態度に対し、基次圭本人は、とてつもなく楽観的だった。


「まぁ、すぐに済むって言ってるし。ささっと終わらせてくるからさ」


 そういって、ぽんぽんと富岡の肩に手を置けば、その度に全身がびくびくと震える。相手のペースに合わせるのは、生来すごく苦手だった。その様子を見て、一頻り唸った友森は、ちらりと時計を見て、突き放すように言った。


「じゃあ、六時半までには戻ってきて。片づけはじめるから」


「はーい、じゃあ!!」


 そうして、ぴしゃりと戸を閉める基次圭。くるりと富岡に向き直ると、耳元でこっそりと呟く。


「マジで、ずっと下働きみたいなのさせられて、ぐったりしてたんだ。ありがとね」


「あ、っひ、こちらこそ、どうも……」


 そう言いながら、富岡はそそくさと速足で歩きだす。人のできるだけないところを選びながら、旧校舎へと続く渡り廊下を歩く。


「てか、どこ行こうとしてるの? こっちって移動教室とかでしか使わないよね」


「あ、そっすね……、えっと、来てくれれば、ホント、分かるんで」


 そんなことをしている内に、呆気なく、二階奥の物置部屋までたどり着いてしまった。扉の隙間から、パソコンの光が漏れていないことを確認し、扉をノックする。──返事はない。ということは、大丈夫なはずだ。


「あ、の……。この中、基次くんに見てほしいもの、あってですね……」


「何? 僕の……? なんかあったっけな、……てかそれ、教室じゃダメだった?」


「あの、一応目隠しだけしてもらえると……」


 しばし黙考し、やがて基次圭はその答えに行きついたようだった。


(今週末は僕の誕生日、とするとサプライズ……? こういうことをしてくるのは、……ハッ!! 友森満琉……ッ!!)


 どうやら、彼は都合よく、幼馴染の女性を思い浮かべたようだった。そうかそうか、どうりで僕を教室に置いておきたかった訳だ……、と鼻歌交じりに目隠しをする。


 ──準備は整った。


 がらりと部屋の扉を開け、ゆっくりと中へ。ちょうど部屋の真ん中あたりに来たときに、富岡はストップ、と声をかけた。次の瞬間、基次圭本人の後頭部に、鈍い衝撃が走った。


「ぐぎゃ」


 およそ人間が出していい声ではないが、錆びたパイプ椅子で殴られた少年は、受け身を取れずに昏倒する。血が出ていないか、明かりはつけていないので、確かめる術はない。というか、怖くて確かめたくない。パイプ椅子を振り抜き、よろりとふらついた基次圭のドッペルゲンガーは、肩で息をしながら、床に突っ伏す影を見下ろす。


「ドッペルゲンガーの起こした傷害事件って、事件になんのかな……」


「これは自傷行為だ。お前がお前に殴られてぶっ倒れた。というか、そうとしか説明がつかないだろう。俺は散々疑われるだろうが、パイプ椅子にはお前の指紋がくっきりだからな」


 苦笑いをする富岡を横目に、ドッペルゲンガーはゆっくりとひざまずく。そうして触れようと手を伸ばすと、すぐに横から制止が入る。


「……何?」


「待ってろ、今コンベックスを出す。どの程度接近すればドッペルゲンガーが消えるのか、よく観察させてくれ。……よし、廊下の光は届いているな。ゆっくり続けてくれ」


「……分かったよ。協力してくれたし、仕方ない」


 基次圭のドッペルゲンガーは、ゆっくり、ゆっくりと、コンベックスの目盛りに指先を添えながら、倒れ伏す自らの身体に手を伸ばしていく。目盛りは、20㎝、15㎝、10㎝、5㎝と近づいていき、そうしてその距離が0になったとき──。


「わッ!?」


 ──基次圭の伸ばしていた手が、固い床についた。


 ──────


 カラン、という音がして、コンベックスが手のひらを掠めていく。何が起こったか分からず、二つの影は無言で転がった静物を、固唾を呑んで見つめる。


「……どういう、こと?」


 僕の問いかけに、答える術を知らない富岡は、ただ唸るばかりだ。倒れていた基次圭は、確かに本人であったはず。しかし、接触と同時に煙のように消えてしまう挙動は、正しくドッペルゲンガーのそれである。


「考え得る可能性があるとするならば、……基次圭、お前はドッペルゲンガーであると同時に、基次圭本人であったという可能性はどうだ?」


「……というと?」


 説明しにくいことだと、左の手で頭を押さえながら、富岡は空いた右手の指を伸ばし、ゆっくりと話し始める。


「元になった本人を親とするなら、ドッペルゲンガーは子のようなものだとばかり考えていた。しかし、確かにお前はドッペルゲンガーとして、俺と意思疎通をした。意思をもって行動したのだ……。独立した、もう一人の基次圭、双子の片割れとして……」


 親子ではなく、双子。つまり、僕たちはお互いが本人であり、またドッペルゲンガーであった。先程まで教室にいた基次圭にとっては、“僕”がドッペルゲンガーであるが、同時に、富岡と結託していた“僕”にとっては、殴りつけて気絶させたそれこそが、ドッペルゲンガーであったということ──。


「こんがらがってきた……。なんでそんなややこしいことに」


「考えてもみたまえ!! お前はこいつとは、自身がドッペルゲンガーであるという自覚があったか否かの違いしかないのだぞ!? ……いやむしろ、こいつにドッペルゲンガーとしての自覚がなかったと、決めつけることもできん!! ……だとしたら、いや、しかしそれでは、出会うと死ぬというのは……」


 顔を顰めて、苦し気に思案する富岡を尻目に、僕はぼんやりと、あの満月の夜のことを思い出していた。月明りによって照らされて、ゆらゆらと蠢いていた影。電車がホームに着くときの、警笛の音と閃光。目をつぶった数秒の間に、僕は、生まれたのではなく、分離していたとしたら──。


 元の人格より、僕は少し内向的になったようだ。一方、こいつは教室の中で、いつもより明るく振舞っていたらしいことは、周囲の反応からなんとなく察しがついている。──足して2で割れば、元に戻るとでもいうのか?


「でも、さ。僕はちゃんと生きてるし、ドッペルゲンガーは消えた。それでいいってことだよね? きっと相手の顔を見なければ大丈夫だったんだよ。だって、顔を見なかったら、自分だって、ドッペルゲンガーだって分からないはずでしょ?」


 僕がそう声をかけると、富岡はハッとした顔をして、小さく頷いた。


「……分からないことが多いが、確かにそうだな」


「ありがとう、解決した。これでやっと、普通の生活に戻れる……!!」


 笑顔で声をかけても、富岡は納得していないようで、喜ぶ僕を曖昧に一瞥するだけだった。しかし、そんなことはどうでもいい。僕としては、目下の厄介ごとが解決して、清々しい気持であった。そうして、一頻り礼を言った後、踵を返して、明かりのない部屋を出ようとして、ふと、気になったことを聞いてみた。


「そういえばさ、さっき富岡が教室に行ってる間、ちょっとそのファイルとか見てたんだけどさ……」


「……は?」


 吃驚に振り向く富岡に、僕はつらつらと疑問を投げかける。


「ドッペルゲンガーのファイル以外、挟まってるの白紙ばっかりだったんだけど、なんで?」


 パソコンの光を頼りに開いてみた『UFO』のファイルは、はじめの方は写真や文章が入っていたが、どれも数ページで途切れてしまっていて、飽き性のオカルトマニアが作った、出来損ないのデータのように思えたのだ。ドッペルゲンガーのファイルには、非常な熱が入っているのに──。


「忘れろ」


 その答えは、ついに聞くことができなかった。ぽつりと、有無をいわせぬ声音で呟いた富岡は、唖然とする僕に矢継ぎ早に激しい言葉を投げかける。


「問題は解決したんだろ!? だったら失せろ、もうお前に興味はない。データは取り終えた、興味深い対象だったがな。さぁ、出ていきたまえ!!」


 それは、豹変といってもいい、まるで別人のような、それこそドッペルゲンガーのような、ものすごい剣幕であった。気圧されるように、僕は扉に手をかける。


「二度と来るな、俺との仲も、決して口外するなよ!? もうこれでお前と俺の関わりは切れた。……くそっ、早く出ていけ!!」


 これは、ただごとではない。僕は訳も分からず、旧校舎から走って逃げるしかなかった。時計の針は、七時を回ったところだった。


 ──────


「……まずい、まずいまずいまずいッ!! ……間違いなく、消える。顔を見た瞬間、ドッペルゲンガーは消される……!! 時間がない、目撃情報はかなり寄せられている。この見た目のおかげで……」


 一人、真っ暗な部屋で、パソコンを起動させることすら忘れて。外のわずかな星明りと、廊下の蛍光灯を頼りに、富岡は『ドッペルゲンガー』のファイルを血眼になってめくる。最後のページが近づくにつれ、文字はどんどんと汚く、走り書きに近い形になっていく。


「一か月前は隣町のショッピングモール、先週は自宅付近のコンビニ……、そして一昨日は学校前のゲームセンターか……!! くそっ、俺は生来、そんな享楽に興味などないんだがなァ……!!」


 しかし、彼が独自に調べ上げた範囲では、もじゃもじゃとした髪の毛に、白衣を身にまとった、間違えようもない人物の目撃証言が、偶然や見間違いでは片づけられない数量、寄せられている。


「これは、もしや、やはり、俺が、……俺が俺であり、かつまた、ドッペルゲンガーであるということが……」


 がらり。


 暗い部屋に光が差し込んで、誰かが立っているのが、気配で分かる。こひゅっ、という音を立てて、息が詰まった。


 間違いない、これは、ヤツが来たんだ。幸いこの部屋は要塞のように、折りたたみの机やパイプ椅子、そしてすぐに倒せるように大量の本が不安定に積まれている。その配置を正確に把握しているのは、この部屋で目をつぶりながらでも自由に動くことができるのは、この世界に一人だけ。そう、富岡隆登、俺だけだ。


 誰の助けもいらない。ドッペルゲンガーに遭遇すれば死ぬというが、顔を見なければ死なないということは、先程の基次圭が実証している。そしてその状態で、直接触れればいいだけ──。


「おぅい、富岡隆登……?」


 名前を、呼ばれた──。反射的に顔を上げてしまい、そこで俺は、真っ黒なパソコンの画面を見てしまった。


「────あ」


 いつもなら、煌々と照っているパソコンの四角い画面は、基次圭のために消してしまった。万が一にも、“相手に”、顔を見られないように──。


 そうしてできた、真っ黒な、鏡面。俺の背後を映し出した画面には、廊下の明かりに照らされて立っている、白衣の縮れ毛の男の姿があった。紛れもなく、俺が、そこにいた。


「──────っぐ、あ、あぁ……」


 どすん、と心臓を撃ち抜かれたような痛みが走り、ぐらりと体が揺れる。机を咄嗟に掴もうとした手が空振り、床にもんどりうって落ちる。


「──っはあぁッ!! お、前が……ッ!! 俺の、ドッペル、ゲンガーッ!!」


「ハッ!! ……うるさいな、俺のドッペルゲンガー。ようやく見つけたぞ」


 ドッペルゲンガーが、本人の前に現れるのは、必然であると言われている。そして、その邂逅は、必ず死をもたらすと、俺はよく知っていた。だから、あれほど調べた。だから、事例を集めて、集めて、そうして基次圭に調べ至って、接近したというのに──!!


「ゲホッ、ぁ、ぐあぁ……ッ!! ……ぃ、いや、だ、やめてぇ……。しに、たく、ないぃっ……。俺は、まだ、もっと、もっとぉ……!! 夢だって、まだ、何もぉ……っ!!」


 涙が、溢れて止まらない。呻きながら、震えながら顔を上げれば、そこには何よりも見知った相貌が──。


「やぁ、ごきげんよう。……俺」


 そうじゃなくて、俺は、俺で──。


 ──────


 旧校舎は、生徒の自殺があったとかで、文化祭が終わった後に早々に取り壊されることになった。あれ以来、僕は富岡隆登には会っていない。

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