「嫌!」
ゆっくりと向かってくる八巻に危険を感じたエンジはすぐさま立ち上がり、彼の位置から遠い教室前方の扉へ向かう。重い右足を引きずりながら並んでいる机の間を掻き分けて進むが、互いの距離は縮む一方だった。それを感じたエンジが避けた机を動かし八巻へのバリケードとするが、その八巻は全く意に介すことも無く何かを呟きながら追ってきていた。
やがてエンジが扉の前に着き、急いで扉を開けようと左手を掛けたそのとき、後ろからダンと床を踏みしめる音が響きエンジはそちらに気を取られた。
「逃げないでくれよ、慈円寺さん」
「無理」
そちらを見れば剣呑な気配の八巻が仁王立ちしていたが、直ぐに向き直り扉を開けようとする。
しかし、そこには扉はなく真っ白な空間が広がっていた。
エンジは驚き周りを見回すが、扉はおろか壁も机も何もない、ただ真っ白な空間に八巻と二人取り残されていた。
「何したの?」
「助けを呼ばれると面倒だから魔法で空間を切り取ったんだよ。しかし、使う度に思うけど真っ白で目に悪いのが欠点だね」
「愛梨亜! 有夏! 杏里沙!」
「助けを期待してるなら無駄だよ。ここには誰も入れないから助けも来ない」
珍しい大声でエンジは愛梨亜達三人を呼ぶが、ただ空間に残響して消えていくだけだった。
再びこちらに向かってくる八巻から距離を取ろうと後ずさりするエンジ。すると背中にドンと軽い衝撃があり、そこを触ると透明な壁がある。それ以上後ろに下がれなくなったエンジの前に八巻が立った。
「じゃあ、それ貰うわ」
「駄目!」
そういってクマの縫いぐるみに手を伸ばすが、エンジが体に抱え込んでうずくまり絶対に触らせないという姿勢を取る。
「それが人間の魂を封じ込めている物なのは分かってんだよ。素直に渡して封印してる術の解除方法を教えてくれればこれ以上なにもしないから――」
「嫌!」
足元にうずくまるエンジを説得すべく八巻は言葉を重ねるがエンジは大声で拒否し聞く耳を持たない。
八巻は仕方ないと呟き力づくでエンジの肩を掴んでひっくり返した。そしてクマに手を伸ばすがエンジの左手に叩かれ阻止された。
叩かれた自分の手をじっと見た八巻は無表情で立ち上がり、エンジの脇腹を蹴った。
「がっ……!」
「抵抗するなって言ったよなぁ!」
何度か蹴りを入れるとゲホゲホと咳き込んで丸まっているエンジの首を掴んで持ち上げた。
足が宙に浮いたエンジは苦しそうにもがくが、それでもクマの縫いぐるみを抱えて放さない。八巻は完全に据わった目でそれを見つめた。
「お前が黒柿のショッピングモールの事件を起こしたのは聞いてんだよ! その上、精霊爆弾もどきなんか作って何企んでんだ!」
「ぐっ……何の……こと……」
「とぼけんなよ? そのクマに人の魂封じ込めて穢れで汚染したんだろ? ああ、こっちじゃ瘴気って言うんだったか?」
「そ……れは……」
「エネルギー源にしてるだかなんだか知らないが、今度はそれ使ってどんだけ人を殺せば気が済むんだ?」
「私……じゃ……ない」
「私じゃないだぁ? お前が自分で証拠持ってんじゃねぇか!」
「がっ……うっ!」
首を掴んだままの体勢で八巻はエンジを問い詰める。激昂している八巻が言うことはエンジからすれば間違いだらけなのだが、それを否定しようにも息が続かないため説明できない。
かろうじて犯人は自分ではないとだけ言うことができたが、八巻の怒りの火に油を注いだだけだった。
怒りに任せて首を持つ八巻の手に力が入りエンジの首を絞める。息が詰まりエンジの視界がチカチカと点滅し始めた。苦しさで目から涙が溢れると力の入っていた手が緩められる。
「こっちは術の解除方法聞き出せるなら何してもいいって依頼されてんだ。今みたいに苦しい思いしたくないなら、それ渡して解除法を言え」
「はぁっ、はぁっ、……そんなものは……ない……」
「何だと?」
「八巻の……望むものは……ない!」
「…………へぇ? 苦しいだけじゃ足りないか?」
「がぁっ……!」
少し冷静になった八巻が脅しを掛けてくるが、必死に息を吸いながらもエンジは八巻に否を突きつけた。
再び楯突かれた八巻は少し考えた後、暴力に訴えることにし、エンジの左頬を平手で打った。バチンと大きな音がしてエンジの顔は右側に流れ、右目の眼帯が外れ飛んで行く。
エンジの視界はぐらつき意識が飛びかけるが、幸か不幸か混濁しながらも意識を保ちクマの縫いぐるみを離さなかった。
「これでもまだ頑張るか? 次は拳で行くぞ?」
「…………ねがい」
「あぁ? なんだって?」
頭をふらつかせるエンジに八巻が問うが、エンジは虚空を見つめたまま反応しない。仕方なくもう一度殴ろうと構えるとエンジが小さい声で何かを言った。聞き取れなかった八巻が顔を少し近づけると、突然右頬に衝撃が走る。
衝撃によって手を離し、かなり後ろまで吹っ飛ばされた八巻が起き上がって見たのは、拳を振り抜いた姿勢で着地しているエンジだった。
「全く。困ったら頼れって言っただろ、オレ」
「クソ! 何だってんだよ、おい」
「はっはっは! お痛が過ぎたな、クソ餓鬼」
そこに立っていたのは先程までとは違い、豪快に笑いながらも油断無く構えを取るエンジだった。右目の複数の瞳孔はグルグルと回りながら一つになっていき、最終的には金色になった。
「ボクにも困ったものですわ。気持ちは分かりますけれど、すぐに頼って下されば傷つく事もありませんのに」
またも先程とは違い、淑やかな身のこなしで構えを解くエンジに八巻は面食らう。
「誰だお前は? さっきの奴とも違うのか」
「お前に答える必要はないですわね。変わりにこれをくれてやりましょう」
警戒した八巻の誰何に取り合わず、そう言って人指し指を弾くと、そこから氷の壁が発生し目にも止まらない早さで飛んで来た。
「なっ……! 無詠唱だと!」
驚きつつも咄嗟にかわそうとするが、動き出すよりも早く氷の壁が到達し、ゴシャっというトラックがぶつかった交通事故のような音がした。
それにより更に遠くへと飛ばされた八巻の周りには砕けた氷塊が散乱し、どこか切ったのか頭から血を流し呻いていた。
「ちくしょうが!」
「まだ動けるか、案外頑丈だのう。ならば儂は愛梨亜達が来るのを待つか」
悪態をつきながら立ち上がった八巻が見たのは右目が緑色に染まり、背中から虹色で半透明の蝶の羽を生やしたエンジだった。そのエンジが手を翳すと周りが半透明の虹色の球体で覆われた。
「後は皆を待つのみじゃワシよ。ゆっくり体を休めるとよい」
そう言ってエンジは床に腰を下ろすと、瞳はまたグルグルと逆回転し元の複数の瞳孔に戻り、背中の羽は消えていた。
「舐めるな! “疾れ 風足” “切り裂け 水双剣”」
余裕にも見えるエンジの行動に気炎を上げた八巻が魔法で宙から手に出した水色の双剣を握り、強化した脚力で一瞬の内に距離を詰めエンジに向かって剣を振り下ろす。
しかし、その刃は激しい音を立てながら虹色の障壁によって阻まれる。
「なっ……! なんで切れないんだ、この水双剣は障壁だって切り裂くんだぞ!?」
必殺の刃が全く歯が立たない事に驚き、動揺する八巻に、障壁の中でへたり込み元に戻ったエンジが話しかける。
「八巻は……騙されてる……」
「黙れ! “打ち砕け 土剛力”」
息を整えつつエンジは説得しようとするが八巻は聞く耳を持たない。
さらに自身の力を増強する魔法をかけ両手の双剣を絶え間なく振るうが、ただ連続した衝撃音が響くだけで障壁は揺るぎもしない。
「……やったのは……私じゃない」
「“全てを焼き尽くせ 火炎大槍”」
なおも説得を続けるエンジだが八巻はもうそれに答えることもない。
双剣を振るう手を止め、強化された脚力で距離を取り障壁を睨む。そして頭上に身の丈よりも長く、胴よりも太い炎の槍が出現し、それを放った。
とてつもない速度で迫る炎の槍が障壁にぶつかり、ミサイルが着弾したような衝撃波と轟音が空間を揺さぶる。
弾けた炎が周囲を燃やし障壁の姿を覆い隠した。
「これならどうだ」
パチパチと燃え盛る炎を睨み付け呟く八巻。しばらくするとその炎も消えていき、中から全く変わりのない虹色の障壁が顔を出した。
「ダメ! ミカちゃん、落ち着いて!」
そしてその中に、ずっと閉じていた目を少しだけ開き、ぶるぶると小刻みに震える赤いクマの縫いぐるみを抱え込み、焦った声を出しているエンジが見えた。
「私、大丈夫だから!」
縫いぐるみを押さえ込み必死に声をかけるエンジだが、それに反して縫いぐるみからは禍々しい怒りの気配が増大していく。縫いぐるみの口からは幼い女の子の声で呪詛のように同じ言葉が漏れていた。
『タスケナキャ エンジチャンヲタスケナキャ タスケナキャ エンジチャンヲタスケナキャ タスケナキャ エンジチャンヲタスケナキャ タスケナキャ エンジチャンヲタスケナキャ』
「お願い、ミカちゃん!」
際限無く増していく気配、段々と開いていく目、大きくなっていく震え、少しづつ動き始める手足。
じたばたともがき始めたそれを、涙を流しながら胸に抱え押さえ込むエンジ。
さっきまでただの縫いぐるみだったそれは、今八巻の目には向こうの世界のどんな魔物よりも恐ろしい魔物に見えていた。
『エンジチャンヲイジメルナァ!!!!』
「ミカちゃん!!」
目を完全に見開き、大きく口を開け禍々しく叫んだ縫いぐるみから轟音と共に衝撃波が放たれた。エンジはそれに乗じて腕から抜け出そうとするクマを必死に抱き留める。
放たれた衝撃波は八巻を貫き、傷からさらに血が吹き出した。
「この化け物がぁ! “全てを照らし束ね貫け 輝光束射――」
「おらぁあああああ!」
錯乱し、より威力の高い光の魔法を放とうとした八巻の隣の真っ白な空間から、ガラスの割れるようなカン高い破壊音が響き、割れた空間から雄叫びを上げて飛び込んで来た有夏の拳が八巻に突き刺さった。




