おひとりさまレクエイム
「ねえ、なんでみんな春に桜を見に行くのかしら? 私は新緑の桜の方が好きよ。緑の葉が生い茂って生命力にあふれてる感じがするもの」
介護用ベッドの背を起こし、四十年配の女性が窓に目を向けていた。外壁の向こうには満開の桜が咲き誇り、春の陽光が降り注いでいる。
女性の肌は肌は青白く、眼窩は黒ずんでいた。頭にニット帽を被り、鼻腔には酸素供給の透明な鼻カニューレが装着され、耳にストラップが伸びている。
部屋の隅にある古いレコード台からは、フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフの『Hymne à l'amour(愛の讃歌) 』が流れていた。
「私は春の桜が好きですよ。花見をしながら、みんなでワイワイお酒を飲むのが楽しいじゃないですか」
看護師の天野心音はそう言いながら、志保の指からパルスオキシメーターを外し、タブレットの血中酸素濃度の欄に「96」と書き込んだ。
バイタルチェック表の上部には「北条志保 58歳」と記載されている。重い病におかされた容貌は実年齢よりも老けて見える。
「あなた、こういうときは嘘でも患者に話を合わせるもんじゃない?」
「ウチの先生の口の悪さが伝染ったんですよ」
心音が肩をすくめると、リビングの出入り口に人の気配がした。
「俺は口が悪いんじゃない。正直にモノを言うだけだ」
主治医の水崎悠斗が部屋に入ってきた。
すらっとした長身を薄い黒のセーターとデニムのズボンで包んでいる。意志の強そうな眉の下に、やる気があるのかないのかわからない眼差し。肉厚な唇も含め、基本的に女顔と言える。
年齢は三十代半ばだが、実物はもっと若く見える。腹立たしいが、世間的にはイケメンと言うのだろう。だが――
「さっさとどけ、天野」
とにかく口が悪い。以前、大学病院の救命病棟(ER)で働いていて、外科の体育会系ノリが染みついているのか、看護師をコキ使う悪癖が抜けない。
へいへい、とため息混じりに答え、ベッド横の丸椅子から心音が腰を上げる。入れ替わるように水崎が座る。
「痛みはありますか?」
「ないわ。こんなことならもっと早く麻薬を打ってもらえばよかった」
「麻薬ではなく、オピオイドといって医療用のモルヒネです。礼ならこいつにどうぞ――」と視線を心音に流す。「天野はヤクに詳しいですから」
「人をヤク中みたいに言わないでください。癌性疼痛認定看護師です」
水崎が、失礼します、と断り、パジャマの胸ボタンを外す。癌で痩せ細った上半身が露わになる。
右胸のふくらみを覆う尿とりパッドを除去し、ガーゼをゆっくり剥がす。水崎が心音からペットボトルを受け取り、温めた生理食塩水を流しかけて白い軟膏を洗い落とす。
花が咲くとかカリフラワーなどと称される、乳癌特有の赤黒い自壊創が姿を現し、腐敗臭が辺りに漂う。乳房全体を覆う十センチを超える硬い癌の塊は無骨な肉の鎧を思わせた。
「私の胸を触ってきた男たちに見せられないわね。先生、私こう見えても若い頃はけっこうモテたのよ」
水崎は、でしょうね、と受け流し、潰瘍の分泌物を柔らかいドレッシング材で拭き取る。
そっけない対応に志保が肩をすくめる。
「顔がイイ男ってのはこれだから。先生がその歳まで独身なのも分かるわ」
赤黒く汚れたガーゼを心音は背後から次々に受け取り、ファスナーの付いたビニール袋に回収する。
「34で独身なんて、今どき珍しくもないでしょう」
水崎がガーゼに軟膏をたっぷり塗布し、患部に貼り付ける。横から心音が手を伸ばしてテープで固定し、新しいパッドで乳房を再び覆う。
「それよりこいつに――」
親指で背後にいる心音を指さす。
「誰か紹介してやってください。27で男っけが全然ないんですから」
ふーん、と志保が値踏みするような視線を看護師に向ける。
「天野さんはどんなひとが好みなの?」
心音は顎に手をあて、そうですねえ、と首をひねった。
「口が悪くなくて、女性に優しいひとがいいですね」
あてつけるような眼差しを上司に向ける。
「でもいいんです。私、今は仕事が恋人って感じですから」
志保の片眉が持ち上がり、諭すように言った。
「女はもっと欲張りでいいのよ。仕事か恋か、なんて二択じゃなくて、仕事も恋も趣味もぜんぶ楽しめばいいの。産めるなら子供も産んだ方がいいわね」
北条志保は重い病を患って退職するまで、出版社でファッション雑誌の編集者をしていた。部屋の本棚は彼女のかかわった雑誌や資料本で埋め尽くされている。
「そういう北条さんは、なんでおひとり様なんですか?」
訪問診療をするようになって一か月、軽口を叩き合える間柄になっていた。
「私は周りにイイ男が多すぎたのね。一人に選べなかったの。結局、生涯独身で天涯孤独。後悔はしてないけどね」
彼女はもともと一人っ子で兄弟姉妹はおらず、両親はすでに他界し、交流のある親戚もいないという。
「僕も親兄弟はいませんよ」
「あら、先生もそうだったの?」
「ええ、お仲間ですね」
志保が布団から肘を持ち上げ、水崎が軽く手をタッチする。
「先生は私のような身寄りのない患者ばかり診られているんでしょう? 同じ境遇の人間にシンパシーでも感じてるのかしら」
「独り身の患者の方が仕事がやりやすいんです。やいのやいのとうるさいことを言う親戚や家族がいないので、患者がどうしたいかだけ聞けばいいんです」
「先生って本当にはっきりおっしゃるのねえ……」
まったくだ、と心音は思った。いつか患者の逆鱗に触れるのではないかとヒヤヒヤする。
野鳥の鳴き声に誘われ、志保が窓の外に目を向けた。つられたように水崎が網戸越しに庭を見る。
両親から相続した古い一軒家に彼女は住んでいた。日当たりのいい南向きの庭には、鮮やかな紫のラベンダーや太い茎が立ち上がった赤いアマリリス、オレンジに咲き誇るマリーゴールドなど、色とりどりの花が咲いている。
「あれはハーブですか?」
青年医師の視線の先に、赤いレンガで囲われた一画があった。
「ええ、前はよく紅茶やお風呂に入れていたの」
「少しいただいてもいいですか」
志保が微笑んで、どうぞ、と答えた。水崎が網戸を開け、リビングに面した窓からサンダルで庭に出た。
ハーブの植えられた一画の前にしゃがんで葉を摘み、家の中に戻ってくる。
「少し台所をお借りします」
水崎が奥のキッチンに入っていく。やがてお盆を手に戻ってきた。お茶の入ったガラスのポッドとティーカップがのっている。
ベッドサイドのテーブルにお盆を下ろし、カップにお茶を注ぐと、ハーブティの香りが鼻先をかすめる。
「どうぞ。ミント、ローズマリー、レモンバームをブレンドしました」
志保がカップをゆっくり口に傾ける。
「おいしい……どんな鎮痛剤よりも効く気がする」
小鳥の鳴き声に誘われ、志保が窓越しに庭のミモザの木を見上げた。黄色い花を咲かせた枝に野鳥のメジロが止まっている。
「私、たくさん恋をしたけど、三十歳の頃に初めて結婚したいと思った人と出会ったの……」
懐かしむように志保が目を細めた。
「歳は私より一回り年上で既婚者だった。子供もいて……出会ったときにはもう奥さんと別居していたけど、離婚はしてなかったわ」
ティカップを布団の上に置き、独白するように続ける。
「両親は結婚に大反対で……私たち駆け落ちしたんです。その人と一緒になれるなら仕事も何もかもすべてを捨てていいと思ったわ。結局、戻ってきたんだけどね」
若気の至りを恥じるように、志保がいたずらっぽく舌を出す。
「一週間、仕事を休んだけど、上司が機転をきかせて有休を申請してくれていたから、会社を辞めずに済んだの」
息をつき、さみしげな眼差しをカップの中に落とす。
「結局、私はその人と一緒になることはあきらめたわ。会社に戻って気づいたの。私は仕事が好きなんだって……結婚しながら仕事を続ければいいって思うかもしれないけど、彼は結婚したら私に家に入って、子供を育てて欲しがってた……」
少し沈黙が落ちた後、心音が訊ねた。
「その人はどうされているんですか?」
「結局、奥さんとは別れて……何年か後に別の人と再婚したと聞いたわ」
おだやかな表情に後悔の色はなかった。
「もし彼と結婚していたら、と思ったことはあるわね。家庭に入って、子供を育てて……でもねえ、私がいいお母さんになれたとは思えないの」
志保は自嘲するように呟き、カップのハーブティを口に含んだ。
「結局、結婚したとしても、やっぱり私は仕事をとった気がする。だから、一緒にならなくてよかったのよ」
きっぱりと言ってから心音に顔を向けた。
「天野さん、無理にとは言わないけど、あなたはぜんぶ手に入れてね。仕事も、結婚も、子供も。昔に比べれば今は周囲の理解もあるし、いろんな制度も整っているんだから」
横で話を聞いていた水崎が、隣にいる部下の看護師を白けたように指さす。
「こいつ、結婚したら仕事はしたくないって言ってますよ。玉の輿に乗って専業主婦になるんだって」
心音があわてたように手を振る。
「ちょ……先生! そんなことないですよ。私はずっと看護師の仕事を続けます。そりゃ子供ができたらしっかり産休はいただきますけど……復帰します。せっかくとった国家資格を無駄にはしません」
ふふ、と志保さんは笑った後、ゴホゴホとせき込んだ。カーディガンの背中を心音がさする。
ハーブティーを飲み、落ち着きを取り戻すと、志保が部屋の書棚に目を向けた。
「私が働いた時代は雑誌に元気があった……でも今はもう全部ネットよ。私みたいな紙の編集者は時代遅れなの。昔かかわった雑誌もみんな休刊になって、当時の仲間たちもバラバラ……」
「私は紙の雑誌、好きですけどね。情報がコンパクトにまとまっていて」
心音がフォローすると、志保が優しげに目尻を下げる。
「ありがとう。でもいいの。仕事でやりたいことはやり尽くした。私の人生の最後の望みはただ静かに逝くだけ。亡くなるときは死神が見えるって言うでしょ? 私、楽しみにしてるのよ。どんなお迎えが来るのか」
「それは医学的にはせん妄と言います。洗面所に誰かが立ってるとか、見えない人が見えるのは脳の錯覚です」
せん妄は終末期の典型的な症状だ。夜間や突然の吐血などの後などに起こることが多い。幽霊の正体と言われている。
「あら、そうなの……夢がない話ね」
心音が足先で上司のすねを軽く小突くと、水崎があわてて言い繕う。
「ですが、せん妄に出てくるのは、その人がいちばん会いたかった人だそうです。臨終の際に会いたい人に会わせてくれる、脳の素敵な機能の一つと言われています」
「ふふ、楽しみね。私には誰がお迎えに来るのかしら……やっぱり過去に付き合った男たちがいいわね。今の頭の薄くなったおじさんの姿じゃなくて、若いときの姿で来て欲しいわ」
茶目っけたっぷりな言い方に心音は笑った。長い人生をお一人様で貫いてきた志保には何ものにも依存しない孤高の美しさがあった。
「できるなら楽に亡くなりたいわ。ねえ、先生、私が苦しんでいるようだったら〝お薬〟を使ってね」
薬とは鎮静剤のことだ。患者を眠らせ、終末期の苦痛を緩和することをセデーションと呼ぶ。特に亡くなる直前の鎮静剤の投与はターミナルセデーションという。
「はい、わかっています」
水崎が約束し、志保が安堵の表情を浮かべる。
「あとは先生のバイオリンね。美しい音楽を聞きながら逝きたいの」
「訪問診療で楽器は持ち歩きませんから」
水崎は音大を二年で中退し、医学部で入り直した変わり種だった。二十代はほとんど学生をやっていたという。この青年医師にどこか少年っぽい青臭さが残っているのはそのせいだろう。
「車にバイオリンを乗せておけばいいじゃない。そのくらいの場所はあるでしょ」
志保からプライベートを根掘り葉掘り訊ねられ、音大に通っていたことを白状させられた水崎は、バイオリンを持ってこさせられ、このリビングで演奏会をさせられた。
それは見事な腕前だった。ただ、なぜ水崎が音楽の道を諦め、医者を目指したのかはけっして語ろうとしない。
志保は古いレコードを収集するのが趣味だった。特にフランスのシャンソン歌手エディット・ピアフのファンで、リビングにあるレトロなレコード台からはよく彼女の曲が流れていた。
「私、先生のバイオリンで大好きなピアフを聴きながら逝きたいの。セデーションとバイオリン――先生、これは患者である私との約束よ」
「……わかりました。できるだけご要望にお応えするようにします」
押し切られるように水崎は承諾した。
◇
別れのときは突然やってきた。
訪問看護ステーションの看護師から北条志保の容態が急変したと伝えられ、心音と水崎は彼女の自宅に駆けつけた。時計は夜の21時を回っていた。
ベッドでは志保が苦しそうに喘いでいた。チアノーゼで顔が青紫色に変わっている。訪問看護師が耳たぶに挟んだ機器の数値を見る。
「酸素飽和濃度、79です」
「カニューレをリザーバーに変更して4リットルに。酸素中毒に注意」
水崎が指示を出した後、志保の耳元で呼びかけた。
「志保さん、僕の声が聞こえますか?」
瞼が弱々しく持ち上がる。視線は焦点を結んでいない。
「痛みはありますか?」
志保が小さくうなずき、かすれ声で言った。
「先生……お迎えの人、誰も来なかったわ……」
虚ろな顔にかすかに苦い笑いがにじむ。
「私……最後までひとりぼっちね……」
苦しげに眉間に深いシワを寄せる。
「……楽にして……」
かすかにそれだけ聞き取れた。
「薬を入れると、あなたは深い眠りについて意識が戻らない可能性があります。それでもかまいませんね?」
医師の問いかけに志保の顎が小さく動く。水崎が立ち上がり、セデーションの準備に移った。
心音が肘の上を駆血帯で締め、腕をアルコール綿で消毒し、注射針を穿刺する。留置針をテープで固定し、カテーテルを接続する。
水崎が催眠鎮静剤をアンプルから注射器に吸い上げ、カテーテルに刺し、最期にもう一度だけ、志保の顔を見る。
布団からはみ出した痩せ細った女の手が、何かをつかもうとするかのようにわずかに持ち上がり、水崎がその手を握る。
注射器のシリンダーが押し込まれ、静脈にゆっくり薬液が投与されていく。ふっと微笑んだような顔をした後、眠るように志保はまぶたを閉じた。
患者の様態が安定し、後はバイタルサインを見守るだけになった。水崎は「後はこちらで診ます」と訪問看護師に告げ、家を出て行かせた。
心音が電気ポッドからお茶を淹れ、ベッドそばの丸椅子に座る水崎のもとへ湯飲みを持っていく。
二人は言葉を交わすことなく、静かに眠る志保を見つめた。やがて、ぽつりと心音がこぼした。
「さっき志保さんが自分はひとりぼっちだって言ったとき、私、何も言えなくて……志保さんはひとりじゃないって言うのは簡単でしたけど……」
自分たちが訪問診療に訪れるようになって三か月、結局ただの一度も、友人や親せきが彼女を訪れることはなかった。ヘルパーさんやケアマネからも同じ報告を受けている。
身寄りのない無縁の患者ばかりを受け持つ水崎のクリニックでは珍しい話ではないが、華やかなキャリアの晩年に孤独の影がなかったかと言えば嘘になる。
水崎が部屋を出て行き、家の外から戻ってきた。車から取ってきたのか、手には黒い革のバイオリンケースがあった。
バイオリンを肩にのせ、軽くうなずくように顎で固定する。瞼を閉じ、弓を動かすと哀愁漂うシャンソンの旋律が流れ出した。
エディット・ピアフの『La vie en rose(ばら色の人生)』。陽の当たるリビングで何度もレコードから流れたメロディだ。哀しみの中にもどこか陽気さがあり、辛い人生を乗り越える力を与えてくれる。
演奏を終え、水崎がバイオリンを肩から落とした。壁の書棚に行き、志保が編集した雑誌を抜き出し、ベッドに戻ってくる。
「見えますか? 志保さん――これがあなたがこの世に残した足跡です」
意識がなくても人の聴覚だけは最後まで残っているという――そう確信するかのように青年医師は語りかけつづける。
「あなたのかかわった雑誌がなくなっても、紙の本を読む人が少なくなっても、その時代、あなたが全力で作ったものは、それを愛した人たちの心の中に残っているんです」
静かなリビングに水崎の声が響く。
「あなたはあなたの人生の目的を立派にやり遂げた。さみしいなんて思わなくてもいい。すばらしい人生です」
志保の目から涙が零れ落ち、頬を伝った。
意識のない人が涙を流すのは、眼球の粘膜に溜まった水分が流れ出る生理現象と言われるが、心音には志保が本当に泣いたように見えた。
やがて志保の顎が大きく動きはじめる。たまに呼吸をさぼるかのように止まる。また再開する。だんだんと息が止まっている時間が長くなる。
血圧を表示するモニターが80、70、60と下がっていく。すでに脈がとれるかどうかさえ微妙な状況だ。
彼女が亡くなったのはそれから一時間後だった。
ずっと志保の手を握っていた水崎が立ち上がる。ペンライトで瞳孔の散大と対光反射の消失を確認した。腕時計に目を落とし、厳かに告げた。
「23時48分、お亡くなりになりました」
主治医と看護師が手を合わせる。心音が酸素マスクを外し、腕に刺さっていたサーフロを抜く。遺体を拭き清めるエンゼルケアの準備に入る。
「ひとりぼっちなんかじゃない」
クールな青年医師が泣き笑いのように顔を歪める。
「働いた、愛した、生きた――あんた、最高にかっこいい女じゃないか」
(完)