第80話 S級ハンター、子どもを守る
【使役】
ラクエルさんの冷たく硬い声が、夜の街に響く。
同時に指に嵌めていた指輪が光った。
「本当に魔力増幅器なのか……」
側のガンゲルが息を飲む。
確か自分の『戦技』や『魔法』を増幅させるための魔導具だ。
色々な形状があって、他にも杖やブローチのようなものもあるって聞いたことがある。
『ワヴヴヴヴヴヴ……』
突如、神獣が呻き出す。
何かに抗うように首を振ると、今度は立ち上がった。
まるで見えない何かと戦っているように僕の目には映る。
明らかに神獣は苦しんでいた。
「やめて! 神獣が可哀想でしょ!!」
誰が神獣を苦しめているかは一目瞭然だ。
僕はラクエルさんに向かって叫ぶと、飼い主はこちらを見た。
「アイム、お腹は空いていないかい? そら? そこに食べ頃の餌があるよ。柔らかくて、弱っている君でも食べられそうだ」
「え?」
「やれ……。アイム」
ラクエルさんは僕に向けて指を差した。
途端、アイムと呼ばれた神獣の目が光る。
先ほどまで、あんなに苦しんでいたのに、その表情は一変した。
すっくと四つ足で立つと、真っ直ぐ僕を射抜く。
今にも獣臭が漂ってきそうなほど、大きく息を吐き出し、ぬらりと光る牙を剥きだした。
「え……」
聞いたのは、ただ地面を蹴る音だけだ。
気が付いた時には、僕は大きな影の中にいた。
側にいたガンゲルは僕を突き飛ばし、一目散に逃げる。
お尻を付けた僕には、猛り狂った神獣の顎門を見ていることしかできない。
動こうにも、完全に足が竦んでいた。
やられる……。
僕はその時、死を覚悟した。
ぐっと目を瞑る。
直後、僕の頭を通りぬけていったのは、突風だった。
剃刀のように空気を裂くと、神獣に襲いかかる。
反応した神獣は一旦僕から離れた。
少し離れたところで、ラクエルさんが舌打ちするのが聞こえる。
僕の視線は真っ先に自分の保護者に向かった。
「シェリル!」
怪我した脇腹を押さえながら、シェリルは荒い息を吐き出していた。
ラクエルさんの言う通り、急所は外れているようだけど、大怪我であることには間違いない。
早く治療系の『魔法』が使える治療師か、医者に診せないと大変なことになる。
だが、シェリルの戦意は全く衰えていない。
目の前の神獣と同じく体力が減れば減るほど、増しているように見える。
「おい、神獣。あんたにも守らなければならないようにな。あたしも守るべきものがあるんだ」
シェリルは大きく息を吐く。
コートの中から薬を取りだし、乱暴にぶっかける。
回復薬じゃない。おそらくだけど、傷の痛みを麻痺させるための麻酔薬だろう。
「まだ戦う気ですか、シェリルさん? もしよろしければ、ここで引いて差し上げてもいいんですよ」
ラクエルさんは口の端に笑みを浮かべながら、手を差し伸べる。
シェリルは当然相手にしなかった。
ただ低いトーンでこう呟く。
「お前、何もわかってないな」
「はあ??」
「そうやって無理やり【使役】した結果、その神獣を不幸にしたとは思わないのか?」
「何を言って……」
「普通、神獣は【使役】することはできない。魔物と神獣は同じ魔力を栄養源にするといっても、根本が違う。……そうやって【使役】できているということは、【使役】以外のことを、お前がしたということだ。たとえば薬物を投与したとかな」
思い出したのは、初めてラクエルさんが屋敷に来た時だ。
非常に強い刺激臭がした。
あれはやっぱり薬物の匂いだったんだ。
それもかなりキツい……。
シェリルは説明を続けた。
「その薬のおかげで、その神獣はホルモンバランスを崩した。元々神獣は男性女性両方の機能を持っているからな」
「そんな……。それじゃあ、ラクエルさんが無理やり妊娠させたようなものじゃないか!」
ひどい……。
神獣を【使役】したいからって、そこまでするなんて……。
心が深い闇の中に落ちていくようだ。
無理な妊娠に……。
望まれない子ども……。
僕はギュッと胸の前で手を握った
まるで『黒い絶望』みたいだ。
「ふははははははははは!!」
僕の心を無茶苦茶にするように、その笑声が響き渡った。
「無理やりなんて人聞きの悪い。これは僕とアイムの愛の結晶ですよ。むしろ祝福していただきたいですな。さあ、アイム……」
ラクエルさんは再び指輪を掲げる。
その時だった。
側で空気を裂くような音が聞こえた。
瞬間、ラクエルさんが嵌めていた指輪が弾ける。
さらにラクエルさん自身も吹き飛ばされた。
何が何だかわからず立ち上がると、ラクエルさんは気付く。
指輪をしていた指が欠損していたのだ。
「うぎゃあああああああああああ!!」
先ほどまで愉快げに笑みを湛えていたラクエルさんの表情が一変する。
件の指を押さえたが、赤い鮮血がドクドクと道ばたに落ちて、血だまりが広がった。
「き、貴様…………」
ラクエルさんは苦痛に顔を歪めつつ、頭を上げる。
視線の先にいたのは、シェリルだった。
筒状にした手を口元に当てている。
どうやら、先ほどの鉄棒でやったことを自分の手でやったようだ。
「シェリル!!」
「心配するな、ゼレット」
僕が声を掛けると、思いの外早く返事が返ってきて、逆に僕のほうが戸惑ってしまった。
「あたしはあんたの保護者だ。あんたの命も、胸の中のことも、あたしが守ってやる」
「シェリル……」
不意に頭を撫でられたような気がした。