第2話 元S級ハンターの日常
「暑い……」
俺は声を漏らし、ハッと目を覚ます。
視界に飛び込んできたのは、泊まっている宿屋の天井だ。
非常に年季が入っていて、時々雨漏りもする。
今年めでたく築60年だそうだ。子どもの頃から宿屋の事は知っているが、それを聞いた時はさすがに驚いた。
宿屋『エストローナ』は、俺がハンターとして独立してからずっと泊まっている宿である。
床も天井もボロボロ。壁も薄くて、隣から寝息が聞こえてくる。
風呂なし、トイレは共同。通りに面して、窓を開ければ雑踏の声が飛び込んでくる。加えて景色もいい方ではない。
一方、宿賃はお手頃価格だ。
朝夕、大家の手料理を食えるという特典が付くが、味については好きずきといった所だろう。
S級ハンターともなれば、それなりに良い宿や、或いは郊外に一軒家でも建てられるのでは? と言う質問を耳が腐るほど聞いてきた。
答えはNOだ。
ハンターギルドは、いつも資金難だ。
魔物といっても、そう人間に悪さをするものではない。むしろ人間が縄張りに迷い込み痛い目を見ることがほとんどだ。
だからイメージほど、魔物の討伐依頼がないのである。
依頼がなければ、褒賞金も出ない。当然ハンターギルドの儲けも少ない。
そんな慢性的な赤字経営を、パトロンである貴族の資金で補填し、これまで食いつないできたのである。
ガンゲルの顔を浮かべるだけで、殴りつけたくなるが、あっちはあっちで苦労していることは知っている。
パトロンに頭が上がらない理由も、一応理解はしていた。
それを置いておくとして、討伐依頼がないのは、ハンター側にとっても死活問題だ。
加えて褒賞金も少ないのでは、生活もままならない。
ハンターの中には、こっそり副業をしている者もいる。昔2000名以上いたというハンター会員も、今や700名と年々減少傾向にあった。
まあ、前職の愚痴を今さら言っても仕方がない。
俺はついに辞めたのだ、ハンターギルドを……。
とりあえず今、俺がすべきことは、夏でもないのに大量の汗を掻く羽目になっている元凶を取り除くことだろう。
俺は自分の下腹部当たりに視線を落とした。
猫耳の獣人娘が、ヒシッとしがみついている。太い尾をうねうねと動かし、俺のシャツに手を入れて、まさぐるような動きを見せていた。
その顔は実に幸せそうだ。
「起きろ、バカ弟子!」
猫耳少女の頬を軽く叩く。
嫌々と首を振るだけで、瞼は固く閉じたままだ。
すぐに深い眠りにつくと、「いやん。師匠! そこは――――全然OK」とやたら長文で寝言を呟いていた。
しかも、生まれたままの姿でである。
裸の馬鹿弟子は、先ほどから割とふくよかな胸の膨らみを、これでもかと押し当てた上で、俺の身体にしがみついていた。
この獣人娘の名前はプリム・ラベッド。
一応、俺の弟子ということになっている。
身体が細く、胸はなかなか。性欲が強い男なら貪り尽きたくなるほど、いい身体をしているが、本人の頭の中身は6歳児――いや、それ以下だ。
だが、トロルが可愛く見えるほどのバカ力を持ち、ハントに出かけた時、後方要員として活躍している。
「お前の部屋は隣だろ。鍵をかけていたのに、どうやって入ってきたんだ?」
俺は部屋の扉を見る。
ドアノブがあらぬ方向にひしゃげ、鍵が壊されていた。
誰がやったか尋ねるまでもない。
「また大家に怒られるな、これは」
黒髪の頭を掻くと、俺が寄りかかっていたベッドが動いた。
否、それはベッドではない。
モフモフの獣毛が生えた大きなお腹であった。
次いでペロリと俺の頬は、大きな舌に舐められる。
首を傾け仰いだ先には、鋭い黄金色の目が俺を見つめていた。
ピョンと耳が立ち、欠伸をすると鋭い牙が光る
何よりもモフモフの銀毛は圧巻で、特に頭や顎下の毛量が多く、尾はモフモフというよりはさらっとした感触でまた気持ちがいい。
全体的な毛の量が多く、モコモコした感じだが、身体そのものはしなやかで、野性の狼を想起させる。
名前はリル。
神獣アイスドウルフの子どもで、俺の唯一の相棒だ。
神獣という珍しい種類のリルは、そこらの魔物よりも遥かに強い。
Aランクの魔物なら、単独で倒せるだけの実力を持っていた。
しかしながら、その役目は最近では俺専用のベッドに成り果てている。
何故なら、ハンターとしての活動はなく、その歯牙も錆び付く一方だからだ。
俺ができることといえば、リルの鼻の頭を撫でて、無聊を慰めてやることぐらいだろう。
「ちょっと何をしてるのよ、ゼレット!」
飛んできたのは、フライパンだった。
俺は反射的に反応する。
くるくるとブーメランのように回るフライパンの動きに合わせ、指をかけると、指先で回して、その動きを止めた。
「おい。いきなり人に向かってフライパンを投げるとはどういうことだ? フライパンは、お玉で叩くのが鉄則だろ」
振り返ると、金髪のエルフが立っていた。
ポニーテールにした髪を青いリボンで結び、緑色の瞳は今憤然と俺を睨んでいる。小柄な体格に、小顔はまだあどけなさを残している。
エルフの少女は手を腰に当て、1度ふんと鼻息を荒く吐き出した。
「扉が壊されてるって気付いて、飛び込んでみれば、あんた朝っぱらから何をやってるのよ。あとフライパンはお玉で叩くものではなくて、立派な調理器具よ」
「人に投げた張本人が何を言ってるんだ、パメラ」
「う、うるさいわね! うちはそういう店じゃないんだから。服を着て!!」
「服? シャツなら着てるぞ?」
「あんたのことはいいのよ! プリムさんの方よ」
プリム?
ああ。そう言えば、ずっと裸のままで俺にしがみついているんだった。
毎朝のことなので、忘れてた。
「吠えるなよ、パメラ。このバカ弟子を女と思ったことは、1度もない」
「そう言うことを言ってるんじゃないわよ! てか、何げにプリムさんに失礼でしょうが! もう!!」
バルーンフィッシュみたいに頬を膨らまし、頭からピョンと生えたアホ毛を、ファランクスの槍のように動かすこのエルフは、宿屋『エストローナ』の若き大家にして、俺の幼馴染み――パメラ・エストローナである。
両親が魔物の被害に遭い、この宿屋を15歳にして引き継いだ薄幸の少女設定の持ち主は、終始俺に対してツンツンと怒鳴り散らしてばかりいる。
ここには俺の他にも、同業者が泊まっているが、何故か俺だけが標的にされていた。
幼馴染みというのもあるのだろうが、一応客なんだから、もう少しマイルドな接客を求めたいところだ。
「と、とにかく! 顔を洗って、食堂におりてきて。朝ご飯が冷めちゃうわよ」
「朝ご飯!!」
ピュキュン!! と変な擬音を立てて、プリムはようやく目を覚ます。
やれやれ……。全く現金な弟子である。
こうしてハンターではない俺の1日が、また始まるのだった。
引き続き第3話もすぐに投稿します。