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私は彼が好きでした。
このルラ王国のたったひとりの王子様、アイウトン殿下。
侯爵令嬢である私とは幼なじみで、子どものころからの婚約者でもありました。
月光の雫のような銀の髪に氷のように透き通った青い瞳。
少年のころは中性的であどけなく、妖精のようだと言われていました。
成長して青年と呼ばれるようになるころには、冷たく厳しい冬の神のようだと言われるようになりました。公務に携わることが多くなったので気持ちを引き締めたのでしょう。凍りついた顔を溶かしたのは婚約者の私ではなく──
「……お嬢様、よろしいでしょうか」
悲しい記憶に沈みかけた私の意識を呼び戻したのは、侍女の声でした。
寝室のベッドの端に腰かけたまま、手にした本から視線を外して尋ねます。
「なんですか?」
ルラ王国の貴族子女と裕福な平民が通う学園を卒業して一年、私はずっと王都の侯爵邸に引き籠っています。
屋敷の侍女や使用人達はそんな私を気遣って、庭の花の開花や新作のお菓子の完成などを伝えて気持ちを盛り上げてくれます。庭の木々でいつも歌ってくれている鳥達が恋人を見つけたことも教えてくれましたっけ。もっともそのときは私を案内してから、この話題は良くなかったかと慌てていましたけど。大丈夫、ちゃんと嬉しかったですよ。
今日もまた、思わず微笑まずにはいられないことを教えに来てくれたのでしょう。
「……」
「どうしたの?」
自分から声をかけてきたにもかかわらず、侍女はなかなか答えようとしません。
素敵なことだから伝えようと思って来てくれたのに、ここへ来て初めてそれが恋愛関係のことだったと気づいたのかもしれません。例の鳥達の卵が孵ったのなら、是非教えてもらってこっそり様子を窺いに行きたいものなのですが。
私が首を傾げたときでした。
「テレサ!」
少し甲高いことを気にして、いつも低く落として発音していた声を素のままに響かせて、銀の髪の青年が飛び込んできました。
学園在学中にしていたように、前髪を上げて油で撫でつけてもいません。
体だけ大きくなった妖精が煌めく青い瞳に私を映します。一瞬、白い肌がほんのりと赤く染まったように見えたのは気のせいだったのでしょうか。
「い、いけません、アイウトン殿下! 殿方が年ごろの令嬢の寝室に入るなどと!」
「どうして? テレサは僕の婚約者じゃないか。体調を崩して引き籠っている婚約者に会いに来て、なにが悪いの?……ほら!」
侍女の制止に薄紅の唇を尖らせて、殿下は持っていた籠を掲げました。
「ちゃんとお見舞い持ってきたんだよ? テレサの好きなお菓子に、王宮の庭園で咲いた花で作った花冠! しばらく部屋から出してもらえなくて花は衛兵に頼んで摘んできてもらったけど、花冠に編んだのは僕だよ」
「あ、ありがとうございます……?」
ベッドの端に座っていた私は立ち上がりました。
数日前、いいえ数ヶ月前から読んでいる、一向に先へ進まない本をベッドの上に置いてスカートの裾を摘まみ、殿下にカーテシーを披露します。
さすがに昼間から寝間着姿ではありません。順番がおかしくなっていますが、それでも臣下として礼を尊び、挨拶を口にしました。
「本日のご訪問を感謝いたします。……どのようなご用件でしょうか」
「なにそれ」
殿下が眉根を寄せます。
寄せたまま、彼は苦しげな表情で俯きました。掲げていた籠は降ろし、縋るように両手で包んでいます。
しばしの沈黙の後、顔を上げた殿下が青い瞳で私を見つめます。
「……やっぱり本当なんだね。テレサは大人の女性になってるし、僕も体が大きくなってる。僕は学園に入学して……ほかの女性と浮気してテレサとの婚約を破棄したんだね?」
「……」
はい、そうです。と答える代わりに、私は無言で俯きました。
声を出すだけで涙がこぼれ落ちそうだったのです。
アイウトン殿下のお言葉だけであのときのことが思い出されて、胸がいっぱいになっていたものですから。