傷
多分、気のせいではない。
視線の端にきらりと光ったものが見えた気がして、私は勢いよく振り向く。
そこには明るく開けた中庭と、段々と冬支度をしているような植物たち、少し驚いたような顔の衛兵がいるだけだ。
変わったところは何もない。
けれど。
「グレゴリー嬢?どうかされましたか?」
「…いえ…。
考え過ぎだとは思うのですが………誰かの視線を感じて…。」
あれから。
王妃様とお会いしてからギルバート様は少し、いやだいぶ、過敏になっている気がする。
私の前ではあまり表に出さないけれど、周囲の警護の方も増えているし、お茶一杯、クッキー一枚いただくにもまずは念入りな毒味からだ。帰宅するときには一緒に馬車に乗ってグレゴリー邸の玄関先まで送って下さることもある。
心配し過ぎではないかと思うこともある。けれど、ギルバート様を止める気にはなれなかった。
彼がどのように母を亡くしたか、詳しくは知らない。誰も、私には教えない。けれど、伝え聞いた断片だけを継ぎ合わせれば、彼に心配するなという方が酷だ。
きっとさっきから感じているこの視線も、私を心配したギルバート様がこっそりつけた警護の方のものなのだろう。
衛兵もそれはわかっているようで、言葉を探すように少し黙った後で、困ったように私に小さく微笑む。
「…ギルバート様はグレゴリー嬢のことを大切に思われているのですよ。」
どう言う意味で大切かどうかは置いておくとして、少なくともギルバート様にとって私は「死なせたくはない人」の中に入れられているのだろう。
そう思えばありがたいけれど、あの、ギルバート様の焦ったような、不安そうな顔を見るのは辛い。
「…参りましょう。ギルバート様が首を長くしてお待ちですよ。」
「…はい。」
私がそう短く答えて踵を返した瞬間、大きく風が吹いた。
髪がぶわりと風に大きくなびき、ギルバート様からいただいたガラス細工の髪飾りが緩む。
そうと気づいた時には髪飾りがするりと髪を抜けてしまっていた。
「あっ!!」
慌てて手を伸ばすもとても間に合わない。
割れる!と思わず目を瞑ったが、割れた音はしなかった。
ただ、その代わりに何故かザザザッという音は聞こえたが。
不思議に思って恐る恐る目を開ければ、見えたのは粉々の髪飾りではなく、倒れ込んだ小さな体と小さな手。赤褐色の髪。
「…弟君!?」
彼はよいしょっと小さく言いながら体を起こすと、私に向かって手を伸ばす。
「はい。」
彼の手の上にはどこも欠けていない、綺麗なバラの髪飾りがちょこんとのっている。
戸惑ったまま動けない私に、弟君は背伸びをするかのようにますます手を突き出した。
それでやっと私はお礼を言いながら髪飾りを受け取る。
「あ、ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
弟君は自慢げに胸を張った。
けれど、その服はやけに土で汚れている。よく見れば彼の小指から手首にかけて軽い擦り傷もある。
まさかと思い、しゃがみ込んで彼の体をよく見れば、ズボンと膝の辺りに土の汚れと擦ったような跡がついていた。
「…これを取るために…?」
「はしるのはやいから。」
そう言って、彼は小首を傾げてにこりと笑った。
賢い人ならこんな時どうするのだろう。
丁寧にお礼だけ言って、ここで彼と会ったことは無かったことにするのだろうか。
そうすればギルバート様に心配をかけることはないだろうし、両派閥に妙な刺激をしないで済む。
けれど、こんなに小さな子が怪我をしてまで私の大切なものを守ってくれたのだ。
怪我をしているのを放っておいて、そのまま「はい、さようなら」と言う気にはとてもなれなかった。
私は髪飾りを髪に刺してから弟君の両手をとり、彼と目を合わせる。
「ありがとうございました。おかげで宝物が無事でした。」
「うん。よかった。」
「でも、怪我をさせてしまって…。痛いでしょう。本当にごめんなさい。」
弟君は首を傾げてキョトンとした顔で私を見る。
私が小さく彼の手を指差すと、彼は今気づいたと言わんばかりに笑った。
「痛くないからだいじょうぶ。」
「いえ、消毒しましょう。」
「しょうどくのほうが痛いよ。」
手を繋いでギルバート様のお部屋に向かおうとする私の手を払って、弟君は逃げ回る。
私はどうにかして早く消毒しなければ、と彼を追いかける。
相手が相手なだけに、衛兵も何もできずおろおろと困った様に私たちを見ている。
そのうち、息切れし始める私とは対照的に、弟君は追いかけっこでもしているかのように楽しそうに笑い始めた。
「弟君…!」
「セバスチャンだよ!」
「セバスチャン様、止まってください!消毒を…。」
「おねえちゃんの名前は?」
「私は…。」
ぜえぜえしながらも質問に答えようとしたその時、ふと、顔に影がかかった。
ギルバート様かもしれない、と私の心は少し暖かく緩み出す。
約束の時間よりも遅れてしまったから迎えに来て下さったのかもしれない。
それか、影から見ていた警護の方が呼んできてくださったのかも。
そんな能天気な予想は顔を上げた時に消え失せた。
緩み始めていた心もカチンと凍ったように冷たくなる。
「………おや。」
優雅な手つきで扇を広げた王妃様がこちらを見下ろしていたのだ。
気づけば何週も更新をお休みしておりました…。申し訳ありません!




