愛称
私とギルバート様は手を繋ぎながらバラ園の奥へと入っていく。
迷路のような薔薇の茂みを抜けた先には東屋と芝生と真っ青な空が見える。
「ここ?」
「はい。私のお気に入りの場所ですの。」
「花がいっぱい咲いてるね。」
「ええ、季節ごとにいろんな花が咲きます。
あそこでお茶を飲みながら眺めていると、とても落ち着いて幸せな気持ちになるのですわ。」
そう言って私が東屋を指さすと、ギルバート様はふうん、と相槌を打った後で座る?と聞いてきた。
私がギルバート様に座りたいかどうか聞けば、少し考えた後で、首をふるふると振った。
「花の名前を教えて。
この間教えてくれた花の名前は全部覚えたんだ。
新しい花がたくさん咲いてる。」
どうして私はあんなに不安に苛まれていたのだろう。
そう自分に問えば、ただただ、自分に自信がなかっただけなのだと思い知らされる。
ギルバート様は私に不安を抱かせるようなことはなさらないのに、私が勝手に卑屈になっていじけているだけなんだわ。
その大元の原因は自分にあるのに、まるで被害者みたいな顔をして。
そう思えば自己嫌悪の波に飲み込まれそうにもなるが、私は内心でぐっと堪える。
反省と後悔は別だわ。
自信がないのならば自信がつくまで努力を続ければいいのだ。
ギルバート様の隣にいることに気後れをしないためには、自分1人で立てるように知識や能力を身につけるしかない。
そのことに気づくのに、オリバーやナディアには本当に心配をかけてしまった。バラバラ先生にも。
そう思ってそっと後ろを振り返れば、少し離れた所にオリバーの姿が見える。
彼は私と目が合うと、オリバーはにこりと笑った。私も微笑み返すと、ギルバート様が後ろを振り返る。
オリバーがにこりと笑って頭を軽く下げると、ギルバート様はしばらくじっとオリバーを見てから、私の手をきゅっと握り直して前を向く。
ちょっとむっとしてるように見えるのは気のせいだろうか。
ともあれ、ギルバート様はまた歩き出し、近くの花を指さした。
「この花の名前は?」
「キャットミントです。
猫ちゃんが好きな植物なのですって。」
「へえ。猫は好き?」
「大好きです。いつか飼ってみたいですわ。」
「そっか。いいね。あれは?」
「あれは桔梗ですわ。
ほら、花びらが繋がって、蕾が風船のようでしょう?」
私が促すと、ギルバート様は桔梗の蕾をそっと触り、その小さな風船のようなぽよぽよとした感触に驚いたような顔をする。
その顔があまりにも可愛らしくて、私の顔は勝手ににやけていく。
「ですから、別名はバルーンフラワーというのですって。
可愛らしいですよね。」
「そうだね。
…クラウディアにはそういうのはないの?」
ギルバート様が私の顔をじっと見て聞いてくる。
けれど、私はギルバート様のおっしゃる『そういうの』がまたもや分からない。
首を傾げつつ考えるもなかなか思いつかず、結局、私もギルバート様をみながら『そういうの?』と聞き返してしまった。
「桔梗がバルーンフラワーみたいな…。」
「ああ、別名…愛称のことですか?」
こくりと頷くギルバート様を前に、私はうーんと考え込む。
そういえば孤児院の子達を除いては、誰からも愛称で呼ばれたことはない。
「そうですね…。実は私、あまり愛称で呼ばれたことがないのです。
慰問に訪れている孤児院の子達は『ディー』とか『ディア』と呼んでくれますが…。」
「ディー…、ディア。」
「ええ、当時はまだ彼女たちには私の名前の発音が難しかったみたいで。
今もそう呼んでくれています。
とても可愛いんですのよ。」
ギルバート様はそれに頷いた後、俯きながら何やら何回もディア、ディーとぶつぶつと繰り返している。
そして、孤児院の話が何やらひっかかったのかと少し不安になった私が顔を覗き込むその前に、ぱっと顔を上げた。
「ディア…うん、可愛いね。」
「?ええ、みんな可愛かったですわ。」
「うん、それにしよう。君にぴったりだ。
これからはそう呼ぶことにする、ディア。」
大きく心臓がどくんと跳ねる音が聞こえた。
繋いでいる手から伝わってはしまわないかと思うほどに、どくどくと早鐘のように動悸が早くなる。
顔も赤くなってきているのではないだろうか。何だか急に体が熱くなってきた。
私は慌てて誤魔化すように頬に手を当てる。
「では、ギルバート様のことは何とお呼びしましょう。
何か愛称はございますか?」
「ギルバートと以外は呼ばれたことない。
何がいいかな。」
「そうですわね…ギルバート様の名前を一部とって、多分、『ギル』とか『ジリー』とか『バート』とか、が一般的でしょうか?」
「ディアはどれが良い?」
「どれも素敵ですけれど…『バート』の発音は『鳥』に似ているので、ギルバート様の柔らかい髪によくお似合いですわ。」
「髪?」
「ええ、ふわふわの羽毛みたい。」
「…それはいいこと?」
「もちろんですわ。柔らかくて繊細でとても美しくて憧れます。」
そう言いながら、私は思わずギルバート様の髪に触れていた。
それは見た目通り、柔らかく、キラキラと陽に溶けていくように透けてとても美しい。
心の底から羨ましいほど。
ギルバート様は少し俯きながら上着の裾をきゅっと握る。
「そっか…。初めて言われた。」
その仕草の可愛らしさに圧倒されながらも、私は自分が無意識にギルバート様の頭を撫でている形になったことに気づき、慌てて手を引っ込めた。
「申し訳ありません、私、思わず…。」
「ううん。
ディアにそう思われるのは嬉しいし、そう呼んでもらえるのは嬉しい。」
そう、少し恥ずかしそうに言った後で、彼は可愛らしくはにかみながら、満面の笑みで私を見つめて呼ぶのだ。
「ディア。」
そのあまりの威力に、私は少しの間言葉を失う。
顔が見られないような、それでいてずっと見ていたいような、複雑な心のどこか遠いところで、メインヒーローって本当に物凄い天然タラシなんだな、と思う。
顔がいい上にこちらが勘違いしてしまうようなことを、こんな風にさらりと言ってのけるのだ。ご丁寧に最高に可愛らしい仕草もつけて。
きっとこれからこうやって勘違いして泣く女の子がたくさん現れることだろう。
もちろん私はその中には入らないけれど。入らないようにするけれど。
けれど。
「ディア、名前を呼んで?」
「……バート様。」
「うん、ディア。次はいつ会える?」
ギルバート様の瞳がきらきらと色を変える。
きゅっと力を込められた手からは温もりが伝わってくる。
もはや私にはこの手をうまく手放せるか、自信がなくなりつつあった。




