魔法
突然黙り込んだクラウディアの涙が溢れる前に、と私が口を開く前に、クラウディアはぱっと顔を上げ、にこりと笑った。
まだ涙こそ溢れていなかったが、その瞳は少し離れた私からでもわかるほど潤んでいた。
「…ありがとうございます。本当に…本当に、私、嬉しいです。
お花も、クッキーも、それに、ギルバート様のお気持ちが、本当に。
本当に………私は大馬鹿者ですわ。」
その噛み締めるような言葉からは、確かにクラウディアが本心から喜んでいるのだと、そう思えた。
けれど、最後の不穏な言葉と共にクラウディアの顔がくしゃりと歪みかける。
ついに涙が溢れるか、と思ったその時、ギルバート様がにこりとクラウディアに微笑みかけた。
「クラウディアは馬鹿じゃないよ。
花の名前をたくさん知っているし、刺繍は上手だ。」
その言葉に、クラウディアは虚をつかれたようにぽかんとする。
それから、気が抜けたようにふふっと声を出して笑った。
ギルバート様もそれを見てほっとしたようだ。
「ハンカチの刺繍、すごく上手だし、イニシャルも入ってて嬉しい。大事にする。」
「ありがとうございます。
でも、私、もっと頑張らなくちゃいけませんわ。
刺繍も、お作法も、語学も、計算も、他にももっと。」
「どうして?」
「そうすれば自信がつくかと思いまして。
もう自分を馬鹿だと思いたくないですし、そのせいで周囲に心配もかけたくないんですの。」
その口ぶりからして、私はクラウディアが自己肯定感の薄さからまた何か悩んでいたのだろうとは察した。けれど、ギルバート様はクラウディアの言葉の意味をはかりかねているようで、首を小さく傾げている。
しかし、クラウディアが笑っているので問題ないと判断したのか、にこりと笑った。
「計算なら教えてあげるから大丈夫。」
クラウディアがまた嬉しそうに笑った。
「ええ、そうでしたわね。
よろしくお願いいたします。」
「最高の家庭教師ができたな。
ギルバート様は教授たちも舌を巻くほど優秀なんだ。」
「ええ。実は先日も色々と教えていただきましたの。」
クラウディアは王宮での初顔合わせの話を楽しそうにし始める。
大変円満に終わったという報告は上がっていたが、確かにそれは本人たちにとって楽しいものだったようで、クラウディアだけではなくギルバート様も会話に加わり、二人でにこにこと話している。
それを微笑みながら聞いていた母は、話に一区切りついたあたりでオスカーに目くばせをした。
「クラウディア、私もこの可愛いクッキーをいただいてもいいかしら。」
「もちろんですわ。みんなでいただきましょう。」
「じゃあ、お茶を入れ直した方がいいわね。
用意ができるまで、ギルバート様に庭園を案内して差し上げたらどう?
ちょうど薔薇が満開らしいわ。」
「ええ、そうですわね。
ギルバート様、一緒に参りましょう。
私のお気に入りの場所にご案内しますわ。」
そう言ってクラウディアが手を差し出せば、ギルバート様はきゅっとその手を握る。
そのまま小走りで出ていく2人の後を、少し離れてオスカーがついていった。
2人の足音が聞こえなくなった頃、母が小さく伸びをした。
「すみませんでした、急に。」
「いいのよ。あなたの方が朝から大変だったんじゃない?
お疲れ様。苦労は報われたかしら?」
にこにこと微笑みながら、母は花瓶に生けられた葉を優しく撫でた。
我が母ながらその可憐で優しげな様子からは、2人の婚約の話をした時に怒り狂って王宮に怒鳴り込みに行こうとした人とは思えない。父も婚約に賛成していたわけではないのに、母を宥める側にまわるしかなかったほど、その怒りは凄まじいものだった。
とはいえ、自分も心の底から賛成しているわけではなかった。
けれど。
「あの方の、あんなにがっかりした顔を見たのは初めてなんです。」
「あら、そうなの?」
「普段は歳の割に感情をあまり見せない方なんです。
我慢されてるという風でもなく、自然に。」
父親があまり顔を見せられなくても、継母にそっけない対応をされても、ギルバート様は淡々と日々の学習や鍛錬をこなす。寂しいとか悲しいといった感情をどこかに忘れてきたみたいに。
腹違いの弟君が生まれると聞いた時も同じようなものだった。ただ『そう。』と言っただけ。
家庭教師たちが口を揃えて天才だと言う方だ。どうせ叶えられない願いならば最初から捨ててしまえ、と期待すること自体を早い段階でやめてしまったのかもしれない。
そうなってしまったのは自分の接し方にも問題があったのでは、と深く反省もしていた。ギルバート様のお母上、ハンナ様がご存命であればこうはならなかっただろうと。
「それが、昨日ハンカチを渡した時、それはもう嬉しそうにされて。
ハンカチを広げたり刺繍をじっと見たりしてにこにこ笑ってたかと思えば、急にきょろきょろした後、みるからにがっかりしたように肩を落とされました。」
「クラウディアを探してたのかしら。」
「クラウディアは具合でも悪いのかと聞かれました。」
母はおかしそうにまたくすくすと笑う。
その後ろで侍女たちも嬉しそうに微笑んでいる。クラウディア付きの侍女に至っては安心したように笑顔のまま涙を拭ってさえいる。
オスカーも婚約以来ずっとクラウディアが心配だと言い続けてくるし、この屋敷の者たちも皆それぞれにクラウディアを心配してくれていたのだろう。
窓の外に目をやれば、楽しそうに手を繋いだまま走る2人の姿が見える。
クラウディアが何かを指差せば、ギルバート様がそれを手に取り、2人で顔を合わせて何やら話しながら笑っている。
正直、今でもこの婚約に両手をあげて賛成している、とはいえない。
まだ2人とも子供だ。年もかなり離れているし、結婚までの長い間にどちらかの気持ちに何らかの変化が訪れるかもしれない。
いつか、少しでも2人のうちどちらかが不幸になる片鱗が見えたら、即、婚約破棄させようと思っている。その時のためのツテももう探り始めている。
けれど。
もう一度外に目をやると、こちらに気づいたクラウディアが笑顔で大きく手を振る。
それを見て、ギルバート様もおずおずと小さく手を振ってくる。
私が手を振り返せば、ギルバート様は嬉しそうににこりと微笑んだ。
それからまた2人で笑いながら、手を繋いで歩き始める。
「…クラウディアは何か魔法でも使ったのかと思いました。」
母はそれには答えずに、くすくす笑ってまた葉を撫でた。
来週も更新予定ですが、作者がワクチン接種のため、ひょっとしたら遅れる可能性もあります。
申し訳ありません。




