刺繍
何度指に針を刺したことだろう。
今や私の小指以外の指には全て、ぐるぐると防護テープが巻かれている。さながら何か大層危険な作業をしてる方の手のようではあるが、私が今しているのはただの「刺繍」である。
私は細心の注意を払って猫のリボンを縫っていく。
それもこれも、先日、ギルバート様にハンカチを褒められたことに気を良くして『次までに作っておく』などと大それた約束をしてしまったからだ。
この、あらゆる習いごとの中で刺繍が一番の苦手である私が。それでなくとも一枚仕上げるのにいつもひと月以上かかっているというのに。我ながら全くもって軽はずみであったことこの上ない。もちろん帰宅してから猛烈に後悔してももう遅かった。
つまり全ては軽率な私の責任なわけで、『第一王子様に差し上げるハンカチ』ということでバリバラ先生のご指導にもいっそう熱が入っているわけで。
私は猫のしっぽの先に最後の針を刺す。
糸もあまり引きつれていないし、布にも皺はあまり寄っていない。今回はなかなか良くできたのではないかと、私は心の中で自画自賛する。
けれど、バリバラ先生は老眼鏡を近づけたり遠ざけたりしながら眼光鋭くハンカチを検査していく。ここで合格をいただけなかったらまた一から作り直し、この1週間の、刺繍以外のことを放り出しての努力が水の泡になる。
そろそろ針に怯える生活から逃れたい私は、合格を願って胸の前で手を組んだ。
「…じゃあ、イニシャルの刺繍に入りましょう。」
「合格ですか!?」
「まあまあ、なんとか形になって参りましたからね。」
「はい、今回はなんとか猫に…。」
「私にはまだ豚に見えますけどね。」
まあ、確かにギルバート様がご覧になった刺繍の「猫」よりも若干スリムではあったものの、いつも通り耳は少し小さめで鼻は少し大きめだった。まだ多少は豚に見えなくもない。
けれど、ギルバート様はもっと下手だった刺繍を「猫」だと言ってくださったのだ。他の誰も「猫」だと分からなかったのに。その上で、笑って、『いいな』とまで。
その時のことを思い出すと、私の心の中に小さな明かりが灯るような気がする。
ほわりと暖かなもので包まれるような不思議な感覚のおかげで、この1週間、苦手で仕方なかった刺繍をなんとか続けられた。ただ、ギルバート様に差し上げたい、喜んで欲しいというだけで。
それならばもっと喜ばれるように、もっと上手に刺せるようになって、誰が見ても可愛い猫を刺繍して差し上げたいのはやまやまなのだが。バリバラ先生の熱心な指導にもかかわらず一向に上達しない自分が嫌になる。
私は針に糸を通しながらぽつりと呟く。
「薄々思ってはいたのですが、私、才能がないのではないでしょうか。」
バリバラ先生は老眼鏡をあげて私をしばらくじっと見た後、また老眼鏡をかけなおして刺繍を刺しはじめた。
「才能は…まあ、そうかもしれませんね。」
バリバラ先生は歯に衣着せぬ正直な方である。指導していただくのに変に世辞を言われたり遠慮をされたりしても邪魔になるので、バリバラ先生のそういうところを私は大変好ましく思っている。
だから、こう言われることは予想していた。予想はしていたが、やはりどこかでがっかりはするものである。
私はテープでぐるぐる巻きの指を見て小さくため息をついた。
「でもね、全てのことが完璧な女なんてつまらないじゃありませんか。」
バリバラ先生は手を動かしながら、そう言った。
『あのバリバラ先生が慰めてくださっている!?』と私は驚いたが、先生の表情は全く変わらない。それどころかこちらを一瞥もしないあたり、ただ単に思ったことを口にしただけなのだろう。
おかげで私も気をつかわずに糸を刺しながら返事を返せた。
「そうでしょうか。
私はそういう女性に憧れます。
もし完璧になれなかったとしても、そうなれたらいいなと、色々頑張ってはいるのですが…。
でも、やっぱり私には…。」
「努力すること自体は素敵なことですよ。
でもね、少し苦手なことや欠けてるところがあったからって卑屈になったり無理して背伸びすることはないんです。」
「でも…。」
「人間はね、欠けてるところがあるから魅力的なんですよ。」
『ねえ。』とバリバラ先生が振り返った先にはナディアとオリバーがにっこりと笑って立っていた。
「お邪魔して申し訳ありません。
そろそろ一休みされてはどうかと思い、お茶をお持ちしました。」
カラカラとナディアがカートに載せたお茶を運んでくる。
オリバーは私たちの前にある机を奥に片付け、奥からサイドテーブルを運んでくる。
「刺繍の進み具合はいかがですか?」
「やっと合格がいただけたの。あとはイニシャルを刺すだけ。」
「それは頑張られましたね!」
「きっとギルバート様もお喜びになりますね。」
オリバーとナディアが満面の笑みで褒めてくれる。
私は達成感に包まれたまま、お茶を一口飲んだ。
「で、次のお約束はいつに?」
「え?」
「次はいつギルバート様に会われるのです?」
「ええと、……………そうね………。いつ、かしら…。」
首を傾げた私を見て、オリバーの笑顔が固まった、気がした。




