野の花
きゅっと握られた手を握り返して、私は微笑む。
王宮に来る前は期待をしないように、夢など見ないようにと自分を戒めてばかりいたが、まさかこんな風に、ギルバート様と心を通い合わせられるなんて思ってもいなかった。
もちろん今でも将来、ギルバート様に妻として愛していただけるなんて期待はしていない。けれど、私が自分の分をわきまえて、いつ何があってもいいよう覚悟と準備をしておくことは大前提として、人間同士としては仲良く過ごせるのではないかと、そんな期待はしている。
私を見て柔らかく微笑むギルバート様の瞳がきらきらと色を変える。
「こっちにもっと花が咲いてる。」
「わあ、綺麗。」
「どの花が好き?」
「お花はどれも好きですわ。でも…。」
脳裏にポケットの中のサシェが浮かぶ。それと同時にタイムやアイスドロップの香りも辺りに漂ってくる気がする。
ここに来る前はあんなに絶望していたのに、私に勇気をくれたのはあの花たちだ。
大輪の花ももちろん綺麗だと思うが、私が好きなのはあの、みんなの心が込められた花たちのような。
「…野の花が好きです。」
「『野の花』?」
「ええと…。」
我ながら分かりづらいことを言ってしまったと、私はどう説明したものかと辺りを見回す。
すると、思いがけなくいくつもの野の花が目に入ってきた。王宮の庭であるからにはさぞ豪華な大輪の花ばかり、と思っていたが、よく言えば野の花、悪く言えば雑草に近い花があちこちに咲いている。それも含め見事な配色であるあたり、草取りをサボったとかではなく、野の花も一つの「花」として計算した上で植えられているのだろう。
「驚きました。ここには野の花がたくさん咲いているのですね。」
「…どれ?」
「ええと、このカモミール、すみれ、タイムもアイスドロップも。
あちらに咲いてるのはダンデライオンかしら。そのローズマリーにもラベンダーにも花が咲きますわ。」
私は一つ一つを指でさしながら花の名前を言う。
ギルバート様はそれをキョトンとした顔で聞いている。それはそうだろう。第一王子ともあろうお方が野の花について詳しいはずもない。
私はそう思っていたのだけれど、そのうちギルバート様の眉間には再び皺が寄り始めた。
「どうされました?」
「…『野の花』というのは一つではないのか。」
難しい顔と発せられた言葉のかわいらしさとのギャップに、私は思わず笑ってしまう。
ギルバート様はそんな私を少しムッとして見た。その怒ったような顔ですら可愛らしい。
「申し訳ありません。あんまり可愛らしかったのでつい。
『野の花』というのは『野原に咲いているような花』の総称なのです。」
ギルバート様は少し拗ねたようにぷいっと横を向いて歩き出す。
けれど繋がれたままの手に、私はまた微笑む。
「あの花はなずなですわ。」
「なずな。」
「ええ、この、ハート形の部分を少し細工すると音がなりますの。」
「へえ。」
野の花はどれも『花』というにはあまりに可憐で小さくて微かな存在感の花ばかりだ。貴族社会で普段目にするようなものでも、贈り物や装飾に使われる類のものでもないから名前をお教えしたところで役に立つかどうかはわからない。
けれど、ギルバート様はいつかこの国を背負って立つ方なのだ。この国に自生する植物について知ることに損はないだろう。私も、そんなことをゴットロープに言われ、教わったのだ。
私は目についた花の名前を教え、ギルバート様はそれを聞きながら香りをかいだり、花を摘んで私に渡す。
私はその花で花冠を作ったり、なずなを鳴らしたり、種を飛ばしたりする。
うららかな空の下、ゆったりと時間は過ぎていく。
護衛の方が『そろそろ風が冷たくなってきた』と言いにくるまで、私たちはそんな、穏やかで幸せな時間を過ごした。
「汚れてしまいましたわね。手を洗いましょうか。」
こくりと頷き素直に手を洗ったギルバート様の手を、ハンカチで包んで拭いて差し上げる。
すると、不意にそのハンカチをギルバート様がきゅっと掴んだ。
「…これは?」
「え?」
ギルバート様の指の近くでは、私の刺した下手くそな刺繍、猫になりきれなかった豚が両脚を懸命に広げて走っている。
さっと血の気が引く。
なんでよりによってこれを持ってきてしまったのだろう。バリバラ先生の刺して下さった、可愛らしい黒猫が優雅に座っているお手本を持ってくれば良かったのに。いつかは下手さがバレてしまうとはいえ、もう少しの間、隠せるものなら隠し通したかった。
しかし、なんと答えたものか。
私は、誰もに「豚」と言われ続けた「猫」に目をやる。
きっと今回もそう言われるだろう。けれどもそれを訂正することはもう諦めた。誰にも「猫」だと気づかれたことはないのだから。作り主が不器用なせいで申し訳ないが、もう、この子は「豚」であることにしよう。
そんな風に覚悟を決めていたのに、ギルバート様は刺繍から目を離さないままでこう、問うたのだ。
「ねこ?」
あまりに驚き過ぎて私はすぐには答えられなかった。
そんな私を見上げて、またギルバート様は尋ねる。
「?猫じゃない?」
「…いえ!そう、猫!猫なんです、その子!
私が刺したので下手なんですけど、でも、そう、猫なんです!」
初めて「猫」だと気づいていただけた嬉しさで、私は少々前のめりになって何度も頷いて返事をする。
そのあまりの勢いにギルバート様は少し驚いたように目を丸くした後で、ハンカチを持ったままくすりと笑った。
「そうか。
…いいな、こういうの。」
「お気に召しました?」
「うん。かわいい。」
「では、次にお会いする時までに作っておきますわ。髪飾りのお礼も兼ねて。」
「じゃあ、数式の勉強、もっとしておく。」
「約束ですわね。」
「うん、約束。」
二人で目を合わせて微笑んで、また手を繋いで私たちは部屋へと歩き出す。
繋いだ手からは温もりと、野の花のかすかな香りと、幸せが伝わってくるようで、私はずっと笑っていた。




