花
「嬉しい?嬉しくない?
…花、嫌い?」
ギルバート様のおっしゃることの意味が掴めない上に、「悪役令嬢としての運命を受け入れざるを得ないのか」という恐ろしい思考に囚われていた私の耳に予期せぬ単語が聞こえてきて、私の頭は再び混乱する。
「いえっ……そんな…いえ…、え?
……………………花?」
「ごめん、嫌いか。」
「いえ、あの、お花は大好きです。はい、本当に……。
あ……お花のことだったのですね…。」
一気に力が抜けた私を前に、ギルバート様は少し微笑んだ気がする。
「そうか。良かった。
花は好きだろうと聞いていたから。」
もしかして。
ギルバート様はどなたかから私の情報を聞かされて、それを覚えていてくださったのだろうか。それで、私に好きであろうものを見せようとあんなに走ったのだろうか。
私を、喜ばせようと…。
胸のあたりが急にうるさくなる。
初めて感じるじんじんと痛むような、もどかしいような気持ちに戸惑ったものの、私はきっとこれが『弟』を可愛いと思う感情であろうと結論づける。
ギルバート様の姉として、などと思うことがおこがましいのは重々自覚してはいるが、『弟という存在に慕われる』ということがこんなに嬉しいことだとは思わなかった。
すっかり勝手に姉気分の私の頬は勝手に緩んでいく。
「ギルバート様、私、とても嬉しいです。」
ギルバート様の口元も柔らかくほころんだ。
黙っていてもとても美しい方だが、微笑むと可愛さが美しさに優り、それはそれは愛らしく見える。微かに微笑むだけでこれなのだから、満面の笑顔をされたらどれだけ魅力的になるのか空恐ろしいほどだ。
嬉しくなった私は笑顔のまま言葉を続ける。
「数式のお話もとても楽しゅうございました。また教えてくださいね。」
すると、ギルバート様はすっと笑顔を消し、うつむいてゆっくりと首を振った。
可愛らしい眉間にはまた皺が寄ってしまっている。
「…数式のお話、ギルバート様はお嫌でしたか?」
ギルバート様は私を見ないまま、ふるふると大きめに首を振る。
「では、また教えてくださいませ。」
「…でも………。」
ギルバート様はじっと俯いたままで、困ったように胸の前で手を組んだ。
数式についてのお話をギルバート様は確かにいきいきと、楽しそうにお話しされていた。お好きなのは間違いないだろう。だとすると、なぜ急に数式のお話をやめてしまわれたのか、ギルバート様のことを何も知らない私にはやはりよくは分からない。
けれど、数式のお話をされている嬉しそうなギルバート様を見て、私は確かに楽しかったのだ。媚びではなく、また彼とあの時間を過ごすことができたら楽しいだろうと思うのだ。
私はギルバート様の前にしゃがみ込んで、ギルバート様に向かって微笑みかける。
「先ほど申しましたように、私、数式があまり得意ではありませんの。それでいつも苦労しているのです。
けれど、ギルバート様の先程のご説明はとてもわかりやすくて、私にも理解できました。
ですから、また教えてくださいますと私、とても助かるのです。」
ギルバート様は顔をあげて私と目を合わせる。
「…つまらなくない?」
「とても楽しゅうございました。」
「………いなくならない?」
ギルバート様のシャツの胸元が、強く握られたせいでくしゃりとしわがよる。
『いなくなる』というのはどういう意味なのだろう。
侍女や従僕たちは忙しくてギルバート様のお話をゆっくり聞くことができないののだろうか。陛下もお兄様もきっと忙しくしているだろうから、ギルバート様のお話にずっと付き合うのは難しいだろう。そんな意味でお話の最中に『いなくなってしまう』のかもしれない。
けれど、ひょっとしたら。
幼くして亡くなられたお母様のことが根底にあるのだとしたら。
私の胸がまたきゅうと痛くなる。
私はいつか、ギルバート様に心から愛する方ができた時には去るつもりだ。みっともなくギルバート様の愛情や立場に縋るのではなく、修道院に入って穏やかに余生を過ごすつもりでいる。それはそう遠い先の話では無いだろう。
けれど。
「…決して自分からいなくなったりはいたしません。」
けれど、ギルバート様がお許しになるならば、婚約者という形ではなくなっても遠くから見守ることはできる。お側にはいられなくとも、修道院の中から彼を姉のようにお支えすることは可能かもしれない。
ギルバート様の瞳が少し揺らめいてキラキラと色を変える。最初はただ綺麗なだけだと思っていたそれを、私は今はとても大事なものだと思い始めている。
ギルバート様が愛する方を見つけられるまで、ギルバート様が私を必要としてくださる間は、私にこの瞳を守ることが許されるなら。
じっと私を見ていた瞳はやがてふっと柔らかみを帯びて、その小さな手で私の手をそっととる。
「…良かった。」
ギルバート様の満面の笑顔は、私の予想の何倍もの威力があった。




