意図不明
「本当に…。本当にすごいですわ。
驚いてしまいました。」
それは正直な感想だった。
ギルバート様の説明してくださった数式は先日私の習ったものであった上に、続きにはその応用問題までが解かれていた。つまり、現時点で既に私よりも難しい数式を理解され、なおかつ楽しんでいらっしゃる。
これが世にいうギフテッド、天才というやつか…。
こんな完璧超人の姉のような存在になろうなんて、理解して差し上げようだなんて、私ときたらとんでもない身の程知らずなのではないだろうか。ギルバート様を支えて差し上げるどころか、かえって私がご迷惑をかける確率の方がはるかに高いに違いない。
そばにいるだけで恐れおおい気さえしてしまう。
ギルバート様の予想以上の優秀さに私は驚いたまま軽く息を吐く。
すると、先ほどまで流れるように説明をしていたギルバート様は突然言葉を止め、また眉間に皺を寄せてパタンとノートを閉じてしまった。
「どうされました?」
「……ごめん。」
そう呟いたかと思うと、ギルバート様は突然立ち上がって扉に向かって歩き出した。
何がどうしたのかわからない私が固まったままぽかんとしていると、扉の前でギルバート様がこちらに向かって手を差し出してくる。
「?ギルバート様?」
「行こう。」
私のような凡人の思考能力ではギルバート様のお考えが全く掴めない。
なぜ突然数式の話をやめてしまったのかも分からないし、何が『ごめん』なのかも分からない。
けれど、差し出された手はきっと私をどこかに導いてくださる。
なんとなく確信めいたその予感におされ、私は戸惑いながらも立ち上がる。
私がおずおずと近づく間、辛抱強くギルバート様は私の顔をまっすぐ見て待っていてくださった。
その不思議な瞳に魅入られたまま、私はギルバート様の手のひらに自らの手をそっと乗せる。
すると、ギルバート様はきゅっとその手を掴んで、開いた扉から外に向かって勢いよく走り出した。
思ってもなかったスピードによろけながらも振り返ると、侍女たちの微笑みと、護衛の方なのか、長身で体格の大きい方が怖い顔のまま私たちの後ろにぴったりついてくるのが見える。
ギルバート様の速度は緩まない。息が上がっていく。
長い廊下を通り過ぎ、螺旋階段を降り、突き当たりを右に折れて、次の曲がり角も右に折れると、ぽっかりと眩しい光が降り注いでいる空間が現れる。
中庭なのだろうか。
ギルバート様はその、渡り廊下のような開放された空間から庭の方へ進むと、池の脇を通り過ぎ、橋を渡り、芝生をしばらく走った先の花壇の前でぴたりと足を止めた。
だがしかし、そもそもの運動不足のせいか動きについていけない私はうまく止まることができず、前向きに転びそうになる。
咄嗟にギルバート様が支えようとしてくださるが、完璧超人に見えたギルバート様もやはり4歳。身長はまだ私の胸の下あたりである。
やはりというべきか、結局ばたりと思い切り二人で倒れてしまった。しかも下敷きになったのはギルバート様だ。
私は慌てて上半身を起こしてギルバート様の怪我を確認する。
「もっ、申し訳ありません。大丈夫ですか?お怪我は…。」
「大丈夫。ごめん。」
倒れ込んだのが芝生の上だったのが不幸中の幸いと言えようが、私はおろおろとギルバート様に怪我はないかと確認する。私の全体重がかかってしまったのだ。どこかしら捻ったり打ったりしている可能性が高い。
けれど大丈夫だと繰り返すギルバート様にそれ以上詰め寄るわけにもいかず手をこまねいていると、ふと、雲ひとつない快晴であるのに、私の上に影がさす。
それが何なのかと思う前に、ぬっと現れた護衛の方がギルバート様の手を引いて立たせ、細かく怪我の有無を確認し始めた。
「ロルフ、大丈夫。離れてていい。」
「しかし。」
「いいから。」
そう、強く言われてしまえば護衛の方もそれ以上は食い下がることはできないようだ。彼は一礼してギルバート様と私から少し離れる。私のそばを通り過ぎる時、私を刺すように睨みつつ。
臣下の娘であり歳上の私はギルバート様をお守りすべき立場であるのに、逆に守られた上に彼に怪我をさせかねなかった。彼の怒りももっともだ、と私は落ち込む。
「ギルバート様、本当に申し訳ありませんでした。
一度部屋に帰ってお怪我の確認を…。」
「大丈夫。
それより…嬉しい?」
「…え?」
やはり私のような凡人にはギルバート様のお考えはわからない。
なぜ突然数式の話をやめてしまったのかも、何が『ごめん』なのかも。
それに、今、何を『嬉しい?』と確かめられているのかも。
だから、私は馬鹿みたいにまたぽかんとした顔のままで立ち尽くすしかなかった。
ギルバート様は答えないまま固まった私に重ねて尋ねる。
「嬉しい?」
何だろう、何をだろう。
ぐるぐる頭を回転させているうちに、私は怖い考えに思い至る。
ひょっとして、やはり倒れ込んだ時に怪我でもさせてしまっていて、それを実はお怒りなのだろうか。
『人にわざと怪我をさせるなんて、性格の悪いお前からしたらさぞ嬉しいことなのだろう』とか、そういう…。
だってゲームの中の悪役令嬢ならそういうこともするかもしれないし、そういうセリフがあってもおかしくないもの。
ああ、やっぱり、どんなに考え方を変えても、どんなに気をつけて行動しても運命からは逃れられないかのかもしれない。どこに逃げようとも悪役令嬢の宿命は私を絡みとって…。
半分涙目になっていたであろう私の顔を覗き込んで、ギルバート様はもう一度尋ねた。
「嬉しい?嬉しくない?
…花、嫌い?」




