塩味のミルク
あれからひと月が経っていた。
第一王子様との婚約が決まった今、孤児院への訪問があるからといって行儀見習いや教養の学習をさぼれるわけはない。
むしろ、常に変化する社会情勢を知るため、また、近隣の国から要人が来てもその国の言葉でお話できるようにと、今まで以上に学習の時間は多くなった。
そんな中でやっと、孤児院への訪問の時間をもぎ取った。
バターの温度が上がって溶けてしまわないように、私は手早く分量を量った粉とすり合わせていく。
ぼろぼろと細かい粒状になっていくボウルの中身を、下の方からひっくり返すと、目の前で粉が舞った。
おそらく私は王妃にはなれない。
悪役令嬢の定め、きっとどこかで王子、ギルバート様は心変わりなさるだろう。
いや、私が悪役令嬢でなかったとしても、7つの歳の差は大きい。
一夫多妻が認められていないこの国で、自分よりもずいぶん年嵩な、美しくもなんともないくせに身分だけは高い女だけを一途に愛し続けろというのは酷な話だ。
だからその時が来たら、私は私の大事な人たちを悲しませぬよう、修道院に入る。
しかし、一度修道院に入ってしまえば、そこから出るのは容易なことではないし、その中からできることなどたかが知れている。
ならば私はなんのために公爵令嬢としてここで生を受けたのか。
何不自由なく暮らせ、贅沢品に囲まれ、第一級の教育を受けることができる。
それを当たり前として、ただその立場に甘えて生きることはおこがましい。
私は、私の力を誰かのために使いたい。
いつか修道院に入る前に。
けれど、どうすれば。
掌に力を込めてぐいぐいと押すと、だんだんボウルの中で生地がまとまってくる。
まだ一部が粉っぽい状態で構わないとブルーノは言った。
それよりも手の温度でバターが溶けてしまう方が問題だ、と。
私が出来上がった生地をかたく絞った濡れ布巾で包み終わったところで、ブルーノが生地を冷暗室に入れてくれた。
「おお、なかなかうまくできてますな。」
「ありがとう。」
あとは1時間ほど生地を寝かせて焼くだけだ。
私は小さく息を吐きながら粉にまみれた手をパンパンとはたいた。
「きっと孤児院の子供たちも喜ぶでしょう。」
「…そうね。だといいな。」
うまく笑えただろうか。
私はブルーノの顔を見ないようにして、手を洗う。
すると、ブルーノは椅子を二つ、ガタガタと運んできて、私にそれに座るように促した。
「…何か、あったんですか?」
「ああ…ええと…。」
ごまかしたところできっと意味はない。
何かあったことがわかってるから、ブルーノは椅子を運んできた。
けれど…。
私が逡巡していると、ブルーノは冷蔵庫からミルクをだし、コップに注ぎだした。
「今はここには私とお嬢様しかいません。
生地を待つ時間、どうせ何もできませんし、嫌なことはぶちまけちまえばいいんです。
聞かれたくないなら俺は耳を塞いでるし、先生方やアルドリック様に言いつけることなんざしません。
まあ、私なんかにゃ良い助言なんてもんはできませんが、聞き役がいたほうがいいなら役に立てると思いますよ。」
そう言ってブルーノはミルクを私の手に握らせる。
その穏やかな声に引き出されるように、私はミルクを見つめながらポツリポツリと話し始める。
孤児院であったこと、女の子たちやシスターに歓迎されたこと、本がなかったこと、男の子に言われたこと、ひたすらオリバーに謝られたこと。
言葉にすればするほど自分のしていることにどんどん自信が持てなくなって、だんだん涙がにじんできた。
「自己満足に過ぎないっていうのはわかってるの。
慈悲をかけてあげるっていう、奢った考えなのも。
私がいなくても、うちが支援を続ければきっとあの孤児院は運営していけるはずなの。
じゃあ…私………何のためにあそこに行くのかしら。
何の役に立つのかしら…。」
気づけば私の目には涙が溜まってて、ミルクの中にぽちゃりと落ちる。
全然まとまりのない、時系列もぐちゃぐちゃであろう私の話を、ブルーノは腕組みしたまま、ただ聞いてくれた。
それから、私の持ってるミルクを見たまま、こう呟いた。
「………私ね、大工のせがれだったんですよ。」
それから私を見てにっと笑った。
「…どこかの食堂の御子息かと思ってたわ。
すごく、どの料理も美味しいから。」
「だったら良かったんですけどね、親父は世渡りが上手くない方で、暮らし向きはあまり良くなくてね、だから、子供の頃はこういったものも食べたことはありませんでした。」
ブルーノはビスケットを作っていたボウルを顎で指した。
「でもね、ある日…今の王様が生まれたお祝いで、街で子供たちにってビスケットが配られたんですよ。
どっかのお偉いさんが配ったんだと思うんですが。
感動しましたよ。
天使の食べ物みたいに甘くて柔らかくてサクサクしてて、本当に美味くてね。」
手でビスケットの形を作りながら、嬉しそうに笑うブルーノにつられて私も笑う。
私を励まそうとしてくれてるのだ。
ビスケットをもらうと子供は幸せなのだと、そう言って。
その優しさに感動しつつ「ありがとう」と言おうとすると、ブルーノは話を続けた。
「それからずっとそれが食べたくて食べたくてね。
でも、親父たちにねだることはできなかった。
困らせるだけですからね。
子供心にこんな美味い物をいつでも食べてる貴族様たちが羨ましく憎らしくなったものです。」
「…ええ。」
「でも、どうしても諦めきれなくてね。
どうしてももう一度あのビスケットを食べたくて、気づけば料理の道を歩んでたわけです。
それが縁あって今じゃ公爵家の料理長ときた。
人生、何が起こるかわかりませんな。」
ブルーノはがははと豪快に笑う。
「今は好きなだけ作って食べられるようになった?」
「それがね、ずいぶん頑張ったんですが、あれほど美味いビスケットはまだ作れたことがないんですよ。」
「ブルーノほどのお料理上手でも?」
びっくりして口に手を当てる私に、ブルーノはうーんと唸りながら斜め上を見て、また腕組みをした。
「多分ね、あのビスケット自体、実はそこまで美味くなかったんだと思うんです。」
「ええ⁉」
「街の子供達に無料で配るものですからね、大した材料を使ってるわけがない。
でも、それでもその時の私にはとんでもなく美味く感じたし、貧しいことの惨めさや妬ましさや、そんなもんも全部ひっくるめた記憶の味になっちまってるんでしょうな。」
「そういうものなのね。」
「はい。
でもね、私をここまで導いてくれたのは、間違いなくあのビスケットだったんです。
だからね。」
ブルーノは私の方に向き直り、冷暗室の方を親指で指差した。
「あのビスケットもそうならないとは限らないってことです。
その男の子にとっては確かにあれは妬ましさの象徴みたいなもんになるんでしょうが、食べた子みんながそうだとは限りません。
中には私みたいなのも混じってるかもしれない。
クラウディア様の自己満足だろうが何だろうが、私みたいに、それで救われる子供も絶対にいるはずなんですよ。」
少しずつ視界がゆらゆらと滲み始めた。
さっき乾いたはずの涙がまた溢れてくる。
「それにね、これは材料をケチってないから美味いに決まってます。
美味いものを食べたら、人間、幸せになるに決まってるんです。」
ぽちゃりと、またミルクに涙が落ちた。
「うん。ありがとう、ブルーノ。」
「ああ、せっかくのミルクが塩味になっちまいますよ。」
そう言って、ブルーノは手拭いで私の顔をゴシゴシと乱暴に拭き、私の手からミルクを受け取ろうとする。
その前に、私はそれをぐいっと飲み干す。
のどをゆっくりと通っていくミルクは、甘くて、まろやかで、どこかしょっぱい。
まるでいびつな私の心の中みたい。
でも、それは確実に私の中を潤して、元気づけた。
本当に本当に更新が遅くなって申し訳ありません…!




