動機
その時に聞けばよかったのだ。
けれど、私は婚約のことで頭がいっぱいになって、すっかり兄へのお願い事について忘れていた。
思い出したときはすでに兄は王宮に戻ってしまっていた。
次の約束もしていない。
また手紙を書こうか、迷惑だろうかと逡巡しているうちに春が来て、第二皇子の誕生が盛大に発表された。
恐らく兄の仕事はますます増えたはずで、そこに能天気な手紙を送るわけにもいかない。
仕方なく、今まで通りに行儀作法に勉強に刺繍にと励むしかなかった。
しかし、待てど暮らせど兄からの便りは来ない。
落ち込む私に同情したオリバーに何気なく兄への相談ごとについて話すと、ひどく難色を示された。
「…ご立派なお心がけだとは思います。
けれど、クラウディア様にはまだお早いかと。
もう少し大きくなられてからまた考えたらよろしいかと思いますが。」
「でも、もう少し大きくなったら学校に通わなくてはいけなくなるもの。
なかなか時間も取れなくなるわ。」
「孤児院の慰問など、年に一度か二度でよろしいのです。
お嬢様のような方が無理して行かれるところではありません。」
「でも私は…。」
「クラウディア様には、お勉強など、しなければならないことが今もたくさんあるはずですよ。」
オリバーはぴしゃりと言い切ったかと思うと、すたすたと私を置いて仕事に戻ってしまった。
オリバーはきっと正しいのだ。
彼はそこで生まれ育ったのだから、外からはうかがい知ることのできない孤児院の中身を知っっているのだろう。
私のような温室育ちのなよなよした小娘には荷が重いと思ったのかもしれない。
それでも、知らないといけないと思ったのだ。
知らずに想像しただけで分かったつもりになって、一方的に憐れみをかけるのはいけないことだと思ったのだ。
それに、私は。
「小さいオリバー達に、ビスケットを食べさせてあげたかったの…。」
ぽつりと口からこぼれ出たそれを聞いて、ナディアは私の顔にローズマリー水を含んだコットンをあてる手を休めて苦笑した。
「それで『孤児院への定期的な慰問をしたい』とお願いされたのですか。」
私がこくりと頷けば、ナディアの笑みは更に深くなる。
「それを聞いたら、オリバーは何も言えなくなっちゃうでしょうねぇ。」
「言えなかったわ。」
「それでよかったと思いますよ。
オリバーは自分を責めるでしょうから。」
そうだ。
こんな馬鹿な願いはきっと私の自己満足に違いないのだ。
孤児院に今いるのはオリバーではない。
そもそも、一時の同情でするようなことでもない。
「それで、お嬢様は、どうなさりたいのですか?」
ナディアは私の髪を優しく梳かしていく。
ナディアが優しい声で聞いたから、私も素直に自分の気持ちを話せる。
その考えは少し、突拍子もなく思われるかもしれなかったけれど。
「孤児院の子たちが、将来困らないようにしたいの。」
ナディアは私の後ろにいるから、どんな顔をしているのかはわからない。
けれど、一瞬止まった手から、少なからず驚いたのだろうとは思う。
『慰問』とはその名の通り、「恵まれない人々のお見舞いをすること」であり、その際に何か、食べ物や物を持っていくことはあっても、あくまでもその場だけのお見舞いに過ぎない。
慰問をする貴族たちにとって、一般的にその行為は「かわいそうな人々をお見舞いする側の優しさ」に焦点があてられるものであり、「かわいそうな人たち」側の想いにも将来にも特に興味はない者がほとんどだ。
兄のように、偏見を持たずに孤児、オリバーの聡明さを評価して自らの屋敷で召し抱えた人は、本当にまれなのだ。
「…今の私はお父様もお母様もいるし、お兄様もいるわ。
とても恵まれていると思うし、苦労したことなんて一度もない。
いつもみんなに守られて、いろいろなものを持っているし、幸せに暮らしてる。
でも、突然みんながいなくなってしまったら、私はきっと不安に押しつぶされてしまうと思うの。」
その感情を、私は知っている。
日本での、転生前の私は孤児だったのだ。
孤児にしては恵まれた環境だったとはいえ、その孤独感を忘れることはできないし、将来に対しての漠然とした不安も大きかった。
だれにも頼れず、相談できず、自分ひとりで生きていかなければいけないという怖さで、泣いた夜もあった。
16歳で生涯を終えたため社会に出ることはなかったが、もしそうなっていたら、誰かに騙されたり、不当に扱われたり、ひどい目にあうこともあったかもしれない。
それでも、後ろ盾のない自分はきっと耐えるしかなく、いつか心も体も壊していたかもしれない。
そう考えれば、嫌でも孤児院にいる子たちと自分が重なってしまう。
「たぶん私は、家族以外にもみんなが持ってないものを持っていて…。
だから、何かできることがあるのかもしれない。
でも、私はまだ勉強が足りなくてそれが何かは分からないから、知りたいと思ったの。」
「…だから慰問ですか。」
「…オリバーは今、幸せだと言ってくれたから。」
みんながオリバーのように思ってくれるように、何かをしたいと思ったのだ。
「悪役令嬢」になるかならないか、リミットが迫っている私にはくよくよ考えている時間はなく、だから計画も何もないまま、兄に伺いを立てた。
オリバーを見出した兄ならばわかってくれるかもしれないと思ったからだ。
しかし、さすがに無計画すぎたか。
オリバーが勉強しろと言ったのはもっともなことなのだろう。
軽く落ち込む私の髪を梳かしおわったナディアは、優しく肩をポンポンと叩いてにこりと笑った。
「それも、オリバーには聞かせられませんね。」
「そうよね…。やっぱり勉強しなくちゃよね。」
「いいえ。もちろんお勉強はいいことだと思いますけどね。
それを聞いたら、オリバーはきっと泣いてしまいますもの。」
次の届いた兄からの返事は相変わらず流麗な文字で、短い近況報告と、このまましっかり学習に励むようにとのお言葉と、先日贈ったビスケットの感想とお礼、それと最後に、慰問について了解した旨が短く付け加えられていた。