青天の霹靂
あれからずいぶん時が経ってしまった。
兄からの返事はないままだ。
仕方ない。
元々賛成される可能性は低いだろうと思っていたし。
けれど…。
私は知らず知らず、小さくため息をついた。
「クラウディア様、手が動いていらっしゃいませんが?」
思わずびくっと肩を跳ね上げると、手が滑って針が手に刺さった。
「いたっ!」
「『いたっ』ではございません。『痛みます』とおっしゃってください。」
刺繍を教えてくださっているバリバラ先生の檄が飛ぶ。
バリバラ先生の老眼鏡の奥にある瞳は氷のように冷たい。
そうではあっても刺繍を縫う手が止まらないのはさすがというべきか。
「…痛みます…。」
「よろしい。
集中せずにぼんやりなさってるから手を刺してしまうのです。
また猫を豚に間違われてもよろしいのですか?」
なぜ知っているのか…。
私は自分の、今まさに豚に変身しつつある猫の刺繍を見てまたため息をついた。
「…クラウディア様…。」
「ごめんなさい。集中します。」
「……別に私は豚でもかわいいと思いますけれどね。
心さえこもっていれば、相手には伝わるものですから。」
「先生…。」
「しかし!」
バリバラ先生の優しさに思わずにじみかけた涙が引っ込んだ。
「それも殿方と恋愛関係のときのみ!
いつかクラウディア様にお子様が生まれたとき、クラウディア様が縫われた刺繍の、猫ならぬ豚のハンカチをお子様に持たせるのですか?
お子様が馬鹿にされてしまいますよ。」
「うう…。」
「わたくしが代わって縫って差し上げたくても、いつまでおそばにいられるかわかりませんからね。
頑張ってくださいまし。」
「そんな…。」
何か言葉を探そうとしたけれど,私は言葉をひっこめる。
今、バリバラ先生は85歳。
本来ならもうご隠居されているお歳なのに、その刺繍の腕を買われて兄に雇われ、半年ほど前から週一回、私に刺繍を教えてくださっている。
先生のおっしゃる通り、いつまでも甘えるわけにはいかないのだ。
私は大きく息を吐いた。
今度はため息ではない。
気合を入れる前の、自分への合図のようなものだ。
「…ええ、頑張ります。」
一心不乱に針を刺していく私に、バリバラ先生の瞳は優しくなった気がした。
バリバラ先生も腰を少し伸ばしてから、再び刺繍に取り掛かる。
二人でただひたすら針を刺していく。
どのくらいそうしていただろうか。
小さく扉がノックされたときには,今回も猫になりきれなかった豚が完成していた。
「クラウディア様、アルドリック様がお呼びです。
…裁縫のお時間でしたか。」
「大丈夫ですよ、オリバーさん。
クラウディア様は今日大変頑張りましたから、丁度終わりにしようと思っておりましたの。
「ありがとうございます、バリバラ先生。
オリバー、お兄様に後片付けをしたらすぐに参りますとお伝えしてくれる?」
「いいえ、クラウディア様、後片付けは私がやっておきましょう。
すぐに行ってらっしゃいまし。お兄様をお待たせしてはいけませんよ。」
「でも一人じゃ大変だわ。お疲れだし、重いものもあるし、腰も痛いのでしょう?
二人でやればすぐに…。」
「あんまり年寄り扱いしないでくださいまし。私はまだまだ長生きいたしますよ。」
さっきと言ってることがまるで違う。
けれど、こうなった時のバリバラ先生はもう聞く耳を持たない。
困ったようにオリバーを見上げると、オリバーは私に微笑んでから部屋に入ってくる。
「では三人でやればもっと早いですね。
アルドリック様をお待たせすることもないでしょう。」
そう言ってひょいと椅子を持ち上げる。
「これはどちらに移動すればよろしいですか?」
「あ、ええと、あの机のところに…。」
「オリバーさん、大丈夫ですったら。」
「もちろん先生のほうがお片付けはお上手だと存じておりますが、かよわいご婦人方お二人お任せしたまま私がぼんやりしていては、私がアルドリック様にお叱りを受けてしまいます。
どうか私を助けると思ってお手伝いさせてください。
難しいことはできませんが、重いものは持てます。
ご指示をくださいますか?」
そう,オリバーのきれいな顔でにこりと微笑まれたらバリバラ先生も折れざるを得ない。
困った人ですね、と言いながらてきぱきと指示を出していく。
おかげで片づけはすぐに終わり、バリバラ先生に追い出されるように部屋を出た私たちはあまり時間もかからずお兄様のお部屋に着いた。
これならば、ほとんどお待たせせずに済んだだろう。
ドアをノックする前に、小さく深呼吸する。
「どうされました?」
「少し、緊張してるの。頼みごとのお返事が気になって。」
「頼み事、ですか。」
「ええ。」
私は目をまっすぐドアに向けて扉をノックした。
ほどなく、中から入室を促される。
兄は機嫌がよいのか悪いのかわからない、何とも探りを入れにくい表情で、ソファーに座っていた。
私の顔を見ると、手招きをして私を彼の正面に座るように促す。
「お兄様、お仕事お疲れ様でございます。」
「ああ。」
それ以外、兄は口を開こうとしない。
私と目も合わせない。
そのくせ、私が口を開こうとするとオリバーにお茶を入れるよう言いつけたり、私にお茶を飲むように促してくる。
何かがおかしい。
私の頼みごとのお返事ごときでこんな雰囲気になるだろうか。
私がお茶を飲むのを確認した後で、兄はやっと私の目を見て、言った。
「クラウディア、お前の婚約が決まった。」
青天の霹靂。
仕事にかまけて更新ほったらかして大変申し訳ありませんでした。
今度こそコンスタントに更新していく所存です。