魔法の手
1年間の王妃様の喪の間、国中は悲しみに包まれていた。
王侯殿下は時折国民の前に姿を見せることもあったが、疲れと孤独感が常に彼を包んでいることは誰の目にも明らかだった。
しかし、それでも笑顔で手を振る気丈な様子に国民はますます涙を誘われたものだ。
国王夫妻の、幼なじみ同士の初恋を実らせた末の結婚は戯曲にもなる程国民に親しまれたものであったから、尚更同情が集まったのであろう。
それだけに、喪があけて何ヶ月も経たないうちに次の王妃様を迎えられたことに国民は驚いた。
そのお迎えになった方が、長年いがみ合っていた隣国のお姫様であったことも加わって、国中で賛否両論が巻き起こったのだ。
王侯殿下の側近である兄の心労がますます増えるのでは、と私が心配していると、オリバーがひっそりと教えてくれた。
新しい王妃様の国とはこの機会に友好条約を結び、外交や貿易の面でとても良い効果が期待できるということや、王侯殿下は若くしてその地位に就かれた故あまり盤石でないお立場を、隣国でも地位の高い王妃様が支えてくださること。
その上で、王妃様はさっぱりした性格の方で、王侯殿下ととても仲が良いこと。
アルドリック様には内緒ですよ、とオリバーは人差し指を口に当てたが、おそらくは私が心配しないようにと兄に指示されて教えてくれたのだろう。
兄の目論見通り、単純にも私はほっとしていた。
今として思えば、薄情にも心配すべき人を1人、忘れていたのに。
そのことに私が気づかないまま、半年後に王妃様のご懐妊が発表されると、世論は一転、お祝いムードに変わった。
街中は色とりどりの花や飾りで彩られ、賑やかな声が屋敷にまで届いてくる日が多かった。
そのせいか、私もなぜか浮き足立って、ブルーノに美味しいお菓子の作り方を教えて欲しいとお願いをした。
自分の作ったお菓子を食べるのでは駄目なのかと返されたが、それでは浮かれた気持ちが収まりそうもない。
引き下がらない私に少し困ったように微笑んで教え始めたブルーノは、10分も経つと指導の鬼と化していた。
「お嬢様、そんなへっぴり腰じゃ生地もこねられませんよ。」
「ええと、こう…!かしら。」
「全然力が入ってません。ほれ、どんどん固くなっちまう。」
「大変!んー!ぐぐっ!」
「声だけ出しても全然ダメですよ。貸して下さい。」
「ご、ごめんなさい。」
ブルーノは私の手からボウルを受け取ると、手慣れた様子で生地を捏ねていく。
私の手ではカサカサのひび割れた生地が、ブルーノの手にかかればたちまちぴかぴかのもちもちになり美しい艶を放ち出した。
「…魔法の手だわ。」
「ん?そりゃこれが仕事ですからね。」
「でも、私には才能はないみたい。」
前世ではそれなりに楽しんでお菓子も作ってた気もしたし、それを家庭教師先の子供達に配ったりもしてたのに。
前世の能力がそのまま受け継がれるなんて都合の良い話はないのだろうが、それにしても自分が情けない。
しゅんとする私に、ブルーノはカラカラと笑ってまたボウルを渡してくる。
「たった1回で才能なんざ馬鹿なこと言っちゃいけませんよ。
繰り返し練習あるのみです。」
気を取り直すもやはり生地は固く、精一杯体重を乗せても少し凹むだけだ。
その私の手の上にブルーノは手を重ねて力の入れ方を教えてくれる。
彼の手が重なった途端に生地は生き返ったように柔らかく弾力を持ち始める。
やはり魔法の手だ、と私は思う。
それは彼の才能はもとより、彼の努力の賜物なのだろうけど。
そうして生地と格闘すること小1時間、やっとオーブンから甘く香ばしい香りが漂い始めた。
「ブルーノ!すごい良い香りだわ!
空気に味がついてるみたい!美味しい香りだわ!」
「まあまあ、どうなることかと思いましたが、なんとか焼けましたなあ。」
オーブンから取り出したビスケットはいびつで、色の薄いところと濃いところがまばらで、とても手放しで美味しそうとは言えなかったけど、私は満足だった。
焼き立てのそれを、ブルーノは熱さなど感じないみたいに手に取り、さくりと割って口に入れた。
香りがこれだけ良いのだから、とは思うものの、心配は拭えず、ブルーノの表情をじっと見る。
彼は何も言わずに残りのビスケットをちぎって私の口に入れてニヤリと笑った。
口の中には熱気とともに香ばしさとほんのりした蜂蜜の甘さとバターの香りが広がる。
柔らかくてサクサクして甘さの向こうにほんのり塩味もあって、私は少しの間感動で動けなかった。
「どうです?
自分で作った焼き立てのビスケットは美味いもんでしょう。」
「ええ…美味しいわ。
ほとんどブルーノに手伝ってもらったけど、でも、本当に美味しいわ。」
「そのうち1人でもできるようになりますよ。
とりあえず、次までに腕力つけておいて下さい。」
「次も手伝ってくれるの?」
「次はお嬢様がご自分でやるんですよ。
私は監督です。
さあ、美味いうちにとっとと配っちまってください。
お夕食の用意ができませんからね。」
そう言いつつ、ブルーノは紙袋の中にビスケットを詰めて渡してくれた。
慌てて私はブルーノにお礼を言いつつ、まずは厨房のみんなにビスケットを渡す。
「ありがとうございます!」
「頑張りましたね、クラウディア様!」
「美味しいです!お上手ですよ!」
「料理長、ちょっと口は悪いけど、腕は確かですから許してやって下さい。
次もくじけず頑張りましょう!」
「次は自分も手伝います!」
「いやでも、料理長、あれで結構楽しんでたように見えましたよ。」
賑やかにお喋りをするみんなにブルーノがゲキを飛ばした。
「お前ら余計なこと言ってねえで、それ食ったらさっさと用意しろよ。
夜中になっちまうぞ!」