氷の刃
行き帰りのバスが空いているようになった。
蝉の声で、夏休みなのだと悟った。
夏休み。私にそれがあったのは何年前の話だろう。
時期が来ると自動で与えられた長期休暇。今の私には縁遠いものだ。
「仕事辞めれば長期休暇に入れるよ?」
歩美があっけらかんとした口調で言う。
(悪魔の囁きをしないで)
私が今から仕事を辞めても五年も生活できないだろう。
そして、職歴に五年もの空白が生まれる。
それは、生きる上でプラスに働くとは思えない。
「大人は難しいのね」
(あんたは気楽ね)
「永遠の十四歳だからね」
(どうだか)
確かに、歩美は今十四歳かもしれない。けれども、幽霊とはいえ年齢を重ねてきた彼女が急激に成長を停止するとは考え辛い。
いや、それもイマジネーションの力でどうにかなるのだろうか?
幽霊の友達なんていないので確認のしようもない。
「幽霊の友達なら私がいるじゃんよ」
(あんたは従姉妹よ。歳の離れた接点の少ない従姉妹。会話に一番困る手合)
「酷いなあ」
歩美は頬を膨らましてそっぽをむく。
それで、ようやく静かになった。
「次の停留所は……」
アナウンスが言い終わる前に停車ボタンを押す。
しばらくすると、バスが巨体を停めて、前の口を開いた。
支払いをして、外に出る。
半袖とはいえ、暑い。これは今日も、クーラーのお世話になることになりそうだった。
そう、この時点ではいつもの平和な日常だった。
この先に、非日常が待っているだなんて、私は思いもしなかった。
+++
沸騰している鍋に塩を入れる。そして、二つ折りにしたパスタを投入する。
「疲れてるんだねー」
「そう?」
肩の辺りに浮いている浮遊霊に目線を移して話しかける。
「三日連続パスタ。よく飽きないと思うよ」
「味付けは毎度変えてるからね」
「離婚理由になりそう」
呆れたようなトーンの声に、皮肉っぽく微笑んで返す。
「妻がパスタしか作ってくれないので離婚します? お笑いね」
「私は真面目に心配してるのよ。翠の結婚先を」
(お前は口うるさい母親か?)
そんなことを思う。
「早くて悪いことなんてないんだしさー」
「不良物件掴んでも嫌だしなあ」
キッチンタイマーをセットして、しばし居間に戻る。
テレビでは、ちょうど料理番組をやっていた。ピザを作っているようだ。
「私もピザ食べたいなー」
「ふーん」
「食べさせてあげようって気持ちはないわけ?」
「どうやって食べさせるのよ」
あんた霊体でしょ。そんな言葉を飲み込む。
「私が味覚にアクセスすれば擬似的に翠の食べたものを楽しめるんだよ」
「……味覚の共有かあ。なんかやな話聞いちゃったなあ」
ノックの音がした。
「はい」
テレビのリモコンをテーブルの上に置いて、玄関に向かう。
扉を開けると、一人の婦警が暗鬱な表情で立っていた。顔色は真っ白で、まるで雪女のよう。
そのイメージのせいか、周囲の温度が十は下がった気がした。
「あの、なにか、御用でしょうか」
「石動剛さんの件についてお話を伺いたいと思いまして」
「剛の件について……?」
あれは、既に半年前のことだ。何故、今更。そんな思いがある。
キッチンタイマーが鳴り始めた。
「あ、困ったな。ちょっと待ってもらってもいいですか」
「いえ、中で話を聞かせていただきます」
(物怖じしない人だなあ)
感心しながらも、部屋に戻っていき、茹で上がったパスタをザルに移す。
そして、テーブルの両サイドで婦警と向かい合った。
寒い。
錯覚ではなく、寒いのだ。
今は夏だというのに。
私はつけていたエアコンのスイッチを消した。
それでも、まだ寒い。
氷の塊で部屋が埋まってしまったような違和感がある。
「石動剛さんの第一発見者は、あなたでしたね?」
「はい」
居住まいを正して、答える。そして、気がつく。婦警のハートが、通常のものではないことに。それは、三分の一が、デコレーションされているかのように氷に包まれていた。
(この人、なにか違う……)
「石動剛さんの死因は出血は僅かなもので、それが原因ではなく、心臓麻痺でした。それに関して、思い至ることはありますか?」
あの服の真っ赤な下半分を見て僅かなものだと言い捨てるこの婦警に、私は慄いた。
彼女とは、生きている人生位が違うのだろうと思った。
「いえ。剛は部屋に入った時には既に事切れていたので……」
「そうですか。ご両親は?」
「仕事が忙しいので帰っていません」
「そうですか。なら、もっと踏み込んだ話を聞けそうだ」
そう言って、婦警は微笑んだ。
「私の名前は山吹楓。青葉市の捜査官です。わかりやすい外見を選んで婦警の格好をしています」
「はあ。私は斎藤翠です」
「斎藤翠さん。あなたは特殊な力を持つ人間について思い当たる節はありませんか?」
「不思議な力……?」
「ええ。例えばテレポーター。サイコキノ。パイロキネシスト」
私は呆れてしまった。誇大妄想の危険人物を家に上げてしまったかもしれない。
こうなっては、彼女が婦警というのも怪しい話だ。
「昔はオカルト特番が流行ったとは聞きますが」
「火のないところに煙は立たない。オカルトにも元になった人物が何人もいるのです」
「あの、警察手帳を見せてもらってもいいですか?」
婦警は微笑んで、警察手帳を差し出した。ページを開くと、確かに彼女の顔と名前がある。山吹楓、と確かに書いてある。
「確かに私の発言は超常的で非現実的に聞こえるかもしれません。しかし、笑えない人も世の中にはいるんですよ」
婦警は警察手帳をポケットにしまうと、私の目を真っ直ぐに見て微笑んだ。
「例えば、魂を奪い取る手合なんかがそうですね」
心音が激しくなり始めた。
見透かされている? この女は、他の誰もが知り得ない情報を持っている?
どうやってこの場を収める?
魂を抜くか?
いや、駄目だ。楓に仲間がいれば私は言い逃れ出来なくなる。
それに、無関係な人間の魂まで奪いたくはない。
「沈黙が答え、と見させてもらいます」
そうと彼女が言った瞬間、どこから現れたのか氷の手錠が私の両腕をロックした。
「なっ」
本物の手錠が開かれて、私の腕を狙って動く。
氷の手錠は外れない。力を入れても、壊れない。
不意に、その中心に亀裂が入った。
氷の手錠が割れた。
私は剛から得た身体能力を駆使し、後方へと立ち上がって素速く移動する。
「ハズレ、かな」
楓は苦笑混じりに言うと、ポケットに手錠をしまう。
「けど、超越者であることは確かなようだ。確保させてもらいます」
そう微笑む楓の両手に、二本の氷の刃が握られた。日本刀のように輝き厚みがあるそれは本当に人を断ち切れそうだ。
(あんた、なんかした?)
浮遊霊に問う。
「ポルターガイストって知ってるでしょ。悪霊の悪戯。それの応用で氷を割ったの」
飄々とした口調で歩美は言う。
(助かったのかな、それとも誤解されたのかな)
躊躇い混じりに、構えを取る。剛は空手の有段者だ。その知識は、私の中に吸収されている。
そして、その知識が告げている。剣を相手にするのは不利だと。
「来るよ」
歩美が、淡々とした口調で言う。
楓がテーブルを踏み越えて、切りかかってきた。
氷の刃が縦横無尽に暴れまわる。
それを、次々と回避する。
振り下ろしの隙を見出し、上段蹴りを放つ。
彼女は腕を上げてそれを受け止めた。そして、触れた場所から氷が生えてきて、足を固定する。
氷は次の瞬間には歩美の念波によってひび割れていたが、どうしようもない隙が生まれていた。
氷の刃が突き出される。
やられる?
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
拳を握りしめる。暖かいなにかが腕に宿った気がした。
氷の刃を、歩美のサイコキネシスが粉々に砕け散らせた。
楓は距離を取って、腕を組む。
「ふうむ。あなたのプロフィールからは感じられない攻撃ばかりね。空手の経験者のような動き。サイコキネシス。しかし、パイロキネシストではない、か……」
「なにを言ってるんです? あなたはなにを知っているんです?」
私は思わず叫んでいた。
「あなたにも関係があることかもしれません。もう一人のソウルキャッチャー」
楓は、さっきまでの激闘が嘘だったかのように、静かに座り込んだ。
「ソウルキャッチャーが、現在この市で異能狩りをしています」
異能狩り? 聞き慣れない言葉に、私は戸惑うしかない。
「ま、お座りなさい」
「ここは私の家です」
言いつつも、私は座った。
事情を聞かねば、いつこんなトラブルに巻き込まれるかわかったものではないと思ったからだ。
第四話 完
次回『もう一人のソウルキャッチャー』