Ⅱ80.男は集め、
「おい、どうして〝あんなの〟に行かせるんだ」
広々とした廊下に、潜ませた声が隣の男から掛けられた。
それなりに上位の地位がある男だが、城へ訪れたのは久々だった。敷地内に足を踏み入れる前から噂程度に事情は把握していたが、実際に現状を目にしたのはこの日が初めてである。
男は、城の中でも最も豪奢な部屋のひとつへ向かっていく女の背中を指差しながら顔を顰めた。彼と近い地位であり、城で働いてもいるその官僚こそが〝あんなの〟へ向かわせた張本人である。
向かう先がどのような部屋なのか、今はどういう使い方をされているのかを把握する官僚は男からの問いに眉すら動かさなかった。ただ、水差しを両手に分厚い扉の向こうへ消えていく背中を無感情に横目で眺めるだけである。
良いんだ、と官僚は一言だけで終わらせようとするが、男は納得しない。良いわけないだろ、わかってるのかと繰り返す男に仕方なく官僚は彼と同じだけ声を潜め
「ッア⁉︎あああ⁈ッあアアあああああァァアあああああああああっっ‼︎‼︎」
……る、前に止まった。
分厚い筈の扉の向こうから聞こえた断末魔に、もう細かい質問は不要である。
ハァ……、と音には決して出さず息を吐き、隣に並ぶ男の顔色を確認する。わかっただろう?と小声で諭しながら、単刀直入に結論だけ切り出した。
「いつものことだ。逐一用事の度に城の使用人を減らせるか?〝使い切る〟なら奴隷が正しい」
官僚の言葉に、男は瞬きも忘れたまま小刻みに何度も頷いた。
奴隷容認地であるその地にとって、奴隷は〝人〟ではなく家畜や消耗品の類である。
そして、一度入ったら無事で戻ってくることの方が珍しいその扉の向こうへ遣わされるのは、今では全てが奴隷だった。数ヶ月前から保護しているその〝重客〟は決して機嫌を損なうことは許されない。この城を我が家とする立場の人間ですら、その重客を前に傅くのだから。誰も彼には逆らえない。
ラジヤ帝国の属州であり続ける限りは、永遠に。
「あ゛〜〜〜〜つーまーらーねーえー……」
床で声を上げながら痙攣する奴隷がもう見えないかのように、ベッドの主は一人ぼやいた。
いつもの憂さ晴らしも大して晴れずに終わり、いつもの喚く覇気すら今はない。全身を包帯で巻かれた彼は、明らかに不利な立場である。一日に何度も薬や包帯を巻き直された男だが、今もまた膿が包帯に滲んでいた。
ミイラのように入念に傷をとめられ、折れた片腕と両足を吊り下げベッドで大人しくすることしか許されない男は、いつでも第三者が殺せる立場にある。この部屋を通ることを許された人間であれば、片手でも彼を殺せる。
州を司るラジヤ帝国の皇太子である彼だが、ここはラジヤ帝国とはいえ〝本国〟ではない。彼に傅く者はいても慕う者など存在しない。
それでも彼は、或る日に保護されたその時から今も変わらず丁重に扱われていた。最初は従者を含めてたった二人だったとはいえラジヤ帝国皇太子である彼を万が一にも敵に回せない。彼を救ったとなれば褒美を期待できるという恐怖と打算。そして今は部屋へぎっしりと整列するラジヤ帝国の兵士達が、彼を守る。
〝皇帝直々に預けられた〟彼ら兵士は、言うまでもなく歴戦の猛者である。
父親にとって感動の再会を果たしたアダムは、今もこの属州に滞在していた。身体を思うように動かすことすら叶わない苛立ちに、暇潰しのようにして既に何十人もの人間を発狂させている。
首すら動かすのも苦労する為、顔すら満足に確認しない彼は奴隷でも貴族でも部下でも従者でも侍女でも構わず、命じて触れさせ使い潰す。
重傷こそ負ったものの幸いにも後遺症は免れた彼だが、全治に時間をかけることとその為にひと月はかかる本国へ帰ることは身体に負荷がかかる。そして何よりも
「プゥ〜ラぁぁあイ〜〜ドォぉ」
ハハッ、と発声に慣れた喉がガラつきながらまたそう呟いた。
目が覚めてから何度も彼が口遊む言葉である。いっそ人名ではなく何か呪いの言葉ではないかと配下が思うほど、その名を彼は飽きずに唱え続けている。
糸の弾く口で裂いたように嗤う彼は、そこで天井を仰いだまま独り言のようにまた舌を動かした。奴隷が入ってくるまで命じていた話の続きを今思い出したかのようにまた続ける。
「城から滅多に出てこねぇだぁ?知るかなら面白ぇ情報の一つや二つ持って来い。学校だのつまらねぇもんのことじゃねぇからな?開校式以外でプライドが現れねぇなら存在の意味なんかクソもねぇんだ。もっと俺様が気にいる情報をかき集めろプライドの情報一つでも逃したら殺すからな?」
命の恩人でもある功労者へ向けて命を下す。
それにローブの下から頷く女性は、次の行動をまた決める。既に何度か能力を使って国内へ侵入を試みた彼女だが、肝心の城へは近づくこともできない。代わりに城下の噂を可能な限り集めた彼女は主人の望む情報を今も届け終えたばかりだった。
いつもと大して変わらない情報に辟易しながらも、男の機嫌は悪くない。もうフリージア王国自体に大した興味はない。今更復讐だの自国の復権だのは頭にない。ただ執着だけは凄まじい。その為ならば安全な自国への帰還も躊躇いなく拒む。それほどまでに今の彼は憎むべきフリージアからこれ以上離れる気はなかった。
プライドの生存を知る、今は。
「アイツは俺様のモンなんだからなぁあああ?」
ハハッ‼︎と濁った笑いがまた、部屋に響いた。
……
「お仕事、日暮れまでに全部終わって良かったですね!」
夕暮れ時。主への配達後、市場を歩きながらうんざりと息を吐いた。
ケメトの弾んだ声が隣で響き、セフェクが続くように「今日はここで夕食買うの?」と聞いてくる。
主から依頼された配達自体は今日の昼間には終わったが、そこから城内の客間で待たされるのが長かった。主は外出中だとほざいた近衛兵の言葉通りに待てば、いつになっても戻らねぇ。途中で休息時間になった王女の方が先に俺達を迎えてまた部屋に招いた。……お陰でいつもの倍以上の時間を掛けてナイフ投げの指導をさせられた。もうその辺のゴロツキ程度瞬殺できるくらいに腕を上げてるのにまだ満足しやがらねぇ。
結局、主が帰ってきたのは日が暮れてからだった。聞けば件のガキ共に勉強を教えていて遅くなっただ。またくだらねぇことしてやがると、それだけはわかった。
主に書状を届けて報酬と次の書状を受け取ったが、また五日後にはこの二日間で書状を出した国へ返事を取りにもいかなきゃならねぇと思うと余計面倒になる。
舌を打ち、一方的に今も喚いてくるガキ共に言葉を投げる。
「セフェク、ケメト。テメェらはこのまま寮に戻れ。そっちでも食える」
「学校は明日で良いわ。毎日帰らないといけないわけじゃないもの」
「僕もヴァルと一緒にご飯食べたいです!寮にヴァルは入れませんから!」
せっかく王都から中級層まで降りてきたってのにめんどくせぇ。もう学校も目と鼻の先だってのにごねやがる。
唸り、息を吐いて頭を掻く手に力を込める。
ここまで来ればそのまま流せると思ったが甘かった。この辺の市場よりは寮の方がまともなもんが食えるに決まっている。ガキ共さえ寮に押し込めりゃあもうひとっ走り……
「さっき主から貰った配達ですか?ヴァルも行くなら僕も行きます!」
私も!とケメトの言葉にセフェクも続く。……クソが。
テメェらは授業中に寝れねぇだろうがと言いたかったが、喉の奥で押し戻す。どうせ平気だのヴァルこそだの言ってくるに決まっている。
セフェクとケメトを寮に入れてからも、毎日学校の後は配達についてきやがる。勝手に知り合ったガキ共とじゃれてりゃあ良いのに譲らねぇ。
ぎゃあぎゃあ移動中にその日の話を聞かされる所為で、最近は余計に移動時間が短く感じた。どんな授業を聞いただ、誰と何を話しただどうでも良い話を延々と聞かされ気がつけば、……時間が経つのは嫌気が差すほど早くなる。
「……その辺で食うぞ。宿もだ」




