Ⅱ34.王弟は付き合わせる。
「セドリック……王弟……?」
仕事を持ちかけられた時。
プライドに放たれた言葉を、クロイは思わず繰り返した。
自分と同じ庶民である筈の少女から到底想像もつかない人物の名に耳を疑った。しかし、発言を確かめてみてもプライドはにこやかに笑ったまま。冗談を言っているようにも思えない。
クロイはつい滑った口の中を噛み、疑いを正直に表出す。昨日に続いて頭のおかしい発言をする彼女がまた妄想でも口走っているのかとも本気で思う。
「ハナズオ連合王国の王弟よ。知らない?今、プラデストにひと月だけ体験入学をされているの」
プライドの言葉にクロイは眉を寄せる。
当然彼も、それくらいは知っている。今や昨日を経て学校中で話題になった存在である。
プライドのクラスで話題になったように、クロイのクラスでも噂になっていた。この学校の特別教室に、貴族や上級層の人間だけでなく王族が通っていると。しかも最近公表された国際郵便機関の最高統括者。既に国際郵便機関の始動の為にフリージア王国へ根を下ろし、城の王居に移住した正真正銘フリージア王国の王族である。護衛にフリージア王国の騎士が最低一人はついているという徹底さが余計に彼がフリージア王国で重要人物とされていることを物語っていた。
「仕事内容は彼のお付きよ。王族だもの、きっと払いも良いわ」
プライドの言葉にクロイは目だけで周囲を見回した。
学校中の注目の的であるセドリックの名に、聞かれてはいないかと警戒する。しかし、既に噂の彼の名前がでたところで、誰も物珍しいとすら思わない。他の生徒同士の会話の波に紛れて沈んでいく。そのことを確認し、息を一つ分吐いてからクロイは声を抑えてプライドを睨んだ。
「………………どういうこと。僕を騙すつもり?それともからかっているの。君なんかが王族と知り合いな訳ないでしょ」
「本当よ。以前、実家の山で道に迷われているのをお助けしてからとても良くして下さっているの」
セドリックと前もって打ち合わせしていた内容を手筈通りに嘯けば、クロイの眉が僅かに上下した。
まだ真実が嘘か妄想かとプライドの発言を値踏みしながらも抑えられた声に耳を済ませる。彼女の背後で威圧を放っているステイルとアーサーに対しての警戒も忘れていた。今はそれよりも目の前の王族が絡む儲け話の方が優先だった。彼らには金が必要なのだから。
上体ごと前のめりに傾け、眉を寄せながらも無言で続きを彼女に促す。「聞いてやる」と意思を示したことにプライドは内心でほっとしながら彼の耳に口を近づけた。
「セドリック王弟がね、実は校内で庶民の〝ご友人〟を探しているそうなの。フリージア王国の庶民の暮らしをもっと知りたいんですって」
世間体の良い学内だけの従者みたいなものね、と敢えて悪い言い方も含めながら彼女は語る。
フリージア王国に根を下ろし、国内のことをもっと深く知りたいと考えていた王弟は自ら学校にも体験入学を求めた。フリージア王国の王族から厚意で護衛はつけられたが、騎士だけでは彼の世話まで手が及ばない。更には彼自身、特別教室に入れられたものの庶民との関わりの方を望んでいる。その為、以前に知り合ったジャンヌにその従者の紹介を頼んだと。
その説明を一つ一つ流れに沿って話したプライドは、最後に「私でも良かったのだけれど、女性がずっと王子に付いていたら噂になるでしょう?」と締めくくった。クロイはすかさず、彼女の背後にいるステイルとアーサーを目で指すように睨んだが、その途端にステイルが「僕らは従姉妹のジャンヌに付いているようにお爺様に言われているので」と涼しい笑顔で返す。ジャンヌよりも手慣れた涼しい笑みに、アーサーは無言で唇を絞った。
その様子を鋭く尖らせた目でクロイも睨んだが、次にプライドから放たれた言葉は「どう?簡単なお仕事でしょう?」の一言だけだった。
怪しい、信じられない、自分を陥れようとしているとしか思えない。
何度もそう思ったクロイだが、弱みを握られた以上は断ることもできなかった。
……
「すまないな」
「……いえ」
セドリックの王族特有の覇気にも少し慣れたクロイは、消え入るような声でそう答えた。
そのまま「問題ありません」と言いながら、隣に座るセドリックを前に器を一つ一つ音を立てないように移動させた。二つの全く同じランチプレートの内、クロイは先に一口ずつ口をつけた方をセドリックへ渡した。王族相手に眉間を寄せないように意識するクロイに反し、セドリックは目を輝かせながら新しいスプーンで目の前の料理を掬った。
「フリージア王国でまさか毒味の役など必要ないと思うのだが、それでも規則でな。任務中の騎士に食べさせるのも申し訳なかった」
「……その通りだと思います」
出来る限り、自分の知る正しい敬語で話そうと言葉一つ一つを選んで返す。
セドリックの友人兼お付き役としてクロイの最初の仕事は、今日のランチ選びと毒味役だった。自分の隣では、平然と一口だけとはいえ庶民が食べた後の食事を食べるセドリックが「うむ、良い味だ」と食堂のオムライスを前に褒めている。他の生徒と食べているものは同じ筈なのに一挙一動がマナーの理想形であるセドリックが食べるとまるで高級料理のように錯覚する。既にセドリックが選んでから、同じ料理を食べようと食堂全体のオムライス率が急速に上がっていた。
しかも何が怖いと言えば、周囲へのセドリックの反応だ。一人一人目が合っては、その度に「おお、ヒューゴー」や「ベティ、今日の髪型も似合っているな」と明らかに普通教室の生徒へ向かい手を振り、名前を呼んでいる。クロイからすれば、どうしてまだ二日目なのに知り合いがいるのかと不思議でならない。呼ばれた本人達ですら心臓がひっくり返っていた。
毒味役、というのをクロイも噂で聞いたことはあるが、実際に自分がなるとは思いもしなかった。
王族が食べる料理が本当に安全か保証する為の毒味役。しかし、校内の食堂にわざわざ王子の命を狙う奴なんかいるもんかと思えば、それに関しては全く恐怖も抵抗もなかった。実際、毒もなければただの美味しい料理である。
むしろたった一口ではあったが、数ヶ月ぶりに食べるまともな料理に役得とすら思えてしまう。いつも自分達が食べている薄い野菜スープや干し肉よりもずっと濃厚な味と香りにその瞬間だけはクロイも食堂中の視線を忘れた。
今日も鞄に入れてきた昼食は乾いたパンと水だけだったが、思わぬところで美味しい思いをしてしまったとも思う。口に広がる美味しい後味の感動で、気持ち的にも最初より幾分落ち着いた。セドリックが行儀良く食べるのを横で眺めながら、ちらりと目で更にまだ口をつけられていないもう一つの皿に目がいった。毒味というのなら二皿目も毒味が必要なんじゃないかと若干味をしめてしまい思うが自分からは言えない。
セドリックが一皿目を食べ終えてから判断を待つべきだろうと、必死に食堂中から香る良い香りに耐える。ひと口食べたら逆に腹が空いてきてしまう。人の視線よりも空腹を刺激する料理の香りの方が気になり出した時「?どうした」と不意に横からセドリックが投げかけてきた。
しまった、と思い、王子を横に呆けてしまったことを謝ろうとしたが、それよりも先にセドリックに言われた言葉の方が衝撃だった。
「冷めない内に食べた方が良い。お前が勧めてくれた料理だろう?」
「え……」
思わず王子相手に声が漏れる。
セドリックの代わりに出された料理を二皿テーブルまで運んできたのはクロイだが、てっきり二皿ともセドリックの分だと思っていた。王族は毎日ご馳走を食べているのだから一皿ではとても足りないのだろうと、疑問にすら思わなかった。当然支払いもセドリックが済ませているそれが、まさか自分の分なのかと。
ランチ選びもセドリックに尋ねられるままに「お薦めはあるか?」「お前が一番美味いと思う料理は?」と尋ねられたから、数少ない自分の食べた事のある料理の中から選び、特に好きなものを答えた。まさか自分が食べられるなどと思ってもみなかった。しかも今度はひと口どころか一皿だ。
これを食べて良いのかと、尋ねる前にセドリックから「テーブルマナーは気にしなくて良い」と断られる。更には促すように無言で護衛の騎士であるアランがクロイにスプーンとフォークを手渡した。ニカッと楽しそうな気の良い笑顔を向けながら食べるようにと勧めてくれる騎士に、クロイの目が丸くなる。騎士といえば全員が厳しい表情に眉間の皺ばかりを想像していたが、こんな人もいるんだなと思う。
そしてとうとうひと口目を掬おうとスプーンを構えたところで、また不安が過ぎる。
「あの、代金は」
「要らん。必要経費だ。」
冷めるぞ。ともう一度繰り返すセドリックに、思わず食べる前からクロイの喉が鳴った。
必要経費ということは、これは報酬とは別なのかと思えば本当に自分は騙されていないのかと思う。それでも、王子と騎士両方から食べるように勧められたクロイはとうとうひと口目を掬い、頬ばった。先ほどと全く同じ美味しさが口に広がり、思わず殆ど噛まずに飲み込んだ。しまった、と味わうのを忘れたと思ったが、まだ目の前の一皿を食べて良いのだと思えば幸福感が波立つ。うっかり美味しさのあまり涙ぐみそうになるのを口の中を勢いよく噛んで堪えた。
黙々と食べ、味わい、気がつけばジャンヌもセドリックも、そして食堂の無数の視線すらも気にならなくなっていた。




