688.無名王女は送られ、
「ぇ……えええと……、……何か……いけなかった、かしら……?」
腕にしがみついて来たティアラの金髪を撫でながら、プライドはポカンとした顔のまま口だけが引き攣るように笑った。
閉幕挨拶の後、ローザと共に王配のアルバートと摂政のヴェストとの話を終えたプライドは再びティアラ達の見送ってくれた場所まで戻ってきていた。
父親のアルバートにも「見事な出来だった」と頭を撫でられ、ヴェストからも「心配は無駄だったな」と肩に手を置かれ、ローザに続いて父親と叔父にまで褒められたプライドは手が疼いて雲の上にでも乗れたような心地だった。開かれた扉と共に退室した最上層部を見送り、ふわふわとした足取りと滞りなく発表できたことの安堵で頬を緩ませながら戻ったプライドを迎えたのは
泥を浴びたようにぐったりとしたステイル達だった。
お疲れ様でした、と言葉にはしたもののステイルもティアラも顔色が明らかに悪かった。
飛び込むように腕にしがみついて甘えてくるティアラに対し、ステイルは意識的に姿勢を正しながらも疲労の色に染まっていた。更にはこの場の後片付けを任されているジルベールも優雅な笑顔を向けてはいるものの、先ほど頬まで伝った汗を拭ったばかりだった。プライドが壇上に上がる時には控えていたレオンも、今はプライドを迎えるべくステイルの隣で眉を垂らして笑んでいた。もし、この場に来賓の目がなかったら、彼らの疲労の色はもっと目に見えるものになっていた。
完全に全員が全員疲労を濃くした姿にプライドは首を捻る。するとジルベールが微かに掠れた声で「とんでもありません」と笑顔で返した。
「素晴らしいお話でしたプライド様。王位継承者としてもこれ以上ない演説でもあったと言えましょう。我々もこの瞬間を迎えられたことを心より嬉しく思います。」
にこやかに笑うジルベールに、ステイルどころか周囲で彼の言葉を聞いた全員が無言で深々と頷いた。
問題がなかったことは安心したが、あまりにも重々しげな彼らの反応にそんなに学校制度も国際郵便機関も楽しみにしてくれていたのかとプライドは思う。だとすれば、予定よりも後の公表になってしまったことが余計に申し訳なくも思う。本来であれば四ヶ月も前に発表する筈だったのだから。
僅かに気が咎めながらも「ありがとうございます。私も嬉しいわ」笑って返す。その途端、全員の脱力が更に強まった。
「プライド、体調は平気かい?さっきは大分辛そうだったけれど。」
「ええレオン、もう平気よ。心配かけてごめんなさい。」
そっと声を掛けるレオンへ眉を垂らし、笑う。
さっきも遠目で心配してくれたでしょう?と続けて感謝を伝えれば、照れたように頬を緩めた。
本来ならばレオンも、アネモネ王国の第一王子としてもっと言いたい事も話したいこともある。公式発表への賛辞だけではなく、自国も参加している同盟共同政策第一歩の祝辞や、友人であるヴァルも加わるのであろう国際郵便機関についてこの場では尋ねきれないほどに。
しかし今はプライドが自身の存在にも気付いてくれていたことが嬉しかった。あれほど緊張し、自分の事でも精一杯だった彼女に余計な気を負わせるわけにはいかないと、敢えて距離を置いて様子を見たレオンだったが、本音を言えば自分ももっと彼女の近くに控えたかった。以前からカラムと共に騎士団と閉幕を過ごす事が増えたレオンだったが、今夜だけは彼らとも離れていた。そして無事閉幕を迎えた今、二大機関への期待にも増して
プライドが〝無事に〟公式発表を終えたことに安堵した。
「良かった……。」
滑らかな笑みと共に溢れた安堵こそが、レオンだけではなく全員の総意だった。
緊張に溺れて死にかけていたのはプライドだけではない。当然、彼女を心配した誰もが本音を言えばプライドの公式発表自体にはそこまで案じてはいなかった。
過去の公式発表で、彼女の立派な振る舞いや優秀さも知っている彼らにとって、事前にいくら緊張しても最終的には見事な発表になるだろうと思った。更には万が一にもプライドが緊張で記憶が飛び、棒立ちになったとしても、恙無く進行できるように補助やフォローに入れる自信もステイルやジルベールにはあった。
ティアラもレオンもそれは信用し、プライド自身が緊張に負ける程度ならばどうにかなると心配もなかった。だからこそプライド自身の暗記力や実力よりも〝二度目〟における重圧や余計な心配をかけないようにとだけ誰もが気を配った。しかし、……実際は彼らもまたプライドとは違う理由で緊迫と不安の渦中にいた。
プライドが、今度こそ〝無事に〟終えられるかと。
実力や失敗の危惧ではない。
彼女が以前のようにまた頭を抱え崩れ落ちてしまわないかと、それだけが彼らの気掛かりだった。
既に城内の警備も見直され、今回は前回ほど来賓の規模も大きくもなく、大広間内には温度感知の特殊能力者が配備された。しかしそれでも誰もが前回の公式発表を思い返しては手のひらをべたつかせ、凍えるように強張る身体を自覚した。
あの時も彼女は何事もないように緊張のみを背負い壇上に上がり、そして変わり果てた。当時と殆ど同じ状況で、去っていく彼女に今度は何が起こるかとそれだけを想像するだけで身の毛がよだつほどの寒気に襲われた。
プライドが言葉に詰まるそぶりや沈黙を作るだけで心臓が慌しく内側から叩き急かした。抑えた呼吸も荒くなり、彼女の一挙一足から目が離せなかった。
失敗の危惧だけであれば、プライドが悠然と語り始めた時点である程度治ったが、以前のような悲劇は唐突に来るものだと彼らは知っている。
いつ、彼女がまたその細い喉から叫喚を上げるのではないかと想像するだけで胃の中身が気持ち悪く揺らされた。特に彼女が学校制度と国際郵便機関の名を出す直前までが、緊張と不安と恐怖の最高潮だった。
彼女が倒れたあの一瞬からの絶望は、プライドが自覚しているよりも遥かに彼らの中で傷は深い。閉幕するその瞬間まで、彼らの気は休まらず逸るばかりだった。その為、レオン以外にも一部の来賓の中にはその時の危惧ばかりが張り詰め、満足に彼女の言葉に頭が追いつかなかった者もいる。
セドリックに至れば、自分の名が呼ばれるまでは己のことよりもプライドの安否の方が頭を占拠していた。学校制度についてはハナズオ連合王国が同盟国加入してから知っていたが、初耳だった来月からの学校についてよりも彼女の事ばかりに意識が向いた。そして公式発表の内容を全て知っていたステイル達もまた、彼女の身に少しでも異変はないかとそればかりに額や頬に汗を伝わせていた。何かあればすぐにでも彼女の元へ掛け出せるようにと身構え、瞬き一つすら邪魔だった。
そして今、とうとう無事にプライドが閉幕後に自分達の元へ戻ってきてくれ、やっと張りつめていた緊張の糸が切れた。まだ部屋に戻るまで安心はできないと頭ではわかっていても、今は一難去ったという安堵が大き過ぎる。これでやっとフリージア王国も、そしてプライドもあの時から更に一歩前へ進めたのだと思えば泥のような安堵に潰された。来賓の目が無ければ、この場で座り込みたいほどの脱力感に襲われながら彼らはそこに立っている。
公式発表もさることながら、何よりも彼女の帰還が喜ばしかった。
「……姉君。僕達も早々に退室しましょう。」
「え?でも、まだセドリックが囲まれているし、私も責任者として質問に」
「大丈夫です。セドリック王弟が全て完璧に答えてくれます。それに姉君が退室しなければ、〝帰れない者も〟います。」
プライドの言葉を遮るように断言するステイルは首を振る。
するとステイルの言葉通りにと、ティアラまでもがプライドの腕にしがみ付いたまま退室へと小さく引っ張った。こくこくと小さく頷く動作ははっきりとステイルに同意の意思を示している。
「じゃあねプライド。今日は本当におめでとう。すごく有意義な一日だったよ。」
「あとは宰相である私にお任せを。どうぞ今晩はゆっくりとお休み下さい。」
いつもはプライドとの時間を惜しむレオンも今回は自ら退室を勧め、更にジルベールも緩やかに彼女の言い訳を消していく。
宜しければこのままどうぞ、と先ほどの資料をプライドに手渡し、優しく背を押した。え、え、とあまりに強制退場感にプライドは言葉を詰まらせるが、確かにメインである自分が退室しなければ遠慮して帰れない者もいると思い直す。
更には今回の公式発表者といえば、セドリック達相手と同じように退室するまでいつまでも質問を飛ばしたい者も後を絶たない。そうなれば大広間を片付けるジルベール達に迷惑がかかるだけだとも思う。あくまで公式発表以上の質問に答えるか否かは本人達の自由。ハナズオ連合王国に全てを押し付ける気がして咎めたが、逆に自分が帰らなければ彼らも遠慮して退室できないとも判断する。今も王族が密集して話しているからこそ遠慮して一定距離で大勢が様子を伺っているが、プライド達から話を聞ければと来賓が詰め寄っている。これは一人にでも答えれば、もれなく全員から質疑応答コースだとこれまでの経験から察し、プライド自身も退室を決めた。ステイル達に流されるようにレオン達へ挨拶をし、弟妹と共に扉へと真っ直ぐに絨毯を歩いていく。
多くの来賓が口々に、せめてとプライドへ賞賛や最後の挨拶だけでもと声を掛ける中、彼女は笑みで応えながら四方を見回した。そして来賓の隙間からチラチラとその姿が見つかる度に一際柔らかな笑みを向ける。
いつもはひとかたまりになっている彼らが、何故今はばらけているのかだけが少しだけ気になったが、それでも彼らもまた自分の話を見守ってくれていたのだろうと思えば胸がぽかりと温まった。一人一人見つけては目で語り、相手の表情が変われば伝わったことにまた笑んだ。
閉幕後も殆ど去る者がいない中、女王を追うように退場する第一王女に誰もが振り返った。
傍らに並ぶ次期王妹と次期摂政、そして扉の傍で待機していた近衛兵と護衛達を引き連れた彼女は既に王族としての威厳と覇気を放っていた。何より、左右に弟妹を連れたその姿は今や誰の目にも単なる仲睦まじい姉弟妹の姿ではなかった。王配のアルバートと摂政のヴェストを率い歩いたローザと同じ
〝王〟の風格そのものだった。
女王に続き、扉の向こうへ去っていく次期女王に誰もが別れを惜しみ、見送った。




