677.騎士達は叶う。
「……エリック副隊長。なんか、俺まで緊張してきたンすけど。」
「大丈夫、俺もだ。」
声を潜め、口すらほとんど動かさないように注意を払いながら二人は言葉を交わす。
顔は見合わせず、正面を向いたままアーサーは顔だけではなく全身が強張り、呼吸をするのすら苦労した。エリックも緊張する顔を無理に笑顔に痙攣らせながら後ろに組んだ両手に力を込める。
壁際に並ぶ二人は、目の前の光景から目が離せない。瞬きすらできないと瞼に力を込めた。頬から首筋に汗が伝い、拭うことすら許されない。喉仏を上下させながらも他の参列者と同じように目の前の光景に魅入った。
この場に居るのは上層部の人間。そしてフリージア王国の王族や祝勝会から城に滞在しているハナズオ連合王国の王族も招かれていた。
更には騎士団からは騎士団長と副団長だけではなく、大勢の騎士達が左右に立ち、多くの参列者と共にそれを見守っていた。プライドの近衛騎士としてこの場に居ることを許されたアーサーとエリックは、他の騎士とは違う位置に控えている為に余計に緊張する。単純に豪華な面々に、ではない。問題は彼らの視線の先だ。
プライド・ロイヤル・アイビー
第一王女であり、自分達が護るべき王女がそこに佇んでいた。
金の装飾が施された蝋燭が広間中に飾りつけられ、真紅の絨毯が真っ直ぐと彼女へ通じるように敷かれている。左右に整列する騎士達の間を分かつように敷かれた長い絨毯、それを踏むことが許されたのはたった三人だけだった。
跪き、頭を深々と下げて待つ彼らはただただ静かにプライドの許しを待つ。
儀式は滞りなく進み、とうとう彼女がその口で跪く騎士の名を声高に呼ぶ。
「カラム・ボルドー。」
その言葉を受けて、音もなく一人の騎士が顔を上げて立ち上がった。
赤毛混じりの髪に、騎士としては比較的に細身の彼は、引き締めた顔付きで絨毯を踏み進めた。上等な絨毯に鎧の足音を吸われながら、見守る騎士達の前を通り過ぎる姿にそれだけで参列した騎士達の気が引き締まった。大勢の騎士に慕われ、人望も厚いカラムの姿は一挙一動が手本どころかまさに理想形そのものだった。
思わず感嘆の声が出てしまいそうなのを騎士達は口の中に飲み込み、意識的に唇を結び、絞る。今は彼らの晴れの場に一欠片すら余計なものをいれたくなかった。
剣を背中に刺したかのように伸びた背で歩むカラムは、プライドまでの距離が近くも、そして果てしなく遠くも感じられた。
迅る心臓と、光の下で自分ただ一人を待つ彼女の姿に目が縫いとめられる。僅かに微笑みかけてくれるプライドと、大勢の騎士や来賓に見守られているという緊張感、何より今これから何を行うのかと考えれば頭が燃えるかのようだった。自分が一歩絨毯を踏み締めるまでの間に心臓の音が二回以上鳴り、喉の血管が血液を巡らす感覚がはっきり残る。
表面上は誰よりも落ち着き払い、理想形を演じるカラムだが、その内側は荒波のようだった。首筋から滴り落ちる雫が酷く冷たく感じ、最後は嫌な感覚を残しながら誰かの指先のように彼をくすぐった。
プライドの背後にはステイルとティアラ、王配であるアルバート、そして宰相のジルベールも控えていた。女王のローザと、彼女の補佐でもあるヴェストは今この場にはいない。しかしそれでも絢爛たる顔触れに緊張しないという方が無理な話だった。
たとえこれが〝二度目〟であろうとも。
……むしろ、一度目の時よりも緊張しているかもしれないな……。
頭だけで冷静に自分を見つめながらカラムは思う。
一度目の時は、光栄だと。そしてやっと念願が叶ったのだという想いが強かった。その時に自分が誓いを立てた相手に対して敬意を表しこそしたが、それよりも背後で見守ってくれる騎士達や騎士団長の視線の方が遥かに自分の気を引き締め、誇らしかった。
だが、今はただどうしようもなく絨毯の先にいる女性に意識が持っていかれる。彼女との距離を縮めていくだけで、心臓の収縮すら激しかった。畏れ多さと同時に、彼女に更に一歩近付きたいとも思ってしまう。
とうとうプライドの前まで辿り着き、息を止めて彼女へ跪く。
あくまで動きは優雅だが、心臓だけはただひたすら煩く鳴るばかりだった。
貴族として彼女の隣に並ぶことよりも、遥かに誇らしい。騎士として誇る自分がプライドの前に膝を折り、傅く。ただそれだけの動作で幻想の中に放り込まれたかのように夢見にされる。望み、乞い願い、そして彼女が叶えてくれるのだから。
今までも何度もこの体勢からプライドを見上げたことのあるカラムだが、今は一際彼女が美しいと思う。
広間中の厳かな装飾の所為か、プライドへの感情の所為か、それとも今この場が最も尊いと思う自分の心境の所為かはわからない。ただ、それを意識した途端に緊張よりも幸福感が上回った。
身体が疼き、静かに吐く息すら熱を帯びる。傾けた水流のように滞りなく進めるカラムは、剣を鞘から抜き出した。金属音を殆ど出さず、光の反射で銀色に輝く剣を恭しく両手でプライドへと差し出す。
恙無く儀式は行われ、これ以上ない流れのまま彼がプライドと〝誓い〟を交わす瞬間を誰もが固唾を呑んで見守った。
「……汝、カラム・ボルドーを」
……
「アラン・バーナーズ。」
次にその名を呼ばれたのは茶色がかった金髪の騎士だった。
跪き、興奮を必死に抑えたまま彼もまたしっかりとした足取りで立ち上がる。短い髪をわずかに揺らし、カラムよりも僅かに速い足取りではあったがプライドの前で跪き、剣を両手で捧げた姿は堂々たる騎士だった。その手から剣がプライドに受け取られた瞬間、心臓が身体を揺らすほど一際大きく高鳴った。
彼女が自分の剣を手に取ってくれたことは、今日が初めてではない。当時はプライドに対して憧れや尊敬ばかりを抱いていた自分が、今は全く違う気持ちで彼女が手に取る剣を上目で覗く。深々と垂らした顔のまま、たった一瞬でも良いからその瞬間を目に焼き付けたいと強く思った。そして本当に少し、一秒だけそれを確認したアランはすぐに視線を元に下げた。もうその一瞬だけでも喜びを噛み締める。やはりまだ、自分にとってプライドは憧れと尊敬の対象でもあるのだと自覚する。
アランの剣を受け取ったプライドは、それをそっと彼の肩に置いた。トン、と音もなく刃一枚分の重みが肩に加わり、俯いたままアランは下唇を噛んで目を閉じた。
一度目の時と同じように、俯けた視界の中でそれ以外の感覚全てを刻み、噛み締める。指先が震えるほどの喜びに、今この場で死んでも良いと本気で思ってしまう。
そしてとうとうプライドから紡がれる言葉に、心臓の音が酷く遅く、重く響いた。
「謙虚であれ。」
凛としたその声は清流のように透き通っていた。
最初のその一言を聞いた瞬間、目を閉じたアランはまるで全身が溶けていくような感覚に襲われる。不快ではなく、心地よく胸の内が温かい。溺れるような幸福感というのはこういうのを言うのだろうかと頭の隅で思う。
「誠実であれ。礼儀を守れ。裏切ることなく、欺くことなく……」
一生この言葉と声を聞いていたいと思う。
全身が溶けきり、一つになっていくような感覚に満たされる。一つひとつの言葉に「はい」と答えたい気持ちを必死に抑える。今はまだ応える時ではない。
「弱者には常に優しく、強者には常に勇ましく」
プライドにとっては、もうこの年になるまで紡ぎ慣れた言葉でもあった。
しかし、今回はいつにも増して緊張する。そして声や剣が震えないようにと願いながらも思う。この誓いの言葉など本当ならば彼らには必要ない。そのくらいに彼らは既にその全てを兼ね揃えていると断言できた。
「己の品位を高め、堂々と振る舞い、民を守る盾となれ。」
目は開けない。彼女の言葉ひとつ一つを昔と同じように心臓に焼き付ける。
初めての時は、誇り高く全身が喜びで打ち震えた。誓いのような騎士になると何度も心に決めた。その先の騎士としての未来を想えば、閉じていた目の奥が眩しくなった。
そして今もそれは全く同じだ。心臓の高鳴りと、爛れるような熱以外。
「主の敵を討つ矛となれ。」
その言葉に、耐えきれずアランは誰にも気づかれないようにほんの数ミリだけ頷いた。
これから念願が叶うのだと、そう思えば口元が緩む。ついさっきまで死んでも良いと思った自分に、まだ死ぬなよと言い聞かす。
……また、いつ死ぬかわかんねぇけど。
それでも次死ぬ時は間違いなく、と。そう思えば、また笑って死ねる。
間違いなく今から自分はプライドのものになるのだと、それだけでも胸が張れた。これ以上なく贅沢で身に余る褒美をそれでも願って良かったと、一生自分は自慢にして語るだろうとアランは思う。
「騎士である身を忘れるな。」
忘れられない、忘れたくない。
それこそが自分にとってこの上ない誇りなのだから。
儀式が進み、いつものアランとは全く違う静け切った横顔に騎士達は目を見張る。
見届けきった最後の最後まで、整然としたその姿はまるで別人のようだった。
「……汝、アラン・バーナーズを」
……
「ハリソン・ディルク。」
最後の騎士の名が呼ばれた。
その名を呼ばれた瞬間、風を切るような速さでハリソンは顔を上げた。長い黒髪が左右で波打ち、立ち上がれば迅る想いを抑えきれないようにカラムの倍の速さで騎士達の前を横断する。
それを見た副団長のクラークは一度目の時と同じだと、音に出さず小さく笑った。当時もしっかり教えたのにと思いながら、きっと彼の中での最遅があれなのだろうと理解する。
アランより速い足の運びにプライドも心の中で悲鳴を上げた。威圧的にも感じる彼の接近に、もしかして緊張しているのだろうかとも思う。しかし、それを踏まえてもやはり正面から迫ってくるハリソンは怖かった。それでも第一王女として表情だけは必死に平静を装いながら、笑みを作る。
彼が深々と頭を下げて跪いた時からは、ハリソンにも〝一度目〟があったのだなと思えば、今度は自然な笑みに戻れた。剣を受け取り、肩に置き、誓いの言葉を紡げば今度は微動だにしなくなったハリソンに、彼らしいなと笑う。彼もまた誠心誠意に受け取ってくれているのだと思うと嬉しかった。
プライドが誓いを紡ぐのを聞き届けながら、ハリソンは一度目の時は何度も与えられたその言葉を頭の中で何度も反芻したことを思い出す。そして今は、ただただプライドから与えられた言葉が身の内に沁み入った。
悔しいがアランの提案に乗ってよかったと心から思う。自分では羨むことはあっても、こんな突飛なことは思いつかない。途中、プライドからの言葉に「この命に懸けても」と返しかけて寸前に口の動きが止まった。
早く顔を上げたい、己が意思で誓いたい、表明したいと望めば望むほど身体が端々まで疼く。息を意識的に整え、彼女の言葉に耳を澄ませたところでとうとうその時が来た。
「……汝、ハリソン・ディルクを」
宣言を言い切り、広間中に声を響かせた。
プライドがハリソンの肩から剣を小さく浮かせ、その刃を今度はハリソン自身に向ける。初めて顔を上げることを許されたハリソンは、その瞬間に勢い良く顔を上げた。
黒髪が舞い、ギラリと光った紫色の瞳にプライドの肩が僅かに上下したが、そこまでだった。その後のハリソンは、信じられないほどゆっくりとした動作へと変わっていく。
突きつけられた剣を前にハリソンは、やっと待ちに待った瞬間を得られたのだから。
与えられた一挙一動すらももどかしかった。長々と順を踏まえなくても、改めて語られなくとも自分の覚悟は変わらない。それでもプライドから与えられた言葉はどうしようもなく受け入れられる。これから彼女に誓うのだと思えば胸が高鳴った。そして今、この時を一瞬一瞬尊ぶべきだと思う。
顔を上げれば眼前にプライドが佇んでいた。光に照らされ、大勢の王族を背に、そして自らの過ちをも望んで背負おうとする女性が今は輝いてすら見えた。
一度目の時にはなかった眼前への高揚感がハリソンを満たす。血色の良くない筈のハリソンの肌に赤みが差した。
見開かれた目は獲物を狩る直前にも見えたが、光の宿りは柔らかい。自分と同じ紫色の瞳と目を合わせれば、プライドから花の咲くような笑みが返された。自身に突きつけられた刃を前に、今ならばこのまま貫かれても痛みを感じないだろうとハリソンは本気で思う。
彼女と重ね合わせた視線をゆっくりと、まるで惜しむかのようにずらした。ハリソンの背後姿を見守っている騎士達にはハリソンがただ硬直しているようにも見えた。しかし、正面から彼を見据えたプライドには彼がしっかりと視線を己が剣へと移しているのがわかった。
まるで味わうかのように、余韻に浸るかのように。ハリソンは最初は目の動きだけを刃を見つめ、そして首から顔を視線に引っ張らせるようにして動かした。
目線から首、顔、そしてその唇を刃の線に添わすように近づけ、花弁に触れるような優しさでそっと口付ける。
己が剣への口付けだというのに、まるで無機物相手ではなくプライドの一部に誓っているような感覚を覚え、吐いた息が細く途切れた。
その瞬間、先に誓いを終えた二人と同じようにハリソンへも惜しみない喝采が送られる。
その音に合わせるようにまたゆっくりと唇を離し、剣を返還するプライドへハリソンはまた深々と頭を下げた。長い髪が垂れて床についたが、たとえ肩までの長さでもついたであろう深い傅きだった。
二度目の〝叙任式〟
『〝我が〟騎士に任命す』
今日、この時を以て彼らは正式にプライドの騎士となった。
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