642.怨恨王女は手を取る。
一拍の沈黙後、とうとうダンスの音楽が始まった。
私が考えるよりも先にそっとステイルが重心を変えるように緩やかな動きで誘導してくれる。誘われるように一歩、そして一歩と足を運んで気が付けば、いつものようにステップを踏めていた。右へ、左へと流れながら、音楽に合わせてフロアを回る。踊れていることにほっとして、身体の強張りが解ければもう身体に染みついた動きが勝手にステップを踏んでいた。
「大丈夫です。俺がいるんですから。」
ふふっ、と笑うステイルの笑顔は本当に柔らかい。
自分も緊張してるなんて嘘みたい。きっと私を元気づけてくれる為に言ってくれたんだなと思えば、ステイルの優しさにまた少し力が抜けた。音楽に流れながら、感謝を込めて握ったステイルの手にきゅっとだけ力を込める。その途端びくっとステイルの肩が上下した。……思ったより強く握り過ぎてしまったらしい。
急激にステイルの頬が赤くなって、痛いのを我慢してくれたのかなと思えばまさか爪を立ててしまったのだろうかと心配になる。誤魔化すように爪を立ててしまったかと思うところを指先だけ動かしてさすれば、何故か余計にステイルの顔が唇を絞ったまま赤くなった。逆に痛いのを思い出させてしまったか、むしろ痛いのを我慢していると私に気づかれて恥ずかしくなってしまったのだろうか。全面的に悪いのは私なのだけれど。
でも、ステイルのことを心配している間に、気づけばもう無意識にダンスを踊れていた。見守ってくれている皆の視線がどれも温かくて、なんてことのない今までと同じダンスだと今更になって気付く。寧ろ踊るのは一人であっても相手はステイルを入れてもたったの六人。ダンスの時間自体前回よりも短いし観覧者だってずっと少ない小規模だ。しかもダンスを踊る相手はステイルを始めとして皆もう気が知れた人ばかり。そう思えば緊張していたのがおかしくなってきて、今度は私がふふっと声に出して笑ってしまう。
するとステイルが気が付いたように大きく瞬きをして私を見直した。「すみません……」と何故か謝られてしまって、わからず小首を傾げてしまう。
「どうして謝るの?ステイルのお陰で安心して踊れたのに。」
「いえ。……それより、衛兵達とは無事話せましたか?」
尋ねる私にステイルが話を変える。
やっぱり痛いのを我慢しているのを気づかれたくなかったのだろうか。なら、私がここで深堀するのは失礼だなとステイルの話題にそのまま従うことにする。ええ、おかげで。と返しながら私は視線をぐるりと周囲に向けた。
今日、衛兵を祝勝会に招けるように手筈を整えてくれたのはステイルだった。発案はティアラらしいけれど、本当に二人で私の為に色々と提案をして実行まで移してくれた。この後のこともそうだし、ステイルは特に今日まで準備に忙しかっただろう。なのに私へ苦情どころか嫌な顔一つしないで頑張ってくれた。
私が公務に関わる事を許されてからは、手伝うと言ったけれど「これは俺が全面的に任されたことなので」と断られた。それくらいに一生懸命今日の為に力を注いでくれたことにはもう感謝しかない。ステイルには大負担だとはわかっていたけれど、どうしても私から「やっぱり通例通りにしましょう」とは言いたくなくて。……どうしても、この場を作りたかった。
ちゃんと、自分の口で謝りたかったから。
奪還戦と、その……ずっと前から。
ステイル達身内を除けば、私から一番被害を被ったのは彼らだ。デズ先生は今日まで何度謝っても、忘れたように振る舞って「そんなことよりもご健在で何よりです」と笑ってくれたけれど、本当ならそんな簡単に許されて良い話じゃない。治りました、良かったねで済ませて良い範囲を私はとっくに越えている。衛兵だって城や王族を守るのが仕事だからって、暴力を振るわれて良いわけではない。だからちゃんとこの場で一人ひとりに謝りたかった。
私の所為で発狂させられたり、離れの塔で見張りをさせられた人達にも当然だけど、特に怪我をさせられた人には絶対に。離れの塔でアダムに撃たれた人、そして……逃亡する私に怪我を負わされた人。
本当はヴァルが目覚めてすぐに彼らの元へも会いに回りたかったのだけれど、ステイルに止められてしまった。騎士団の方は〝あれ〟の為にと言われたけれど、衛兵は「公式発表前にプライドが城中を歩き回ると大変ですから」だった。必要なら衛兵を全員呼び出しますと言われたけれど、謝る側が呼び出すのは気が引けた。だからこそ私の健在が発表される今日、ちゃんとした形で正面から彼らにも会って謝りたかった。
「皆、……本当に信じられないくらい責めないでいてくれて、……嫌な顔、すら。」
そう言いながら、少し声がくぐもってしまう。
本当に……誰にも、責められなかった。自分勝手にも責めて〝貰えなかった〟と思うくらいに、全く。
わかってはいた。私は今も第一王女で、衛兵の彼らが責められるような相手ではない。本心では怖くても嫌悪していても、どれだけ嫌でも「気にしていません」と言うしかない。表情にだって出せるわけがない。私自身、本音を言って貰えないとわかった上でそれでも一方的でも良いから謝りたかったのだから。心の底から許して欲しいなんて虫が良すぎる。
謝って回った衛兵は、話しかけるどころか近寄った時点で顔が赤らんでいた。当然だ、感謝の気持ちとはいえこんな慣れない場所に呼び出されて貴族達の前で第一王女に話しかけられたら緊張するに決まっている。いつもの護衛や警備中に軽く話すのとはわけが違う。
皆、私が話題にした時は少し表情が険しくなったけれど、謝ろうとすれば「とんでもありません!」「お戻りになられて何よりです」「自分こそ力が及ばす申し訳ありませんでした……‼︎」とばかり返された。……私が怪我を負わせた衛兵すら、そう言って。
あんな恐怖の権化みたいな私が怖いのなんて当然なのに、涙目で耐えてくれた人もいた。「本当に、よくぞお戻りに……!」とそれでも力一杯私が戻ったことを喜んでくれて。
本当に怖がらせてしまったのだと自分が嫌になるくらい思い知った。
「……当然です。嫌な顔なんてできる筈がありません。」
言葉を濁して黙してしまう私に、ステイルが溜息交じりに返す。
いつもの調子に戻ったステイルに安心しながらも、そうよね……と苦笑いしながら少しだけ肩を落とす。いっそのこと王族の身分剥奪でもされてしまえば、良く悪くも彼らの本音をぶつけて貰えたのだろうかと思ってしまう。
すると、落ち込む私を叱咤するようにステイルが添えた私の腰を引き寄せた。ぐっ、と手のひら分の圧を感じれば次の瞬間にはぐるりと彼を軸にして回った。前世のコーヒーカップみたいにぐるりと回転して、思考が追いついた時には歓声が遅れて頭にも届いた。
「やっと〝会いたかった〟相手に会えて、嫌な顔をする人間なんて居るわけがないでしょう。」
少しだけ私を叱りつけるような口調で言うステイルは、眉を寄せて唇を尖らせて、まるでむくれているかのようだった。
ちゃんともっと周りを見てください、と続けられてその後もぐるぐると目が回らない程度にフロア中を進み回る。ステイルに言われた通りに来賓に目を向ければ、貴族達に遠慮するようにしながら衛兵もその背後に並んでいた。
背や身体ががっしりした人が多い衛兵は、後方からでもはっきり見渡せるようだった。誰もが目を輝かせて、ステイルのリードに合わせて回転する度嬉しそうに歓声や拍手を送ってくれた。顔を綻ばせて目を向けてくれている彼もまた、さっき私が謝った衛兵だ。私に刺された槍の傷も今は痕もありませんと必死な表情で訴えてくれた人だった。
「貴方は被害者です。貴方が認めずとも俺が何度でもそう言い張りますから。貴方が自身を責めるなら、二ヶ月も気付けなかった俺達を責めてからにして下さい。」
良いですね?と強めに言われ、顔を上げれば見下ろされたまま眼鏡の奥の眼差しが私を針のように細く刺した。
はい……と頷きながら、私からも彼を見つめ返す。漆黒の瞳が鏡のように私をはっきり写していた。
怒ったように、言い聞かせるように言う言葉はどれもが優しく胸に響く。私の為に怒ってくれてるのだなと沁みるようにわかった。
「……ありがとう、ステイル。」
優しい叱責が今は慰めよりもずっと嬉しい。
感謝を込めて笑みを返せば、ステイルが目を見開いた。回るのをやめて、またゆるやかなステップになりながら一度私から顔ごと逸らす。少し見かけより気が高ぶり過ぎたのか、黒髪から覗かせた耳が赤い。「すみません……言い過ぎました」と謝ってくれるステイルに首を横へ振る。
「謝らないで。ステイルのそういうところに救われる人はきっと私だけじゃないもの。……ずっとそんな貴方でいてね。」
「……プライドがそのままで居てくれるのなら、一生でも保証しますよ。」
ちら、と逸らした顔のまま目だけを向けてくれるステイルはまだちょっと怒ってる。
その一言を言った後は唇を一文字に結んで、顔も赤くなる。それでも眉を寄せた目がとても優しかった。思わず笑いながら、わかったわと返せば顔の力が抜けたように柔らかな表情を正面から私へ向けてくれた。
まるで見計らったように音楽が終わりへと曲調を緩める。私が気付けばステイルからも終わりに向けてステップをゆっくりと流し始めた。そっとお互いに片腕を離せば、彼は少しだけ声を低める。
「すみません……本当はもっと、ちゃんと話したいこともあったのですが……つい。」
そう言ってまた謝ってくれてしまったステイルは表情が少し暗い。
もしかしたらダンス中にもっと私を元気付けようとしてくれていたのかもしれない。お説教ぽくなったのを気にしてくれたらしい。何処までも優しいステイルに、私は笑いながらまた次の時にねと言葉を返す。……その途端、何故か返事をしてくれたステイルが更に肩が丸くなった。
来賓に礼をした後に膨れ上がる拍手の中で「次……」と小さくステイルが呟くのが聞こえた。やっぱりまだ落ち込んでいる気がする。今度は私が入場の時とは逆にその手を引きながらティアラの横まで連れ帰った。
目を輝かせてずっと拍手をしてくれていたティアラが、何故か肩が丸いステイルに首を捻った。兄様⁇と呼び掛けた後にステイルの顔を下から覗き込んだティアラは慰めるようにステイルの頭を撫でた。肩と一緒に背中も丸くなって少し項垂れた様子のステイルは、ティアラが手を伸ばしても届く高さに頭があった。大理石の床ばかりに視線を落とすステイルに、私からもその黒髪を撫でる。
「……貴方の義姉で良かったわ。こうしてまた必ず貴方に手を引いてもらえるもの。」
伝えた途端、ステイルの頭が髪が乱れるほど勢いよく上がった。
思い切りよく上げ過ぎて、眼鏡が斜めにずれてしまっている。目を丸くして、珍しい格好になっているステイルにせめて髪だけでもと撫でた手のまま彼の髪を整える。
また次のダンスの前奏が始まるのが聞こえて、また早く戻らなきゃと振り返る。じゃあ行ってくるわね、と二人に声を掛け、早足でフロアへ戻
……る、前に腕を掴まれた。
何か忘れ物でもしたかしら、と足を止めて振り向けばステイル自身が手を掴んだのをびっくりしたみたいに自分の手と私を見比べていた。
どうしたのかと私も待つとステイルは前奏に急かされるように一瞬だけ顔を険しくした後、口を開く。
「プライド、俺はっ……!プライドだったらたとえ」
「知ってる。」
ふふっ、と悪戯するように彼の言葉へ先に言葉を返してしまう。
私の返答が驚きだったのか、それとも遮られたことがショックだったのか。ステイルは話そうとした口を開いたまま硬直してしまった。だけど、ステイルならそうしてくれると本気でそう思ったから。
握った手が強張ったまま固まって、隙間からするりと手を抜けた。行って良いのだろうかと思いながら、私はもう一度だけ彼の漆黒の髪を指で通すように撫でた。
「……ダンス、また手を取らせてね。絶対取るって約束するから。」
行ってきます、と。
もう一度だけ言い直してからヒールで駆けた。ドレスでみっともならなくならないように細心の注意を払って、フロアで待ってくれていた彼へと並ぶ。私がフロアに上がった途端、温かな拍手が再び迎えてくれた。
次の曲まで時間がない。早速彼と組み合いながら向き合えば、また高らかな号令が次のダンス相手が何者かを改めて紹介してくれる。
「アネモネ王国第一王子、レオン・アドニス・コロナリア殿下。」
レオンと向き合い、笑い合う。
直前まで待たせてしまったにも関わらず、滑らかな笑顔と優雅な動作が私を両手を広げて迎えてくれた。
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