630.沈黙王女は迎え、
「…………エリック副隊長。なんか俺すっっげぇ心臓やべぇンすけど……。」
「安心しろ、俺もだ。」
プライドの部屋。
その扉の前でアーサーとエリックは二人並んで顔を引攣らせていた。
いつものようにプライドが朝の支度を終える時間まで早めに扉の前で待っていた彼らは、心臓の音だけが互いに聞こえるのではないかと本気で思った。
団服の下にある自分の胸を鷲掴むように押さえつけるアーサーと、そして湿った手のひらを誤魔化すように拳を握るエリックは時間になるまでひたすら待つ。二人とも身体が妙に重く落ち着かず、グラリと思考も纏まらなかったが、それが明け方まで行われた騎士団の宴の所為ではないことはわかっている。
二人のその様子に近衛兵のジャックは、小さく笑いを噛み殺した。気持ちはわかる、とそう思いながらも寡黙な彼は何も言わなかった。
暫く待ち、その間にティアラとステイルもそれぞれの部屋から彼女の扉の前に集まった。プライドを迎える為に朝の支度を早めに終わらせ、彼女を出迎えるのは〝いつもの〟ことだった。
「昨日、……悪かった。」
ぼそ……と、アーサーが声を潜めて隣に立つステイルへ呟くように放つ。
その言葉に目だけを向けたステイルは、口を閉ざしたまま腕を組んだ。見れば、ばつが悪そうに顔も向けられないまま言うアーサーは、首の後ろを掻きながら眉を寄せていた。珍しく自分に目も合わせない相棒のその横顔に、ステイルはどうやら昨日自分が怒った理由が正しく理解されたらしいと判断する。
フン、と軽く鼻を鳴らすとステイルは自分からもアーサーから目を逸らす。その様子にティアラが「何かあったの?」と軽く覗き込みながら尋ねたが、敢えて答えなかった。
エリックも緊張を紛らわすようにアーサーとステイルを見比べれば、二人とも目も顔も扉だけに向けたままだった。だが、ステイルの次の返事と共に二人の表情が変わる。
「百回詫びたら許してやらなくもない。」
僅かに目を見開いて今度はアーサーが顔ごと振り向く。
その視線の先には、してやったりと言わんばかりに悪く笑うステイルの横顔があった。アーサーの視線を受けてから、軽く顔を傾ける程度にして目を合わした。フフンッ、とステイルにしては珍しい笑い方だ。眼鏡の黒縁を押さえつけながら、上機嫌にアーサーへと勝ち誇る。
「……ハッ。」
もしここが城内の廊下でなければ肩を叩いていた。
第一王子のステイルへ鼻で笑って返したアーサーは、それほどに清々しい笑顔だった。
ティアラとエリックも二人のその反応にやっと安心したように息を吐いた。深刻でないことも、今はもう喧嘩中ではないことも二人を見ればわかる。
すると、ふとアーサーが思い出したように口を「あ」で開けた。
ステイルとエリックがどうしたと見返せば、アーサーはエリックに頭を下げた後、声を潜めてステイルに投げかけた。
「昨日のアレだけどよ……」
その言葉に、すぐステイルは言いたいことを理解した。
耳を傾けてみせれば、アーサーは彼の耳に直接こそこそと昨日の提案の返事を返した。それに満足したようにステイルが頷けば、すかさずアーサーは「ただし」と一言だけ音を大きくし、止める。
まだ条件がある、と言わんばかりの溜めの後、再びアーサーはステイルに続きを語る。その言葉に次第に目を丸くしていく相棒に、最後には「それだけは譲らねぇ」と先に断った。その言い方が自分は曲げるつもりも妥協するつもりもない、というアーサーの意思表示だと理解しているステイルは一度頷いた後に、一度耳を離して彼を正面から見返した。
「……その、こだわる理由は言えるか?」
実際、ステイル自身もそれ事態は全く構わない。お前が言ったからには自分で御膳立てしろよと、一言添えた彼はアーサーから問いの返事を待った。
アーサーは一度固く閉じた口を一度周囲を見回してから開く。絶対エリックにすら聞こえないように気を払い、ステイルの耳にのみ、間違いないそのこだわる理由を囁く。少し長くなったその言葉を、最後に低い声で締め括った。
「────強ぇけど、弱ぇから。」
その言葉に今度こそステイルは全面的に同意した。
わかった、と返せば時間配分は任せろと前のめりに請け負った。賛成してくれたステイルに礼を伝えながらアーサーも頷く。
そうしていると、侍女の手によりとうとう扉が内側から開かれ始めた。
その途端、一瞬過った和やかな空気も一変する。誰もが背筋を伸ばし、いつものように彼女を迎えるべく顔を上げた。しかし無意識にどうしても緊張感が張り詰め、扉の向こうにいる彼女へ向けて目を見張る。扉が開かれた先では、部屋の主が鏡の前から彼らに向かい振り返った後だった。
彼らと同じように背筋をピンと伸ばし、陽の光に当てられ柔らかく笑う。豪奢なドレスを見事に着こなし、深紅の髪先まで整えられた第一王女。
「おはようステイル、ティアラ。アーサー、エリック副隊長、今日も宜しくお願いしますね。」
〝いつもの〟彼女がそこに居た。
おはようございますっ、とティアラが嬉しそうに彼女の胸へ飛び込んだ。満面の笑みのそれを抱き止めたプライドは、朝一番の反応に少し驚きながらも嬉しそうな笑みを返した。
今日は元気ね、とティアラの柔らかな金色の髪を撫で、そして花のような笑顔をそのまま彼らへと目を向け
「っ⁈えっ、ステ、アーサ……エリッ……ど、どうしたの⁈」
ぎょっ、とプライドは思わず声を上げる。
見れば自分を迎えに来てくれた三人が揃って顔を逸らしていた。ステイルは口が変形するほどに強く片手で掴むように覆い、アーサーも歯をギリリッと食い縛り拳をぷるぷると震わせたまま何も言えない。エリックまでもが熱くなった目頭を押さえたまま無言だった。
まさか朝から体調でも悪いのか、アーサーとエリックはやはり昨晩の騎士団の宴の酒か疲れが引き摺っているのかと心配しながら、プライドは再び三人に呼び掛ける。だが、返ってきたのはエリックからの「いえ……‼︎お気に……なさらず……!」という霞んだ声だけだった。
「皆、お姉様がいつも通り過ごせるのが嬉しいのですよっ」
男性陣の気持ちをいち早く察したティアラが、プライドへと声を弾ませた。最後に「ねっ」と元気よく同意を求めれば、三人は殆ど同時にブンブンと首を縦に振った。
奪還戦から既に一ヶ月。その間に何度もこうして〝いつものように〟プライドを迎えた日はあった。だが、昨日のラジヤ帝国との条約締結までずっと緊張感を張り詰めていた彼らにとって、今日こそがティアラの誕生祭から初めて正真正銘の〝日常〟だった。
プライドが戻ってきた、本当にいつものようにそこにいる、そして当たり前のように自分達へ向けて笑い掛けてくれている。それがただひたすらに彼らは嬉しかった。情に流されるまま「おかえりなさいませ」と言いたい気持ちを各々が必死に耐える。実際にはすでにプライドがこの部屋に戻ってからすらひと月近くは経っている。にも関わらず今更そんな台詞を言っても自己満足だろうと。だが、目の前のプライドが屈託無く笑っている姿を見るとそれだけで泣きたくなってしまった。
彼らは、この日々を取り戻す為に命すら懸けたのだから。
今更であろうと何であろうと、その実感を得てしまった今はどんなに感情を抑えようとも押さえきれなかった。せめて他の二人より先に泣くまいと息を止め、視界から一時的に彼女を消して堪える。口の中を飲み込み、幸福感と共に喉の奥に込み上げるものを押し戻
「おかえりなさい。」
突然、放たれた言葉に思わず振り向く。
予想外に至近距離から放たれた声とその言葉に不意を打たれた彼らはそれしか反応ができなかった。見れば、いつのまにかプライドがティアラと共に自分達の目の前まで歩み寄っていた。苦そうな笑みを浮かべながらも声は絹のように優しい肌触りで放られた。何故、その言葉をプライドの方がと、一瞬堪えていたものも忘れて見返せば彼女は再び口を開く。
「ステイルが補佐に戻ってくれたのも、アーサーとエリック副隊長が近衛騎士にまた戻ってくれたのも凄く嬉しい。……また、宜しくお願いします。」
あれほど醜い姿を晒したのにも関わらず、当然のように自分の元へ戻ってきてくれた。
元に戻ろうと、あんな全員が引くような姿を見せたら王女としても人間としても一歩引かれて当然だとプライドは思っていた。にも関わらず、こうしてラジヤ帝国という脅威が去った後も変わらず自分の護衛を引き受けてくれる近衛騎士も、そして補佐についてくれるステイルもプライドには感謝の念しかなかった。彼らの善意に甘えていると自覚しながら、せめてお礼だけでも伝えたいと彼女が選んだ言葉だった。
そして、ステイル達にとっては涙腺を刺激するに充分過ぎる言葉でもあった。
既に涙が目の奥で熱を灯していると自覚するエリックが、口の中を噛む。そして誤魔化すように、隣で歯を食い縛る音を立てるアーサーの背中をこれ以上ないほど力強く開いた手で叩いた。バァンッッ‼︎と廊下にまで響き渡った音に叩かれた本人のアーサーだけでなく、側にいたステイルやティアラ、プライドの肩までも上下させて背筋を張り詰めさせた。
銃声か一瞬悩むほどの音に廊下の衛兵までも駆けつけてきたが、それをジャックが片手で押し止める。問題ない、と意思を伝える間にエリックはアーサーの背中を再び二度今度は軽く叩いた。
「今は任務中だ、堪えろよ。」
はいっ……と、エリックの言葉にアーサーが歯を食い締めた口で答えた。
痛みや驚きよりも涙を堪える方に精神を擦り減らす。だがお陰で泣くのは耐えられたとアーサーは心の底だけで安堵した。エリック自身が己への気合締めに行ったが、お陰で側にいたステイルも衝撃で涙が引っ込んだ。
心の中でエリックの最適解を強く褒めながら、ステイルは代わりに咳払いで場の空気を整えた。




