そして放心する。
ぎゅうう、と布が締め付けられる音を漏らしながらの抱擁にプライドも腕を回して応えた。
「これからも宜しくね」と優しく言葉を掛ければ、落ち着いた筈のティアラの喉がまたヒクつき、肩を上下に激しく揺らした。顔をプライドの胸元に埋めながら泣く彼女に、……それほどまでに俺からの提案に頷いてしまったことが彼女の矜持を傷付けたのかと胸が痛んだ。
プライドが宥めるように何度もティアラの波立つ金色の髪を撫で、慈悲深い眼差しを注いで笑んだ後。今度はその眼差しと笑みを俺達へ向け始めた。
ステイル王子、ジルベール宰相と音もなく笑い合った後、最後に俺にも笑い掛けてくれた。セドリック、と名を呼ばれ思わず背筋が伸びる。
「本当に本当にありがとう。……私ではとても思い付かなかったわ。」
そう言って笑んだ眩いそれに、思わず息が止まる。
プライドに感謝されるのも賛辞を受けるのも、あまりにも畏れ多すぎる。誇らしい気持ちと気恥ずかしさから「とっ……とんでもない」と言いながら目が泳ぐ。
まだ未発表な情報を騎士達には聞かせられない為、俺は言葉を選びながらあれはジルベール宰相やステイル王子から王族の系譜を教授頂けたお陰だと、先程も彼らの助けがあってこそで俺一人ではとても叶わなかったと我ながら辿々しい言葉で紡ぎ訴えれば、今度は別の方向から「とんでもない」と同じ言葉が合わさるように返ってきた。
「あの発想は僕にもありませんでした。僕らはあくまで同意しただけで、貴方の功績には違いありません。」
「ステイル様の仰る通りです。貢献できたというならば光栄ですが、少なくとも私は何も。流石はハナズオ連合王国の王弟殿下です。」
……ステイル王子とジルベール宰相から、これ以上ない賛辞を受け、とうとう耐え切れず顔が急激に熱くなる。
プライドのみならず彼らにも一年前までは酷い醜態ばかりを晒してきたというのに、そうまで褒められるとどうすれば良いかわからなくなる。いえ、私は、ただ……‼︎と胸の前で手のひらを見せる。背を反らし、彼らの笑みと視線から逃げるようにすれば汗が額を滴った。じわじわとお二人に晒した愚行の数々を思い出せば、赤面を抑えるのすら苦労する。俺はこのお二人にそこまで世辞を受けられるような人間でも立場でもないというのに‼︎
「とっ……とにかく、前向きな検討が叶えば何よりだ。プライド、ティアラ。…………どうか、その時はまた良き婚約者候補を再考してくれ。」
決定すれば、恐らく二人とも婚約者候補の再選定が始まるだろう。あの提案が通れば、婚約者候補の規定自体が変わるのだから。
俺の言葉にプライドは何故か曖昧な笑みで「ありがとう」とだけ言葉を返してくれた。もしや既に決まっていた婚約者候補が規定から外れるものばかりなのかと考えれば、ティアラのみならずプライドにも迷惑をかけたのではと首まで冷える。少なくともプライドの婚約者候補の一人であるカラム隊長は騎士。彼は規定の範疇だと判断すれば、まさか残りの二人の内一人がプライドの本命で俺の所為で引き離されたのではないかと不安になる。だが、不安を問い正そうとするよりも前に、鈴の音のような声が俺に投げられた。
「…………婚約者候補……、……再考……?」
ぽつぽつと小雨のような言葉で呟いたティアラが、ゆっくりと顔を上げた。白い肌も目の周りも泣き過ぎて赤く染め、喉も少しガラついていた。
金色の水晶のような瞳ごと目を丸くして俺を見るティアラは、……うっかりその顔すら愛らしいと思えてしまう。何とか必死にこれ以上赤くなるのを堪えたが、潤んだその瞳から目が離せない。聞き返された言葉がそこで止まった為に暫く口をきつく結んで待てば、ぽかんと潤んだ涙の大粒を目元に残したままティアラは続けた。
「そうっ……ば、セドリック王子……、……何故、昨日……時に……っ、……訂正しっ……下さらなかっ……?」
涙声に近いその声は、まだしゃくり上げて途切れ途切れだった。
口だけは必死に動かしていた彼女は、どうやら俺が昨日の時点で彼女からの話に何故訂正をいれなかったのかと聞きたいらしい。
言いたいことはわかったが、意図がわからず眉を寄せたまま首を捻ってしまう。昨日の話を……ということは、客間での会話だろう。訂正も何もそうすべき内容などあっただろうかと鮮明に昨日の会話を思い出す。だが、やはりわからない。
ティアラが上げた顔がモゴモゴと「そのっ……婚約者……」と呟くのが聞こえたから婚約者候補に関しての訂正なのだろうが、やはりわからない。周りに騎士の目もあるからか、それ以上を敢えて控えているようだった。
プライドが謁見の間から出てきてからは扉の外に控えていた警護の騎士達も女王の護衛の為に部屋の中へ入っていったが、この場に控えている騎士やプライドの近衛騎士もいるからその為だろう。
プライドやステイル王子も俺に尋ねるようにティアラと俺を見比べている。しかし俺自身も皆目見当が付かず悩んでいると、ジルベール宰相が眉を垂らしながら暖かな微笑と共に口を開いた。
「セドリック王弟殿下。そろそろ御帰還のお時間ではないでしょうか。陛下方も是非、殿下を見送らせて頂きたいと願っておられます。」
よろしければ。と、言いながらジルベール宰相がそっと閉ざされた謁見の間を指し示す。
本来ならば俺が近くの客間に控えた後に呼びに来てくれる予定だったのだろうが、ティアラと共に結局ずっと謁見の間の前に居てしまった。俺が言葉を返すと、ジルベール宰相は苦笑するように笑みを広げながらプライドの胸の中に収まったままのティアラへ目線を投げた。
「ティアラ様からもお話があるようですし、我々は先に中でお待ちしております。どうぞ〝御準備が〟出来次第、いらっしゃって下さい。」
ティアラ様も落ち着いてからの方が宜しいでしょうから。とそう言って促すように騎士達に扉を開かせた。
準備も何も俺はこの身一つでフリージア王国に来てしまったから荷造りするようなものもない。つまりはティアラとちゃんと話しをつけてから来ると良いという気遣いだろう。ティアラからそっと離れたプライド、近衛騎士、ステイル王子が心配するように彼女へ目を向けながらジルベール宰相と共に扉の向こうへ去っていった。「ごゆっくり」と優雅な動作で柔らかく笑むジルベール宰相の気遣いには頭が下がる。
扉前の騎士達から話を聞かれない程度に距離を置いた俺達は、閉ざされた後も十三秒ほど沈黙したままだった。
ひっくひっくと僅かにまだ喉を鳴らすティアラが、泣いた所為で真っ赤な顔のまま俯いている。……いや、俺の顔を覗き見る度に余計赤くなるのを見れば、泣いてる所為だけではなく怒りや屈辱も混ざっているのかもしれない。下ろしたままの手で拳を握り、今は謝罪よりも彼女の言葉を待つ。顔に力が入り、口の中を噛み締めた。
本来ならば、彼女を泣かせなどしたくなかった。プライドと共に国を統べるという未来に目を輝かせて笑んで欲しかった。だが、……提案したのが彼女の嫌う俺だったという時点で上手く享受できないのだろう。ここまで彼女を苦しめるくらいならばいっそ昨日の時点で俺ではなくプライドやステイル王子に提案を頼めば良かった。いやしかし、女王に受け入れられるかどころか無礼にもなり得た提案をプライド達に押し付けるわけにもっ……
「何故っ……、……昨日、私が婚約が出来ないとお伝えした時に、この提案をお話して下さらなかったのですか……?」
小さく聞かれないように潜めた声で尋ねる彼女は、未だ俯いたままだ。
どうやら昨日の時点で相談もなく、今日突然女王の前で提案したことを怒っているらしい。やっと合点がいき、俺は一人頷いた。すまなかった、と最初に謝罪をした後に俺からも聞かれぬように声を潜める。
「受け入れられるかもわからん状態で、お前に期待やぬか喜びをさせたくなかった。何より、お前がたとえ反対しようとも俺の決意は変わらなかった。」
女王へ不敬だ、通るわけがない、無謀だ、これ以上の無礼を重ねるなと言われても、懇願する価値はあった。
俺が恥をかくだけならば良い。女王から許可が降りて、その後にティアラから責が重すぎると断られるならばそれでも良い。しかし結果として、……ティアラはこの場で既に覚悟を決めてくれた。やはり彼女もまた誇り高き王族の一人だ。
「だが、お前も覚悟を決めてくれた」と言葉を続ければ、自然と笑みも溢れた。ティアラが、それはっ……と思わずといった様子で言葉を漏らしながら、前に重ねた自分の手を何度も指を組み直した。落ち着かない動作に、まだ不満が残るのだろうと考える。
「それに、たとえ今回の提案が通ろうと通るまいとお前から断られることはわかっていた。だから先に甘んじて受けさせて貰った。」
「………………え?」
ふと、俺の言葉にティアラが突然声を漏らした。
ぴくりと肩を一度震わした後、おそるおそるといった動作で顔を上げる。金色の瞳の目が未だ赤く、目の周りや鼻も赤く擦れていた。
再び俺に聞き返すその口調は、三ヵ月ほど前のやり取りの時とも似ていた。何故ここでそんな反応をするのかと少し不思議に思いながら答える。声を極限まで潜め、彼女と真っ直ぐに目を合わせる。
「……これでお前は、婚姻者を誰に選ぼうともプライド達と共に居られる。もう、己に無理を強いてまで俺と婚姻する必要もない。」
その途端、ティアラの目が水晶のようにみるみる丸くなる。
もしや今やっと気が付いたのだろうかと思いながら、彼女の表情が安堵に染まるのを待つ。……その安堵に俺自身の胸が軋むのだろうと自覚しながら。
ティアラが俺を婚約者候補に入れたのは、婚姻した後もフリージア王国に残り続ける為だった。愛する国と人達と共に時を刻む為に。そして、もうその必要もなくなった。提案が許されれば彼女は国内どころか城内で王族として暮らし続けることができるのだから。やっと真の自由を手に入れた彼女が、他でもなく嫌う俺をよりによって好き好んで選ぶわけもない。
ステイル王子との恋仲は勘違いだった。そしてアネモネ王国の第一王位継承者であるレオン王子との婚姻も無理だろう。だがきっとこれから、もっと彼女に相応しい男が選ばれ
「ッッッばかっっ‼︎‼︎‼︎」
…………既視感が。
三ヵ月ほど前と重なる彼女の怒鳴り声が、広い廊下に響き渡った。
突然の大声に俺だけではなく、扉の前にいる騎士達も身構えて目を丸くした。温厚な彼女が怒る姿など、俺以外は見慣れてもいないのだろう。
てっきり安堵するかと思っていた彼女は、完全に怒っていた。丸い目を鋭く尖らせて睨み、真っ赤な顔色にきつく結んだ唇で頬を膨らませた。組んでいたはずの手は拳を作り、腕から肩までプルプルと震わせている。あの時と同じようにまた振るわれるかと俺は反射的に身構えて顎を反らした。しかし、彼女の怒りは前回以上の覇気を放っている。いっそこのまま拳をどころかナイフを放たれるのではないかと思わず喉を鳴らす。
一体どうしてそこまで怒らせてしまったのかがわからず、困惑して彼女と目を合わせるは良いものの顔を顰めてしまう。ティアラもティアラで、それ以上言葉が出ないように俺を憤怒の色で睨みつけたまま何も言わない。潤んだ目が更にキラキラと光り、結んだ口から歯を噛みしめる音まで聞こえてきた。……本当に、何故。
記憶を何度巡らせても、やはり彼女が怒った理由が見つからない。無礼な言い方をしてしまったのかとも考えたが、敬語でない以外はちゃんと言葉も選んだつもりだ。
考えている間にも彼女の怒りは止まらない。真っ赤な顔と震える肩が火山の噴火前のようだった。じわり、と先ほどよりも潤んだ目から目尻に涙が溜まり始めた彼女にまた俺の所為で泣かせてしまうと流石に焦る。安易に彼女に触れるわけにもいかず、どうすべきか視線を彷徨わせて情けなく狼狽える俺に、ティアラの方が歩み寄ってきた。
タンタン‼︎と、細い足と上等な靴で床を力の限り踏み鳴らし、更に至近距離まで歩み寄ってくる彼女に思わず俺が半歩後退ってしまう。本当に殴られるか刺されるかと半ば覚悟しながら背を反らして腕で身を庇えば、彼女にしては乱暴にそれぞれ右と左手で俺の肩と胸元の衣服を鷲掴んできた。力任せに引き寄せられ、彼女の金色の瞳から目を離せないまま上半身が顔ごと彼女へと前のめる。プライドにも似たように引き寄せられて叱責を受けたことがあるなと当時の記憶を鮮明に思い出した直後。
……頬を、彼女の唇が触れた。
至近距離に近付くその整った顔が視界を埋め尽くし、長い睫毛の先まで見えた。
見ていた騎士達がどよめくように息を飲む音が僅かに耳へ届いた。
柔らかく小さな唇の感触が頬を擽り、心臓が一度本気で止まった。偶然に唇がぶつかったのではない、間違いなく意思を持って俺の頬に当てられたのだとそれだけは理解した。しかも一瞬ではなく二秒間もそれは続いた。
衝撃のあまり指先一つ動かせずに固まる俺から、ティアラはその蕾のような唇をそっと離した。唇が頬から離れていくその一瞬一瞬の感覚すら愛おしく、名残惜しいとすら思ってしまう。
至近距離にあった彼女の顔がゆっくりと離れ、やっと顔全体が視界に捉えられる程度に離れた時も俺は痺れたように動けなかった。瞬きも忘れ、目だけが顔を真っ赤に染める彼女に釘付けのまま動いた。
肩で息を整え、未だ怒っているように眉を寄せ、水晶の目で俺を睨むティアラは最後に俺の衣服からも手を離す。そして険しい表情のまま、俺の頬に触れたその薔薇色の唇を小さく動かした。
「これは証でも誓いでも……っ、お礼でもありませんからねっ!」
震えて上擦った声で早口に最後そう怒鳴った彼女は、最後に俺を両手で軽く突き飛ばした。前のめりの態勢から反対に反れて蹌踉めきながら背が伸びる。
すると彼女は、真っ赤な頬を膨らましたまま俺にめがけて肩をぶつけて横を通り過ぎていった。床を変わらず強く踏み鳴らす音が離れて行き「扉を開けて下さいっ‼︎」と騎士達に大声で叫んだ彼女は扉が開かれた音の直後、足音を遠退けていった。謁見の間に先に戻ったのだろうと、頭では理解しながらも俺は硬直したまま振り返る事もできず動けない。
心臓がバクバクと発作のように音を立てて暴れ回り、それどころではない。心臓の働きが過剰過ぎる所為か、血が酷く廻り回って顔か頭まで沸騰するように熱い。呼吸の仕方すらわからなくなり、このまま死ぬかと思った俺は
……………………その後からの意識が、殆どない。
絶対的な記憶力を持つ筈の俺が、思考が白に消えた。
途切れ途切れにプライドが覗き込んできたり、女王と挨拶を交わしたり、身に余る礼を尽くされたり、ステイル摂政が笑っていた記憶が後から残るが、思考は完全に朧げだ。
気が付けば、兄貴に両肩を掴まれて「しっかりせんか馬鹿者‼︎」揺れ動かされ、喝を入れられていた。
やっと頭が正常に働き始めた時、証でも誓いでも礼でもないというならば、あの口付けは〝褒美〟か何かだろうかと。…………薄ぼんやりと、そう思った。




