593.継承者は忘れていた。
『やめろ!テメェら親父に手を出すな‼︎』
ある日、とても怖くて悲しい夢を見た。
『どうしたんだ、アーサー!どうやってここに、門兵は…!その、…髪はっ…』
ある日、とてもとても辛くて悲しい夢を見た。
どんな夢なのかはいつも目が醒めると全部忘れてしまう。
ただ、目が覚めた時にも感情だけが引き摺るように残っていた。しかも年を重ねるごとにはっきりと。
嬉しい夢や幸せな夢なら覚えていないことも残念に思えたけれど、……絶対にそんな夢じゃないから、次第に覚えていなかったことにほっとするようにもなった。
また怖い夢。それだけ思って、涙を拭う。
小さい頃から夢を見ることは多かったし、覚えてなくても泣いてしまっても段々と気にならなくなった。
毎日ではなくて、数年に数回程度のこと。たまに怖い夢なんて珍しくない。ある時は夜のお休みに。ある時はお昼寝中に。そしてある時は
「ティアラ様⁈ど、どうなさったのですか……⁈ご気分でもっ……?」
……侍女のロッテが、声を潜めて私を揺り起こしてくれた。
頭がぼんやりして目が覚めた途端、とてもとても悲しかった。とても辛くて、喉の奥まで震え出して気が付けばひっくひっくとしゃくりあげていた。
悲しい、悲しい、悲しい、悲しいと。怖さはないけれどただただ悲しかった。
マリーが心配そうにハンカチで拭いてくれて、ロッテが温かなお茶をいれて差し出してくれる。大丈夫です、怖い夢を見ただけですと繰り返しながら、私は紅茶を一口含んで自分を落ち着けた。ぽわりと柔らかな香りにほっとして、やっと喉も落ち着いた。
どうやらお姉様達を待ったままうたた寝をしてしまったみたい。
帰ってきたお姉様達に心配をかけたくなくて、目が腫れないように涙を拭い、お姉様達には秘密にして下さいとお願いする。ロッテ達はすぐに優しく頷いてくれた後、そっと私の背中を撫でてくれた。
お気持ちはわかります、と言いながら柔らかな笑顔を私にくれる。
「大丈夫です、ジルベール宰相も無事帰って来られたのですから。プライド様もステイル様もきっとすぐに戻ってこられますよ。」
はい、と私は目元を押さえながらロッテに言葉を返す。
お姉様達と暮らすようになって五年が経った頃。
父上の補佐をしているジルベール宰相が姿を消してしまった。
本当に突然で、城内は誘拐か失踪かと慌ただしくなった。ジルベール宰相が戻るまでお部屋にいなさいと父上に命じられた私達は、お姉様の部屋に集まった。
いつも優しくて、小さい頃から私の身体の心配をしてくれたジルベール宰相。七年前から哀しげに翳っていたあの人がとてもとても心配だった。
お姉様達と一緒に過ごすようになってから会う回数も減ったけれど……その度にどこか弱々しくて、会う度にきゅっと胸が締め付けられた。
いつも笑顔で、お仕事もとても優秀だというジルベール宰相が何故あんなに辛そうなのか。まだ子どもだった私にはわからなかったけれど
『俺はよからぬ事をしていないかも心配だが』
兄様が筆談で教えてくれた、ジルベール宰相の秘密。
昨日、父上とジルベール宰相が大喧嘩をしていたこと。
病を癒す特殊能力者を探していること。
七年前からマリアンヌさんという人を助けたがっていること。
…………私がずっとずっとそれに気付けなかったことも、そこで初めて知った。
今まで、何度も会ってきたのに。ジルベール宰相が辛そうなのはわかった筈なのに。……気付いてあげられなかった。
そして、お姉様は予知をした。
『マリアンヌさんはジルベール宰相の婚約者だった。お城の何処かに保護されてるけど、予知では今日亡くなってしまった。だから早くジルベール宰相に知らせないと!』
お姉様は、いつもすごく格好良い。
二年前からそうだった。お姉様は困っている人を……辛い運命を迎えようとする人に迷わず手を差し伸べてくれる。迷わずに動いて、本当に助けちゃう奇跡のような人。
だからきっと、お姉様なら。そう思って私もお姉様と兄様が瞬間移動でジルベール宰相の元へ行くのに協力した。少しでも力になりたかった。
私が贈った団服を身に纏ったお姉様と兄様は、まるで子どもの頃に読んだ絵本の戦士みたいに格好良かった。
『ジルベール宰相は無事戻ったのですね!ならば父上からの御許可通り、私達はこの部屋から出ます‼︎』
戻ってきたお姉様と兄様は、帰ってきたジルベール宰相と一緒に何処かへ行ってしまった。
本当に一瞬で、私は追いかけようかと悩む暇もなかった。ドレスの格好のままで、団服のお姉様や兄様よりも小さな身体の私は護衛についていた衛兵を押し退けることも掻い潜ることもできなかった。
でも良いの。お姉様も兄様もきっと戻ってきてくれるから。
だから、私は一人お部屋でロッテ達と待つことにした。
どうしたのかはわからない。ただ、ジルベール宰相が無事に帰って来てくれた、お姉様と兄様が無事に戻って来てくれたと思ったら気が抜けた。フラフラとソファーの背もたれに背中を預けてうたた寝をしてしまったみたい。
どれくらい寝ていたのかときいたら、あまり時間は経っていなかった。そんな一瞬で怖い夢を見てしまうなんて、やっぱり信じているつもりでも心配だったんだなと自分でわかった。
でも大丈夫、だってお姉様が動いてくれたのだもの。兄様も付いている。きっと、きっとジルベール宰相のことも……
『もし貴方が察知できるような緊急の事態が起こった時…私の大事な妹、ティアラをその特殊能力で守ってください』
…………。
……お姉様は、とっても優しい。
二年前も、騎士団を襲った恐い恐い罪人にやり直す機会をあげた。そして、最後はその罪人に私を守ってと命じてくれた。
手を差し伸べたお姉様自身ではなく私を守ってと。きっと私が弱くて、とても不安だから優しくて強いお姉様は自分よりも私を優先してくれた。
「大切」と「愛してる」と言ってくれて嬉しかった。
だけど、お姉様を私だって守りたいのに何もできないことが悲しかった。お姉様が私達を大事にしてくれるように、私達にとってもお姉様は大事な人なのに。
騎士団奇襲事件の時だって。
騎士団演習場へ視察に行ったお姉様と兄様とは別に、私はお勉強の時間で。
その後の緊急事態で私だけ騎士団演習場に行けなくなった時も、部屋で待つことしかできなかった。……とても、とても怖かった。
何が起こったのかも聞いていなかったのに、騎士団と聞いた途端、胸騒ぎが酷かった。
いつも、私は待つばかり。二年前も今日も私は待つことしかできなかった。
私も強くなれたら、そしたら兄様みたいにお姉様と並べるのかしらとも考えた。だけど、……少なくとも今の弱い私には無理。
きっと危ないことをしたら余計にお姉様と兄様の負担を増やしてしまう。私にはお姉様みたいな強さも、兄様みたいな凄い特殊能力もないのだから。
……騎士団奇襲事件があった日も魘された。
どんな夢かは覚えていない。
だけど、目が覚めた後もずっと悲しくて辛かったことだけは覚えている。
そう思うと、今魘されてしまったのも何かの良くない前兆なのではないかと感じて怖くなってしまう。
……大丈夫。今までだって怖い夢を見た後に何もなかった日も、逆に嬉しいことがあった日もあるのだから。
夢なんて関係ない、関係ないと思いながらも心臓はとても正直だった。
バクバクバクと小さな心臓が大きく胸を叩いてとてもとても苦しかった。大丈夫、大丈夫、と今更になって凄く不安になってきてしまった。身体まで震えそうになり、既に指先が痺れるように温度をなくし始めた時
お姉様が、現れた。
「お姉様っ‼︎」
兄様の瞬間移動で戻ってきたお姉様の姿に私は声を上げて飛び込んだ。
私を受け止めてくれたお姉様と、何故か大人の姿をした兄様とアーサー。三人の姿とその表情に、きっと間に合ったんだわとすぐにわかった。
お姉様の腕の中からアーサーに手を振り、最後に私は大人の兄様を目だけで見上げた。
「兄様は…兄様なの⁇」
ロッテやマリーもジャックも警戒していたのに、大きくなった兄様が兄様だと、私には何故かすぐにわかった。
少し疲れ気味の兄様と、座り込んだまま兄様に声を掛けるアーサー。そして苦笑するように笑うお姉様に囲まれて、ジルベール宰相の話を聞く前からさっきまでの不安はどこかに消えてしまった。
ああ良かった、やっぱり私の杞憂だったんだわと嬉しくなって胸の内だけではしゃいでしまう。
怖い夢なんて、やっぱり何でもなかった。
夢はただの夢で、たとえ覚えていても現実になんてなるわけがない。だって
『マリア…マリア‼︎私だ、ジルベールだ、息を、息がっ…できないのか…⁉︎』
夢は、夢だもの。
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55幕
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「私はマリアもジルベール宰相も好き。……幸せになってくれて、すごくすごく嬉しい。」




