そして晴れる。
「他に、……何か悪しきことは。」
ジルベール宰相が抑える声で確認を取るように尋ねてくれる。
悪しき事、と。今度は意味もわかった上で私は眉を寄せて考え込む。他に……と小さく呟きながら記憶を辿る。色々疚しいことをされかかったけれど、大体は未遂で終わった。寧ろ私の方がアダムにえげつない事を色々していたと思う。舌切り落とそうとしたり捨て駒にしたり、……自爆したのも最後は私の指示だ。
そこまで思い出した途端、ぞくっと全身に寒気が襲った。彼は本当に私の指示通りに最期の最後まで従った。操られた時は何とも思わなかったけれど、一体何が彼をそうまで駆り立てたのか。
ティアラを抱き締めたまま思わず身体を震わすと、腕の中の彼女が心配そうに振り返ってくれた。私を見つめるジルベール宰相の表情が険しくなって、更には気のせいかステイルからだけでなくアーサー達しかいない筈の背後からも冷たい気配が流れ込んでくる。
まずい、また余計に心配をかけてしまうかもしれない。私は急ぎ、聞かれるまえに「ち、違います!」と声を上げる。
「未遂はあったけどちゃんと拒みました‼︎寧ろ私の方が刃物持ち出して!それに口付けも手首以外はー……、……?」
………………そういえば。
ふと、当時のことを思い出して少し考える。離れの塔にアダムが最初に忍び込んできた時のことだ。
あれは……と言葉が途中で止まってしまうと、また不穏な空気が背中を撫でてきた。
駄目だ今は黙秘するとすぐ有罪判決がされてしまう。「あ、いえ……」と声を漏らしながらもまだ頭が纏まらない。すると、ティアラが覗き込むように私へ身体ごと振り返ってきた。「どうかされたのですか?」と尋ねられ、疎らな思考のまま口を動かす。
「あの時……。……足、にもされかかって、それだけはとても不快で。…………何故……かしら……。」
お陰で拒めたのだけれど。と、言ってはみたものの、続きが出ない。
返事ができたお陰か怖い空気が薄れたけれど、当然ながら答えは出なかった。それどころか皆も考えてくれているのか沈黙が流れ出す。
手首への口付けに関しては本当に当時は全く何とも思わなかった。あったとしても汚いなくらいのものだ。なのにアダムが脚にしようとした途端、どちらの箇所も不快で嫌で。……まぁ、今だったら足どころか手首も絶対嫌なのだけれど。
でもあの時は本気で自分の身体なんてどうでも良かった。どうせ最低のラスボスとして死ぬと思ったし、自分の身体を省みる気なんて微塵もなかった。
長い沈黙に、顔を上げて見回せばやはり皆も同じように眉間に皺を寄せていた。当時の私を良く知っている二人は特に不思議だろう。特に私が自分の身体に刃を突き立てたのも目撃したステイルとジルベール宰相には……、…………!
「あ。」
……そうだ。
気が付いた瞬間、意図せず声が出た。
沈黙していた部屋に思い切り私の声が響き、全員の視線が刺さる。
どうかしましたか、と口々に尋ねられ、今度こそ自分の意思で私は口を閉じた。気が付いてしまうとなんだか凄く、もの凄く恥ずかしい。むうぅ……とティアラに抱き着いたまま顔を半分隠してしまう。
どうしよう、今更になって言わなければ良かったと後悔する。段々顔が熱くなってきて、口の中を多めに噛んだ。言わなきゃいけない雰囲気で、色んな意味でとてもとても言いづらい。
「……プライド。まさか、アダムによからぬ事を他に……?」
ステイルの言葉の直後、冷風が吹き込むようにまた寒くなる。
目だけを恐る恐る向ければ黒い覇気のようなものまで見える気がして、熱された頭が冷える。ぶんぶんと頭を激しく左右に振れば、今度はジルベール宰相が「何か思い出されましたか」と追撃してくる。
その途端、また顔が熱を帯び出して、半分以上顔をティアラに埋めてから観念して口を動かす。むぎゅぅぅううっ、とティアラの細い身体を抱き締める腕に力が入ってしまう。
「その、…………不快だった理由はわかり、ました……。」
逃げたい。
私の言葉に前のめりになるジルベール宰相とステイル、そして背後で息を飲むアーサーとエリック副隊長相手に、本気で逃げ場所を探してしまう。無意識に窓の外をちらりと見たけれど、どう考えてもこの面々相手に逃げ切れる気がしない。
寧ろ近衛兵のジャックと専属侍女のマリーやロッテがそっと窓際に移動した。完全に思考が読まれている。
せめて何とかふんわり察して貰う方法はないものかと考えながら私は言葉を選ぶ。
「ええと……、……皇太子が口付けしようとした箇所が、…………とても、大事なものだったので。」
お願い、察して。
切々とそう思いながら、ぽつりぽつりと口にする。この場にいる面々が面々で言い難いのが余計に恥ずかしい。直視するのも耐えられず、目を瞑って告げる。
それから目を恐る恐る開けば、最初にジルベール宰相が視界に入った。流石ジルベール宰相、早々に察したらしい。口を片手で覆い、背後に顔を逸らしている。
目だけを動かし、ステイルの方を見れば顔に力が思い切り入っていた。やはり勘付いてはくれている。
「プライド。…………その、口付けの不快だった箇所は具体的には。」
言えるでしょうか、と慎重に言葉を選んでくれるステイルにやはり殆ど察しているなと思う。
顔を上げ、苦笑いのまま彼に向ければもう私が返事をする前から確信の色に変わっていた。ティアラとアーサーはまだ気づいていないのか、反応が薄い。ティアラはまぁ片方は知らないから仕方がない。
「…………脛と、甲です。」
その言葉に、ステイルまでもが片手で額を鷲掴んばかりに覆って俯いてしまった。溜息の音がここまで聞こえる。
目の前のティアラが少しだけ首を捻るのと同時に背後からアーサーから「あ」の音が聞こえてきた。なんだか顔だけでなく足までむず痒いように恥ずかしくなって、交互に重ねてしまう。
顔を逸らしたジルベール宰相が、耐えきれないように肩を震わせていた。……確実に笑ってる。僅かにフフッ、と声まで漏れ聞こえてきた。
エリック副隊長やジャック達には悪いけれど、アーサー達はわかるだろう。彼らはその場に居合わせていたのだから。あの時にアダムに触れられかけた脛も甲も私は既に
口付けの誓いを、受けている。
そしてその一人が今、目の前にいる。
未だに笑いが止まらない様子のジルベール宰相の背中に、もういたたまれなくなる。穴があったら入りたい。今この場にもう一人がいない事だけが救いだ。
五年ほど前、ジルベール宰相から複数の誓いを受けた時、その内の一つが右足の脛だった。アダムが口付けしようとしたのと全く同じ足で。
その時にジルベール宰相から足の甲にも誓いを受けたけれど、そちらはアダムが口付けしようとした甲とは逆の足だ。……けど、そっちの足はそっちの足で三年ほど前にヴァルから誓いを受けていた。
何とも恥ずかしいことに、アダムの狂気を受けている間もそれだけは捨てきれなかった。自分の身も立場も全て捨てて利用していたつもりなのに、どうでも良いと思っていた筈なのに
誓いだけは穢せなかった。
ラスボス気取っておいて、自分なんてどうでも良いだとドヤ顔しておいて、本人であるジルベール宰相やヴァルにあんな酷い扱いをしておいて。……考えれば考えるほど、往生際悪いし恥ずかしい。けれど〝誓い〟とはそういうものだ。
顔が熱過ぎて背後を振り向く勇気も出ない。
「本っ……当に、プライドだったのですね……。」
顔がポクポクと沸騰する中で、今度はステイルの声が放たれる。
溜息と一緒に彼までくくくっ、と笑い声が混じり出す。その途端にジルベール宰相まで「っふ‼︎」と大きく背中を上下させてさっきよりはっきりと笑い出した。
もう呆れが一周回ってステイルもジルベール宰相も笑いが止まらないらしい。余計に凄く凄く恥ずかしい。背後にいるアーサーも笑っているのかなと思うと確認せずとも肩幅が狭くなる。
ティアラが小さくまた私の方を振り向いて、何か尋ねるよう私の脛をちょんちょんと突いた。ジルベール宰相からの誓いを知らない彼女からすれば、足の甲は納得でも脛は誰なのか謎なのだろう。
ティアラにだけ見えるように手のひらでこっそりジルベール宰相を示せば納得するように頷いた。……逆にジルベール宰相は足の甲の誓いを反対の足でヴァルにも受けたことは知らない。でも言ったら余計に大爆笑されそうだし黙っておこう。実際、偶然反対の足だっただけで、もし脛と同じ足の甲にアダムから誓いを受けそうになっても私は確実に拒んでいた。きっと爪先や頬、手の甲でも同じだった。
「…………それだけ大事だったんです……。」
もうそれしか言えない。
ティアラの後頭部に顔半分を埋め、くぐもった声で反論する。
あの時は不快だった理由を自覚できなかったけれど、今思えばティアラを攻撃できないことやヴァルが命令下から逃れられた理由に気付けなかったのと同じだ。頭が矛盾を消す為に気付くのを拒否していた。
顔が熱くて恥ずかしくてだんだん涙目になる。もういっそ何も知らないエリック副隊長に泣きつきたい。ティアラもくすくすと何やら機嫌良さそうに笑い出すし、味方がいない。
「大事だったのなら仕方がありませんねっ。」
鈴の音のような声でそう言われても、もう言葉がでない。
むぎゅぅぅ……と抱き締めたまま呻き声だけが漏れ出てしまう。
そのままじっと身を硬くしていると、ジルベール宰相が笑い過ぎて涙目になった顔で向き直ってくれた。「失礼致しました」と言われても全く申し訳ない感がない。むしろ私を見る目が初孫を見るかのように温かかった。更に畏まりましたと彼は言葉を続け、自分の目元を拭う。
「……プライド様の中で疑問も晴れたところで、他に何か問題は。」
ありません、とそう返せば、にこにことジルベール宰相がどこか嬉しそうな笑顔を浮かべてくる。
こっちは恥ずかしくて顔に火がつきそうなのに。アダムよりジルベール宰相達の方が大好きなのだから仕方ないじゃない‼︎
そう言いたいけれど、エリック副隊長達もいる中で容易に発言できない。むぐぐ、と顎に力を入れながら堪えればジルベール宰相はゆっくりとソファーから腰を上げた。
背中が丸まり前のめりになった顔が近付いた瞬間、小声で「光栄です」と囁かれた。背中を伸ばし切ったジルベール宰相に顔を上げれば、笑みのままに優雅な動作で頭を下げられた。にこやかな笑顔は馬鹿にしているようには見えないけれど、物凄く顔が熱くなる。
「私はこれで失礼致します。プライド様の御身に大きな傷はなく幸いでした。」
いやもう私はボッコボコなんだけれど。
王配殿下と陛下にもお伝えを、と言って去っていくジルベール宰相に何故かステイルまで機嫌良く返していた。私もティアラと一緒に挨拶をして見送ったけれど、一人だけ暫く気落ちから持ち上がらなかった。
その日一日、何となくヴァルとジルベール宰相への気まずさが拭えなかったくらいには。
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