そして届く。
レオンが目覚めてから、窓を開けたその部屋から夜風が吹き抜けていた。
消毒液と夜の匂いが鼻を掠め、清潔感のある白い部屋で彼は身体を起こしていた。
上半身のみを枕と背もたれに掛け、ベッドの上から窓の外を眺めていた彼が、今は開け放たれた扉に顔を向けていた。
その傍らの椅子にはセフェクとケメトもいる。二人もまた椅子に座ったまま、身体ごと扉の方に向け注視する。
救護棟の前にプライド達が瞬間移動した時から、騎士達の騒めきが僅かにレオンの部屋にも届いていた。更には騒ぎの中心が部屋の外から少しずつ自分達の部屋に近付いてくるのにレオン達は身を硬くし警戒の糸を張り詰めた。そして今、医者や護衛の騎士が室内を守る中、扉がとうとう開かれた。
彼らは、言葉が出ない。瞼を無くすほど開き、まさか来るとは思いもしなかった存在に目を疑った。
「主‼︎‼︎」と。数拍の後、最初にセフェクとケメトが声を合わせた。
茫然と言葉も出ない医者達やレオンより先に二人が動き、立ち上がる。最初こそプライドに警戒してしまった彼らだが、一目で騎士達から聞いた通りに彼女が正気だとわかった。
セフェク、ケメトと名を呼び、てっきりヴァルと共に居ると思っていた二人との予期せぬ再会に瞳を揺らすプライドは固まってしまう。絶対に元の関係には戻れないと思っていた二人が、自分へ恐怖を抱く表情を全くしていないのだから。
それどころか駆け寄ってくる二人にプライドの方が逆に一歩引き、惑い怯えるように表情を硬くした。「主、戻ったんですね」「ヴァルには会いましたか」と声を上げ、笑顔を向けてくれる二人が信じられない。自分は、それほど酷いことを子どもの彼らにしたのだから。
ヴァルの手で殺そうとし、彼らにとって大切なヴァルまで傷付けた。醜い姿も多く晒し、暴力を振るい、暴言も吐いた。二人に自分が何をしたのかも、そしてその時にどれほど二人が怯えていたのかも彼女は表情の機微まで鮮明に覚えている。なのに彼らは忘れたのかのように、明るい笑顔を向けてくれたのだから。
目の前で歩み寄ってくれる二人に足が震えてしまう。ガタガタと膝が笑い出すのに、顔は笑みを作れない。さっきまで騎士達に向けていた笑みが凍り、血の気が引く。
「姉君?」と心配したステイルが尋ねれば、返事をするより先にプライドはその場に膝を落としてしまった。
ぺたりと座り込み、膝に手を置いて握るプライドにセフェクとケメトが「主⁈」「怪我が痛いんですか⁈」と声を上げる。小さくなるプライドの肩に触れ、顔を覗き込む二人からはやはり全く怯えはない。心から心配するように眉を垂らす二人に、今度こそ涙が込み上げた。
「……ごめん、なさい……っ。……貴方達にも、酷い事を沢山してしまって……。」
本当は、レオンと語るまでは耐えておきたかった。
それでも、目の前にいる彼らへの罪悪感は耐えようがなかった。思い出せば思い出すほど、胸が苦しくなって息も詰まる。座り込み、既に皺だらけになっていたドレスが更にボロリと床に広がった。
すると、セフェクとケメトは落涙するプライドのドレスを踏まないように注意しながら二人でそっと片手ずつ彼女の手を取った。
「主は……、今は私達のことが好きですか……?」
あまりにと躊躇いなく手を取られ、狼狽えてしまうプライドにセフェクが言葉を掛ける。
上目で覗き、少しだけ不安げに眉を垂らすセフェクにプライドは間髪入れず「大好きよ」と涙声で返した。
ガラつき、笑いたくても笑えない。操られていたことが真実でも、自分が彼らに犯したこともまた事実なのだから。
プライドの言葉を聞き、すぐケメトが握る手の力を強めた。呼ばれたような感覚に、セフェクから彼へと顔を向ければ変わらず明るい笑顔がそこにあった。
「僕らも、主が大好きです。今の主のことが、ヴァルが大事な主のことが好きです。ヴァルが取り戻したかった主が戻ってきてくれれば僕らはそれで良いです。」
濁らせず、笑って言うケメトは最後にセフェクに「ですよね」と笑みだけで同意を求めた。
それにセフェクも大きく頷くと、茫然とするプライドを挟むように二人で一緒に抱き締めた。ぎゅっ、と一度力を込められた後に二人はそれ以上引き摺る様子もなくプライドからすんなりと離れてしまう。
綺麗事過ぎる、と。そう思われてもおかしくない程に優し過ぎるケメトの答えはプライドの沈み掛けた感情まで引き上げ、洗い流す。
まるでこれで話は終わったと言うように笑う彼らは、未だに信じられない様子のプライドを置いて視線を彼女の隣にいるステイルへと向ける。目がバチリと合い、ステイルが予想外の視線に目を丸くした。すると、次の瞬間二人は同時にステイルへと飛びついた。
「ステイル様‼︎ヴァルのところ!ヴァルのところに連れて行って下さい!」
「ステイル様‼︎また瞬間移動できますか⁈ヴァルの救護棟に」
まるで火がついたように声を上げる二人は、ステイルの腕に手を伸ばす。
途中、ステイルを正面から見上げたところで背後に控えるハリソンが目に入り短く悲鳴を上げた。だが、それでも目を逸らした二人は構わず声を上げ続けた。
ヴァルのところに、お願いします‼︎と騒ぐ二人に、ステイルも若干押されてしまう。今のところ、重傷者として運ばれたのは全救護棟でもレオンとヴァルのみ。本陣にいた際にヴァルが何処の救護棟に運ばれたかもステイルは報告を受けている。瞬間移動であれば、二人を安全にヴァルのいる救護棟にも移動できる。
「もう少し待て‼︎」とも言いたかったが、二人がヴァルに会いたいという気持ちは痛いほど理解もできた。何より、今までずっと操られたプライドに振り回されたにも関わらず助力してくれ、更には今目の前でプライドを許してくれた二人を無碍にもできない。確認するようにプライドへ目を向ければ、目元を指で拭う彼女も許可するように頷いた。
ステイルは部屋の隅にいる通信兵へヴァルの救護棟に二人を送って良いかの確認をさせた。映像をすぐに繋げた騎士から「医者は騒がなければ良いと」と言葉が返ってくれば二人は唇を同時に絞る。うんうんと無言で頷き、訴える二人にステイルは大きく息を吐いた。
「……わかった。その代わり、医者と騎士の指示には従ってくれ。」
はい!と絞っていた唇を開いた二人は、また大きく頷いた。
ステイルはケメトだけでなくセフェクのまだ子どもらしいその反応に小さく笑うと、軽くその手を差し出した。二人が同時に手を伸ばしステイルに触れた瞬間、二人は姿を消す。
一気に嵐が去って行ったことで、静けさが際立った。
窓からの夜風だけがぱたぱたとカーテンを揺らし、そして途中でびゅうぅっと部屋を吹き抜け彼女の深紅の髪を揺らした時
「…………プライド。」
風に乗り、小さな呟きが耳に届けられた。
あまりにも簡単に許してくれたセフェクとケメトに茫然とするプライドと同じように、彼もまた彼女のその姿に今の今まで言葉が出なかった。
静けさを取り戻したその部屋で、座り込んだままのプライドは顔を上げる。その途端、すぐに彼の翡翠色の瞳と目が合った。
「……レオン。」
もう一人、居る。
プライドが奪還戦で、最も酷く傷を負わせた王子がすぐそこに。
まだ潤みの残ったその瞳で、プライドはレオンを見つめる。ベッドから出ているだけでも、包帯が至るところに巻きつけられていた彼は限界まで丸く開いた目を一瞬もプライドから離さなかった。
……彼女が、居る。
それだけの事実に、レオンが全身の皮膚が粟立つのを感じた。
目を見開き、感情と表情が追いつかない。
深紅の髪と、紫色の瞳。透き通る肌と凛とした声。そして何よりもセフェクとケメトに涙を流し、心を痛めていた姿はどう見ても間違いなく自分が対峙した時の彼女ではなかった。
目が合ったプライドが、一度も逸らさず立ち上がる。「レオン」とまた自分の名を呼び、泣きそうな顔で駆け寄った。目の前で立ち止まり、窓から抜ける夜風が彼女の髪を赤く揺らす。
胸を両手で押さえ、握り、言葉に詰まらせたように唇を歪めた。言いたくて、だが何から言えばとまた惑う。
自分は、レオンを殺そうとした。
しかも、心臓を抉り出そうとまでしたことも覚えている。
レオンの身体にある傷は全てプライドから受けたものだけだった。
そしてプライドは覚えている。彼が自分と戦っている間、どれほどに訴えかけ続けてくれたのか。
更には隣国の王子。一生残るかもしれない傷を自分は身体にも心にも付けたかもしれない。〝ありがとう〟や〝ごめんなさい〟だけでは済まされない。アネモネ王国で自分が罰せられても当然だった。
会ったら伝えたい言葉も返したい言葉もあった筈なのに、レオンを前にしたら全てが逃げるように頭から消えてしまった。考え、考えて考えて、プライドは一度口の中を飲み込んだ後に選んだ言葉を必死に紡ぐ。
「申し訳ありませんでしたっ……‼︎」
最初に、謝罪する。
深々と腰を降り、王女としてあり得ないほどに頭を落とす。苦しそうなその声は、謝罪をする羞らいではなく〝謝って済むものではない〟と理解した苦痛に満ちていた。
いつもの言葉で語り掛けることすら無礼だと、自分自身が許さない。言葉を整え、ただひたすら〝立場が上〟の相手へ頭を下げ続け、数十秒経ってもまだプライドは上げようとしなかった。
未だ表情の変わらない、驚愕一色のままのレオンは答えない。指先一本動かないまま彼女を映すべく瞳だけが揺れ、動く。
「先程、特殊能力から……解放されました。何をしたかも全て覚えて、います。全て私の意思……でした。当然、隣国の第一王子である貴方に犯したことは、……っ、殺そうと‼︎……したことは、決して許されるべきでは」
「愛してる。」
抱き締める。
傷を負い、腕を上げるだけで痛む肩も構わず彼はその手を突然プライドへ伸ばした。
腰を深々と折り、頭を下げきっていた彼女は抱き寄せられたまま前のめりに倒れ込む。突然抱き寄せられたことよりも、倒れ込んだ拍子にレオンの傷に触れてしまうことを恐れた彼女はレオンの背凭れに手をついた。
まるで自分がレオンをベッドに追い詰めているような体勢で抱き締められたまま、プライドは靴の先だけが床に残った。
突然のこととあまりの体勢に医者も驚き騎士達も引き剥がそうとしたが、ステイルが一言でそれを止めた。 ……今だけは、それも許されて良いと思った。
レオンからの抱擁に驚くプライドは自分が何を言おうとしていたかも忘れてしまう。
傷に障るのではないか、動いて大丈夫なのか、無理はしないでとレオンの傷のことばかりが気に掛かる。「レオン……?」と囁くような声で呼び掛けると、レオンから嵐のような言葉が堰を切ったように放たれる。
「愛してる。……愛してる、愛してる、愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる……‼︎‼︎君をっ……、……本当に、本当に、心から‼︎‼︎………………愛してるからっ……。」
プライドの懐に顔を埋め、腕の力を強めながら喉を張るレオンの声は既に涙で潤みきっていた。
ひたすら激しく愛を訴え、プライドを両腕で抱き締めながら全身を震わせ泣く姿は誰の目から見ても愛の告白にしか見えない。彼女の背中に回した手の指に力がこもり、プライドのドレスにまた皺を作った。
嗚咽を零し、混じえた声で「愛してる」の言葉以外言えなくなる。滝のような涙を溢れさせ続けるレオンに、プライドはゆっくりと背凭れに付いた手を彼の背中へと回した。彼を受け取め、傷に触らないようにと触れる場所だけに気を払いながら自分からも彼に身を預け、受け返す。
「…………私も。」
彼女に想いを跳ね除けられなかったことを理解した途端、レオンの身体が強張った。
泣き、声を漏らし、息を引きながら彼女のその言葉の意味を頭の隅で考え、願う。
もし本当に、本当に今自分が抱き締めている相手がプライドならば。自分が心から愛し、求めた彼女なら。
どうかこの場で答えて欲しい、示して欲しい。
自分の愛を、彼女が本当に正しい意味で、確かに受け止めてくれたのか。
「……私も貴方を愛してる。盟友として、貴方を……心から。」
心臓が、歓喜で止まった。
涙を溢れさせ続けた目を見開き、何も見えない視界でレオンは息を飲む。
〝届いた〟と。
今度こそ、正しい形で。
他ならないプライドだからこそわかってくれる。プライドなら応えてくれる。そう願うように紡いだ言葉を、自分が願った通りの言葉で返されたレオンは嗚咽すら出ない。
〝届かなかった〟〝伝えられなかった〟
それこそがプライドに殺されかけたレオンの心に、最も深く抉り残された傷だった。
カチカチと歯を鳴り、食い縛る。
力を込めすぎて顎まで震え出す。言葉など形成できない。代わりに彼女を抱き締める力を込めれば、再び彼女から言葉が紡がれた。
「皆が、……私を愛してくれた。貴方が言った通り、本当に本当に愛してくれた。」
伝えたかった言葉を、彼女は一つひとつ受け取った。
意識を失う間際まで、彼が訴え続けてくれた言葉を掬い取る。
多くに愛されたプライドを、たった独りだと思い込ませたまま終えてしまったことをレオンは目を覚ました後も悔い続けていた。
「嘘だなんて言って、ごめんなさい。見捨てないでくれてありがとう。」
乾ききっていなかった生傷が癒される。身体の傷よりも遥かに深く、痛みを孕んだものが消えていく。
レオンを抱き締め返したまま、プライドは全身で彼を覆うようにして背を丸くした。
背中に回した腕をそっと滑らせ、彼の後頭部へと伸ばす。レオンとの戦いで、彼がどれほど言葉を尽くしてくれたか。それを考えただけでプライドの胸が握り潰されるかのように痛みを叫ぶ。
「本当は、……貴方の言葉が本心だとわかっていた。わかっていた上で、傷つける為に嘘だと言ったの。」
口にすればするほど最低だと、そう思いながらプライドは正直に告白する。嘘偽りない言葉しか、レオンに返したくはなかった。
やっと知れた真実にレオンの震えが増した。あの時の悲しみと、それ以上の安堵が波立った。食い縛った歯がギリリと音を立て、これ以上なく険しく歪めた顔でやっと声が出たと思えば遠吠えのような音だった。
『ああ、僕も愛しているよ。盟友として、君を心から』
正気に戻った今思い起こせば、叫び出したくなるほど救われる。
何度も〝愛〟を語り、自棄に溺れた自分の手を掴み上げようとしてくれた。
自分は愛されていると。皆が自分を助けようとしてくれているのだと。そう何度も何度も訴え続けてくれた。
自分に殺される間際すら、レオンは自分を恨まなかった。死を覚悟した最後の最後の寸前まで自分を愛してくれた。どれほどの優しさと深い愛情だろうと思い知る。
自分の胸で泣いてくれるレオンに、とうとうプライドからも滴が落ちた。雪融けのように静かに滴る涙が青い髪を伝い、吸い込まれていく。
もうこのまま枯れてしまっても良いと思うほど、込み上げた感情が滴を大粒へと変えていく。
レオンのサラリとした髪を愛しむように撫で、涙で溺れる自分の顔を沈めこむ。枯れた喉がまたヒクつき、プライドの肩を上下に震わした。声も出ず、泣き続けるレオンに目を瞑り、そしてやっと彼に一番伝えたかった言葉を思い出す。
一言でちゃんと彼に届かせたい。はっきりと、自分の言葉でこの声が涙で潰れ切ってしまうその前にと。
熱くなった喉で、大きく息を吸い上げる。それだけでまたヒクつき、顔がぐしゃりと歪んだ。頬には涙の跡が増え、ドレスの首から胸元は既に湿り切って広がっていた。
この一言。きっと、この一言を告げたらまた自分もレオンのように言葉が出なくなるだろうと確信しながら、プライドは吸い込み切った息と共に掠れた声を張り上げた。
「ありがとうっ……こんな私を、愛してくれてっ……‼︎」
命を懸けて届けたかった想いが、届いた。
その事実に、レオンは耐え切れず指の痕が残るほど力を込めてプライドを抱き締める。咽び、泣き、もう彼女に言葉など不要だと理解する。
言葉足らずになってしまった自分の想いを全て受け取ってくれた彼女は間違いなく、自分がこの世で最も愛した女性だった。
正気を取り戻した彼女は、変わることも褪せることも歪むこともなく清廉されたまま返ってきた。
その事実を受け止めきったレオンは安堵と歓喜に溺れた。
「大好きよっ……」
足もつかないほどの深い愛が小さな部屋を満たしきった。




