556.義弟は扉を開く。
「ステイル様。九番隊は出陣の準備が整ったとのことです。」
そうか、と俺はジルベールに言葉を返す。
母上達の本陣移動が終わると同時に、俺は騎士団と共に向かうべく一度自室で鎧に着替えていた。手枷の所為でつけられなかった部分以外、全て鎧を纏う。護衛の騎士の手を借りて着込んだ俺は、最後に黒の団服を肩に羽織った。
報告の為に扉を叩いてきたジルベールに入室を許せば、良い報告だったことに満足する。母上達も本陣で騎士団長と共に指揮へ入った。各箇所の騎士にも女王の名の下に必要な指示を出してくれている。これで一安心だと思い、俺は静かに息を吐く。すると深々と頭を下げたジルベールが、着替えを終えたばかりの俺に少し陰った眼差しを向けてきた。
「……私も御同行できれば良いのですが。」
「宰相が前線に出てどうする。……お前は本陣にいるべきだ。」
母上から許可を得た俺と違い、宰相であるジルベールは本陣にこのまま身を置く。……正直、安堵した。ジルベールの戦闘での実力があることは知っている。だが、コイツには俺やプライドよりも父上達の傍に居て欲しい方が強かった。
アーサーに治されたとはいえ、食事や水分などを満足に摂れていなかった父上達は体調が万全ではない。無理をさせない為にも、傍で手助けする存在は必要だ。そして、……。
ジルベールに俺から一歩ずつ歩み寄る。自ら背後の扉を俺の為に開き、頭を下げて見せるジルベールへ通り過ぎずに足を止める。切れ長な目を捉え続ければ、気が付いたように顔を上げた。薄水色の瞳と目が合う。
「ジルベール。……一つ、お前を見込んで〝相談〟がある。」
耳を貸せ、と続ければ一瞬猫のように目を開いたジルベールがそっと俺の口元へ耳を傾けた。
あくまで相談。この策が余計な可能性も、逆に綻びが生じる可能性も俺がよくわかっている。だからこそこれは、……悔しいが俺ではなくジルベールにこそ預けるべきだ。これから出陣する俺よりも、本陣で常に戦況を把握できるこのコイツだからこそ。
プライドを確実に救い出す為、持てる全てを尽くしたい。
予想通り、語り終えた俺にジルベールは若干疑うような、確認するような目を向けてきた。真っ直ぐその目を見つめ返し、応えるように頷いてみせる。
「……わかっている。だからこその〝相談〟だ。しかし、母上も言っていただろう。〝万全を期せ〟と。ならばこれも必要な策だ。すぐでなくて構わない、戦況に応じてくれ。お前が不要だと思えば、このままなかったことにしろ。」
「……貴方様の策に間違いがあったことなどありませんが。」
俺の言葉に、ここまで来て世辞を混ぜてくる。
僅かに笑んだ口元に少し腹が立ち、鼻息で返してから軽く手の甲でその肩を叩く。「承知致しました」と深々と頭を下げてくるジルベールの声は柔らかかった。
ジルベール、とその名を呼ぶ。俺の言葉に合わせるように今度はすぐ顔を上げたジルベールへ目が合う前に両肩を掴んでやる。指に力を込め、低めた声ではっきりと目の前の男へ言い聞かす。
「父上達を、頼む。〝お前だから〟頼んでいる。……わかるな?」
その途端。俺の言葉に、緩んだ口元を一瞬で結んだジルベールから驚愕以外の感情が消えた。
七年前にはこんな言葉をコイツに本気で言う事になるなど思いもしなかった。だが、間違いなくコイツしか頼れない。母上や父上、そしてヴェスト叔父様を支える為には、コイツしか。
ジルベールがいなければ俺自身、本陣を安心して出ることなどできなかったかもしれない。
「母上には準備が出来次第、出陣が許されている。俺はこのまま九番隊と拷問塔へ向かう。お前から母上達に報告を頼む。」
信頼に足るなど言葉で表明してやること自体が腹立たしいが仕方がない。躊躇うことすら今は惜しい。
一度ジルベールから視線を逸らし、襟を正す。拳だけ軽く彫刻のように固まったジルベールの胸に突き立ててやれば、ドンと硬く胸板に当たった。ジャラリと手枷の鎖と共にジルベールも僅かにフラついた。そのまま押しのけるようにしてジルベールの前から扉を抜け
……る、前に突き立てた手を掴まれる。
「…………?」
ぐい、と引っかかるようにつんのめり、振り返ればジルベールだ。
人前にも関わらずコイツが俺に手を出すなど珍しい。何だ、と言えば沈黙が返ってきた。だが、俺の手を掴む力は尋常ではない。鎧を着けていない部分だからか加減はされてるようだが、カタカタと掴まれた手が僅かに震わされた。振り払おうかと思ったが、それすら許さない強さだった。
顔に目を向ければ、胸に突き立てた俺の手を凝視するように俯かせたままで表情すらわからない。まさか今更になって危険だから行くなと言うつもりではないだろうなと睨んでみれば、その間にもジルベールは片手ではなく両手で俺の手を包むように握り出した。ジャラ、と今度はジルベールの手枷が音を放つ。
「…………必ず。ご期待に、応えて見せます。……ですから、どうか。………………どうかっ……」
ジルベールにしてはどこか辿々しい言い方だ。
やっと口を開いたその声に黙って聞いてみれば、今度は俺の手を掴む両手だけでなくその肩まで震わされた。チャラッチャララ、と鎖がまた小さく振動した。あれ程真っ直ぐに伸びていた背を老人のように丸くし、束ねていた髪を垂らす。そして低く、囁くような声で。
「っ……どうか、……あの御方を……、……プライド様、をっ……‼︎」
波立つ感情が乗った、懇願だった。
これ程に弱々しいジルベールも久しく見る。……寧ろ、今まで見せなかったことが不思議なほどか。俺がプライドから目を背けるしかなかった時も、コイツは一人でプライドに寄り添い続けてくれたのだから。
並べば背も殆ど変わらない筈のジルベールが、今は俺より酷く小さい。更に「どうか、皆様が、ご無事で」とぽつりぽつり落ちるように呟かれたそれは、……きっと俺やアーサーも含まれているのだろう。
言葉にはしないが、ジルベールも先ほどのフードの男がアーサーであることには気付いている。そしてアーサーもまた、拷問塔へ向かっていることも。
ここからはかなり距離がある拷問塔。恐らく、足で向かうアイツよりも俺達の方が速いだろう。高速移動する乗物と荷車に、透明の特殊能力者の力も借りるのだから。アーサーが追い付いた時、全てが始まっているか。……それとも、終わっているか。
「……わかっている。」
思ったよりも、小さな声になってしまった。
だが、目の前にいるジルベールには違えず届いた。やっと顔を上げたジルベールの顔は苦痛を受けてるかのように歪んでいた。眉を垂らし、目が苦々しく萎んで眉も寄せられ、口も僅かに食い縛られかけている。
コイツがプライドを、アーサーを、……俺達を。どれほど想ってくれているのかはわかっている。そして騎士達や民の身を案じてくれていることも、それでも今の父上達を支える為、本陣に残る選択を受け入れてくれたことも。…………今は、ちゃんとそれが本心だということも。
気がつけば、反対の手を回してジルベールを肩から抱き締めていた。
あれほど憎かった筈の、許せなかった筈の男の肩を。……顔を見るまでの勇気は出ず、交差するジルベールの肩から顔を出し、意味もなくその先に目を向ける。護衛の騎士と一瞬目が合い、すぐに視線を逸らす。
「お前に、報いる。…………お前が宰相でいてくれてよかった。」
声量を変えず、低めたまま囁く。
俺の手を未だ包んだまま、ジルベールは抱きしめ返してくることもなく硬直したままだった。震えていた肩まで今は酷く強張っている。
それでもまだ、顔を見てやるまではできない。顔ごと視線を扉の方向け、そっと手を離す。ジルベールも合わせるように俺の手を握る力を緩め、するりと降ろした。逸らした顔のまま俺は扉の方へ身体も向けて歩き出す。拳を握り、ジルベールへ一瞥もやることなく部屋を後にした。
ジルベールからは一言もなく、護衛の騎士達だけが後に付いてきた。廊下を早足で抜け、階段を降りてまた登り、回廊に入ってからやっとジルベールに握られていた片腕に目をやった。……僅かに水滴が残っている。
「……………。」
考えようとしたが、やめた。
今、俺がすべきことはそれではない。
回廊を抜け、とうとう重たい扉が俺へと開かれる。母上の命により集められた騎士達が、既に凄まじい覇気を漲らせて俺の存在に口を閉ざす。隠密に長けた九番隊、彼らと共に俺は塔へと向かう。
「行きましょう。」
全てを、全てへと。……必ず取り返すその為に。