465.貿易王子は伝える。
「姉君は、……あの奥に。」
切り替わった先は、……暗い……本当に真っ暗な部屋だった。
フリージア王国の離れの塔。僕も当時は遠目から案内されただけで、中に入ったことはなかった。
ステイル王子が蝋燭に火をつけた小さな明かりを僕に手渡してくれた。そのまま僕に気を遣ってか、壁際に添いながらそれ以上は彼女に近付こうとはしなかった。僕は彼に会釈を返し、一歩一歩彼女の眠るベッドへ近付く。
何不自由ない程度には広く作り込まれた部屋と、王族の部屋らしく装飾があしらわれた部屋。……でも、今彼女はその部屋内すら自由にできず、その奥にあるベッドに拘束されたままだ。ベッドの端まで近づけばやっと、彼女の顔が見えた。力なく眠るその顔は間違いなく僕の知る彼女と同じ寝顔だった。ベッドの中に首から下は隠された彼女は、それだけならば本当にいつもと変わらない姿だった。……きっと布を翻せば拘束された手足が隠れているのだろう。
「……やぁ、プライド。」
小さく、彼女を起こさないようにと声を掛ける。傍の台に灯を置き、近くにあった椅子を引き寄せ彼女の傍らに腰掛ける。
静かに眠る彼女は、……まるで死んだように動かなかった。僅かに息をする胸が上下し、整った顔立ちの彼女が人形ではなく本物なのだと証明する。
シーツに流れた深紅の髪が広がり、枕から零れていた。指で一束だけ摘み、引き寄せれば彼女の甘い香りがした。
「………逢いたかった。」
ずっと、君に。
このひと月、ずっと君のことを考えた。今、この瞬間にも目を輝かせたステイル王子がプライドの朗報を報せに来てくれないかと。……その瞬間ばかりを何度も何度も思い描いた。
今のプライドは、王座には相応しくない。それは僕にも理解できる。それでも、……やっぱり君が女王にならない未来が来るなんて今でも信じたくない。あんなに、あんなに女王になる為に一生懸命頑張っていた君が。……嗚呼、駄目だ。また、どうしようもなく込み上げる。
「っ……。」
視界がぼやけ、瞬きをすれば水滴が手を濡らした。
今この瞬間を、君との最期の目に焼き付けたいのに滲んだ視界でよく見えない。
もう、二度と会えないと思うと。
まるで悪夢だ。
これからもずっと、ずっと盟友として彼女に会えると思っていたのに。もう、僕が愛した彼女は遠い場所に行ってしまった。何の前触れもなく、突然に。プライドの家族には十年でも、僕には経った二年だ。あまりにも短過ぎる。でも、あまりにも多くを与えられた二年だった。
彼女に会えなかったら、……絶望しかなかった。
もし、プライドが今のような状態で出会っていたら、僕なんてきっと相手にもされなかっただろう。それどころか、いっそヴァルが受けたような扱いを僕が受けていたかもしれない。………いいや、そんな話だけじゃ済まない。
彼女が彼女でなければ、僕は間違いなく全てを失っていた。
この愛にも気付けず、愛しい国の民も父上の信頼も失って、弟達に陥れられて。本当に、知らない内に全てを失っていた。
僕の今の幸福は、全て彼女が与え、守ってくれたものだ。
今の僕は、こんなにも……こんなにも幸せなのに。何故、僕を幸せにしてくれた彼女がこんな目に合わないといけないのだろう。何故、たった十年の時間切れでこんなにも変わり果ててしまったのだろう。何が、僕らから彼女を奪ったのだろう。
考えれば考えるほど、涙が止まらない。
喉が痙攣を起こして渇き、目を押さえることもできず、深紅の髪を摘んだまま彼女から目が離せない。滲んだ視界に映る彼女のぼやけたシルエットだけを追い続ける。
「…っ…、……あり…ッ……と…っ、…ッライド………う…」
何か口にしようとすれば、先んじるのは感謝ばかりで。
本当に、本当に彼女という存在が、その心で、第一王女として、……僕の婚約者として現れてくれなかったらこんな幸福はなかったから。
プライド、アネモネは今も豊かだ。貿易も順調で、……民も皆が幸せそうだよ。
プライド、今日も僕は城下に降りたよ。民との時間は……とても幸せだった。
プライド、僕は公務も順調だ。このままなら即位も近いと父上が言ってくれた。
プライド、あんなに何もなかった筈の僕にも今は友人ができたよ。……それに、ステイル王子も頼ってくれて、カラムも本の話題に付き合ってくれる。ティアラも良い子だし、セドリック王子も国王二人も話してみればとても良い人だ。
全部が全部、君のお陰だ。
こんなにたくさんの幸福を得られるなんて、二年前までは想像すらできなかった。こんなにも幸福で、満ち足りていて……、……なのに、今は君が居ない。
このまま君にもっと触れたい、熱だけでも感じたい。君との思い出を、過去を……記憶だけに遺したくない。いっそ、今の彼女にでも良いから傷を残されたいと思ってしまうほどに。
その傷を、痕を見る度に彼女が僕の幻想ではなく本当にあった存在なのだと思えるから。
『姉君の王位継承権は、……剥奪されるだろう』
ふと、ステイル王子の言葉を思い出す。
プライドの、王位継承権剥奪。もし、本当にそうなれば彼女の婚約者は恐らく他国の王族。……形としては
僕との婚姻も、可能になる。
アネモネ王国とフリージア王国との再婚約。
婚約解消の取消。……形式としても悪くない。遠方の国ではなく隣国ではあるけれど、それくらいは説得すれば何とかできる。
僕らが互いの国の別の人間との婚姻なら波風も立つけれど再婚約ならば祝福される。ベッドに縛り付けられる彼女をアネモネ王国が引き取り、僕と同じ部屋で寝かせてあげれば良い。どうせ僕の国では政治も国王が取り仕切り、担うことが殆どだ。王妃は公式の場に姿を現わす程度しか公務もない。病で、身体を壊して療養しているということにしてずっと僕の部屋に置けば良い。
ずっとずっと僕の部屋という箱に閉じ込め、ベッドに縛りつけ、誰の目にも晒さず僕だけが今度こそ愛し、愛で続ける。人として病み、自身を見失ってしまった彼女にずっと寄り添い続け、僕にくれた幸福を僕の一生で返し、愛し続ける。
きっと、何も知らない人には美談にも映ってくれるだろう。彼女が王位継承権を失った後、僕が父上を通して正式に望めば決して不可能ではない未来だ。………だけど。
「……君は……っ……、……きっと望まないのだろうね……っ……。」
僕が愛した君なら、きっと。
掠れた声が、上擦り涙声になって零れた。一度摘んだ髪の束を離し、そっと頭から彼女の髪を撫でる。「僕もだ」と。同じ掠れた声で、言葉にもならず喉だけを震わせれば今度は肩が酷く震え出した。眠る彼女に涙が落ちないようにと、首を後ろへ反らす。
『…プライド。僕は、死ぬまでずっとアネモネ王国の人間だよ』
『ええ、レオン。私も死ぬまでずっとフリージア王国の人間よ』
最後の、ダンス。君は……そう言ってくれたから。
僕がアネモネ王国を愛したように、君もフリージア王国を愛している。僕の意思で君をフリージア王国から引き離すようなことはしたくない。
『レオン。…貴方と踊れて良かったわ』
……彼女は、知っていたのだろうか。
あの時の言葉が頭を過ぎり、思った途端に一度だけ涙が止まった。溢れた分だけがパタ、パタ、と落ち、いくつかは頬をなぞり、残りは膝を濡らした。
ダンスの終わり、彼女は僕に最後そう言ってくれた。僕と、と。その言葉が嬉しくて胸の高鳴りに誤魔化されて深くは気にならなかったけれど……〝あの言葉〟を貰えなかったと、確かに僕は少し不思議にも思った。
いつもは「またね」と次を約束してくれた彼女が、あの時だけはそれを言わなかったから。
まるで、もうこれが最後のように。もう、二度目がないことを知っていたかのように。……あの幸福なひと時が今回だけだと思ってるかのような口振りに。
〝予知能力者〟……もし、前触れとして何かを彼女が知っていたとしたら。もし具体的なものでなくとも抽象的にでも予知していたとしたら。……きっと彼女はできない約束は望まない。
自覚して奥に秘めていたか、無自覚か、予知能力に詳しくない僕にはわからない。ただ、もしあの時既にどこかで彼女も気付いていたのだとすれば、納得もいく。最期の最後まで幸せそうな笑みだけ残して、彼女との会話は終わってしまった。
「……さよならも言……せてくれないなんて。」
何度も指で彼女の愛しい髪を撫で、確かめる。
数本だけ顔にかかったままの長い髪をそっと掻き上げ、耳にかければうっすらと彼女の温かな体温を感じた。その途端、もっと触れたいという欲がまた溢れ出し、行動よりも先に涙に出た。
今度は指で拭い、押さえつける。そのまま、露わになったその小さな耳に僕は顔を近づけた。そして、抑えた声でそっと彼女へ囁きかける。
「……ぃ……してる…、………あ……てる、……愛……る……、……、あい……てるっ……ぁぃ…してる……っ。………君を、愛してるっ……っっ!」
何度も何度も衝動のままに彼女へ愛を説く。……別に聞こえなくて良い、届く必要はない。どうかこのまま明日まで眠ったままでいて欲しい。僕が来たことも、囁いたことも何も知らずにいて欲しい。
声を殺し、何度も囁き続け、最後は堪らず歯を食い縛る。
……もし彼女が、アネモネ王国以外の別の遠方の王子との婚約を進められてしまうなら。どうせ国を離れさせられるのであれば、やはり僕から婚姻をと望むべきだろうか。横入りであろうとも、元婚約者である僕の立場は優位だ。……いいや、だめだ。それではやはり、結果として僕が彼女を国から引き剥がすことになる。それになによりも僕自身が
彼女との婚姻など望んではいないのだから。
僕はただ、……愛していた。プライドを。
もし彼女を手に入れられればこれ以上なく幸せだろう。彼女の傍らを許され、彼女を独占できれば毎日愛しい日々が続くだろう。たとえ変わり果てた姿になろうとも、一生僕は在りし日の彼女の面影を愛し、彼女を生涯に渡って愛で続けられる自信はある。だけど、でも、……ッ僕は。
「違う……!……っ、……そんな、……を、望んではっ……ないんだ……‼︎」
噛み締める言葉が、溢れ出す。
喉を鳴らし、つっかえながら涙と共に零れてしまう。両手で顔を覆い、力が入り過ぎて前髪を巻き込み爪を立てる。嗚咽と共にしゃくりあげ、手を濡らすだけで止まらない。彼女の眠るベッドに顔を埋め、必死に僕は声を殺す。
……僕は、彼女を独占したいわけじゃない。
結ばれたいとも思わない。
ただ、幸せそうな彼女を愛し続けたかった。
いつか互いにパートナーができ、幸せを共有して、祝福し合いたかった。
彼女を手に入れ、縛り、僕だけが愛し……そんなことをしても何も僕は満たされない。僕は、人の中で笑う彼女を愛したかった。たくさんの愛に囲まれ、幸せそうに笑う彼女を愛で続けたかった。
この手に入らなくて良い、ただ彼女と彼女の幸福を愛していた。……だって、僕にはもう彼女が取り戻してくれた数えきれないほどの幸福が在るのだから。
アネモネ王国。僕の愛しい愛しい生きる国。
もう、本当に彼らに満たされて。この満たされ続ける日々が愛しくて。彼らの為に生きて死ぬことこそが僕の喜びで。
女性として愛した彼女を独占しなくても、……もう入りきらないくらい僕の心は愛で幸福で満ちている。
だからこそ、彼女も幸せでいてほしかった。彼女が愛した彼女の国で。
「っ……愛してる……っ」
掠れた、息だけの声でもう一度噛み締める。
触れられない。交わせない。残せない。…。それでもやはり僕のこの想いは本物だ。
もう枯れてしまいそうなほど涙が止まらなくて、喉が乾いて、口で空気を取り込むだけでつっかえた。えぐえぐと子どものような嗚咽の方が大きくて、口を押さえてベッドに埋めたまま目を瞑る。
もう耐えられず、肩を揺らすばかりで声が出ないままでいると、少しずつ背後から足音が近づいてきた。小さな抑える声で「レオン王子」とステイル王子に呼び掛けられる。僕は、口を抑えたままゆっくりと顔を上げる。
「……はい。」
もう、時間も経ってしまった。
気がつけば窓の外から雨の音が聞こえてきた。パラパラと窓を叩く音が段々と数が増え、強まっていく。痙攣する喉を必死に堪え、涙を指で順番に押さえつけながら、振り返らずに彼へと頷く。
……もう、何度も理解した。きっと二度と、僕の知るプライドは戻ってこないと。
そして今日この時で、もしかしたら永遠に彼女に逢える時はないかもしれない。
彼女と僕との形に残る証は、何もない。唯一だったお互いの訪問もこれから相手はプライドではなくなってしまうのだから。
これから十年……五十年経てば、あっという間に彼女は過去になる。愛しいアネモネ王国の民に囲まれ続ければ、たった二年の幸福なんて一瞬にしか思えなくなるかもしれない。記憶にしか残らない、それ以外では証なんて殆どない彼女との時間。きっとこの先は想い出す度に愛しさと共に棘がこの胸を突き刺すのだろう。
一生消えることのない、癒えない痛み。……ただ、それでも。
プライド、と。また小さく眠る彼女に囁き、最後にその顔を上から覗く。綺麗に整った、僕の愛した女性の顔。それをはっきり目に焼き付けた途端、また込み上げそうで。口の中を無理に飲み込んでそれを堪えた。そして
「……君に、……出逢えて良かった…。本当に、本当に良かった……。」
何度感謝をしてもしたりない。
彼女に逢えて良かったと。たとえこの先、彼女のことでどんなに痛みが走り、涙が止まらなくなっても絶対にこの想いだけは変わらない。
たとえ他の女性と一緒になり、その人を愛したとしても……この事実だけは消えず、不変のままだ。
そっと、もう一度だけ頭から彼女の髪を撫でる。柔らかなこの感触を指に残し、手を引いた。
ステイル王子に礼を伝え、その手を取る。泣き腫らした僕の顔を一度だけ辛そうに見つめてくれたステイル王子は、小さく頷くと「では、また」と短く挨拶をして頭を下げてくれた。
僕から笑みで返せば、次の瞬間には視界が切り替わった。また灯りの灯った明るい自分の部屋に、僕は居た。
潤んだままの目に暗い部屋からの光が少し堪えて力を入れて目を瞑る。何度も指で目を擦り、少しずつ目を開けていく。次第にはっきりしてきた視界に息を吐いたところで、……妙に雨音がうるさいことに気がついた。
視界が開け、何度か瞬きをしてから窓を見ると、閉めた筈のそれが開いていた。ザァザァと勢いよく雨がカーテンを濡らし、揺らして入り込み、部屋の床を大分濡らしていた。
部屋を見回してみると、ソファーにセフェクとケメトが眠っていた。彼らの為に備え付けておいた毛布が上に掛けられ、セフェクが殆どを独り占めして包まっている。泣き過ぎてぼんやりした頭で、僕の椅子に掛けていた膝掛けをケメトの上に掛け、それからもう一度部屋を見回す。
「……ヴァル……?」
呟くように呼んでみたけれど、部屋には彼がいない。
開けられた窓を見て、まさか出て行ったのかとも思ったけれど、彼が二人を置いて去るわけもない。それにステイル王子からも城から出ないようにと命じられていた。……なら。
考えている間にも雨が部屋に入り込み、カーテンを叩いて揺らす。僕は窓に歩み寄り、手を伸ばして鍵はかけずに窓をパタンとだけ閉じた。
カーテンだけを開き、彼がいつでも部屋に入ってこれるようにしてから僕は机の上を片付ける。
雨に濡れたティーカップを端に寄せ、机を拭いてから小さな明かりを窓から見えるように置いておく。ソファーの傍にタオル代わりになりそうな毛布を数枚掛けておけば平気だろう。そのまま僕は一人ベッドのある寝室へと向かった。
明かりを消し、何も考えないようにしながら身支度を済ませてベッドに潜り込む。
目を閉じればまた、……眠るプライドの姿が焼き付けたまま目に浮かんで込み上げた。
僕の愛した、愛しい愛しい……過去の人。
『ずっと、決めています。僕はこの先何があろうとも、彼女に何があろうとも。……互いの国に何があろうとも。僕は生涯─…』
〝盟友で、在り続けると〟
彼女が戻らなくても、逢えなくても僕は変わらない。
彼女が遺してくれた、愛しい全てを僕は愛し続ける。……永遠に。
出逢えて、良かった。
悲しみを覆い隠すように、僕は心の中で目に焼き付く彼女の寝顔へそう唱え続けた。




