438.貿易王子は祈る。
「おはようございます、レオン様。」
おはようございます、と僕を起こしに来た侍女へ言葉を返す。
僕が既に身支度を終えていることを少しだけ驚いたらしく、侍女達は目を開いた。最近はお早いですね、と言われ笑顔でそれに返す。…本当は〝早い〟のではなく、単に眠れないだけだった。
窓から差し込む朝日を浴びながら、外の景色に目を向ける。我が城で働いている愛しいアネモネ王国の民が目に入り、少し心が暖かくなり癒された。
彼らの姿を見るだけで、口元が自然に笑んだ。窓越しに彼らの姿をなぞり、その背中に笑い掛ける。
「本日は馬車の方は如何いたしましょうか。」
侍女の言葉に僕は首を横に振る。
連日、フリージア王国へ出かけていた僕だけれど、今日からは再び父上の公務の手伝いと…そして貿易も進めなければならない。残念だけれど今日は城下に降りるのも難しそうだ。
本当なら、今日も早朝からフリージア王国に行く予定だった。今日も、明日も、出来る限り毎日でも。だけど、……叶わなかった。
『大変申し訳ありません、レオン第一王子殿下。……やはり、これ以上プライドに会わせることは出来なくなりました。』
ヴェスト摂政がそう説明してくれたのは、朝一番に馬車でフリージア王国の城に訪れてすぐのことだった。
多忙の中、自ら足を運んでくれたヴェスト摂政は「内密な話」と言って、僕の馬車の中で話をしてくれた。
昨日の今日で申し訳ありません、と最初に謝ってくれたヴェスト摂政に酷く胸騒ぎを覚えた。
『…それは、プライドがまだ…昨日と変わらないからということでしょうか。』
僕の問いに目を伏せ、ヴェスト摂政は眉間の皺を深くした。
その表情だけで充分な返事になった。そうですか……と言葉を返し、あの時のプライドの姿を思い出せば上層部が見せたくないと思うのも当然だと思えた。プライドに会えないことは辛いけれど、上の決定ならば仕方ないと目を固く閉じて頷いた。「では、プライドがいつもの彼女に戻るまでは会えないということですね」と確認するように聞けば、……余計にヴェスト摂政の表情は険しくなった。
頷かれることもなく、口を噤む姿が引っかかって、その顔を見つめ続ければ「レオン第一王子殿下」と真っ直ぐに僕の目を正面から捉えられた。
『もしかすると、…もう貴方の知るプライドには会うことはないかもしれません。』
詳しい事は言えませんが。と告げられても言葉が衝撃的過ぎて、追求の言葉も出なかった。
表情が自分でも固まってしまったことがよくわかって、ヴェスト摂政の言葉をそのままに受け止め、飲み込んだ時。
…涙が、零れた。
『⁈レオン王子殿下っ…!』
本当にあまりにも唐突な涙で。いつも冷静でいるヴェスト摂政が目を丸くして狼狽えた。
まだ、何がどうしたのかもわからない。聞くべきことも、他にも尋ねられたこともあったかもしれないのに。それより先に、僕の知るプライドにはもう逢えないという言葉のままの事実がただひたすらに悲しかった。
プライドが倒れてからの三日間、ずっと目の奥まで来ていた感情が耐えられないように零れ出した。自分でも信じられなくて、頬に伝った涙が膝を濡らし出してからやっと身体が動いて急いで指で拭った。
すみません、と返した時にはもう既に少し喉が嗄れてて、自分が泣いたという事実がそのまま……ヴェスト摂政の言葉が現実なのだと突きつけられたようで。そう思ったら、再び涙が溢れ出した。
ハンカチで目を押さえつけ、もう一度ヴェスト摂政に謝った。そうすれば、ヴェスト摂政は僕が落ち着いたのを見てからゆっくりとまた少し話してくれた。
プライドが、昨日のまま変わらない可能性が出てきたこと。今の彼女ではとても来賓の相手をさせることは難しいということ。この先の互いの国の定期訪問では、暫くは僕からの訪問は難しいということ。そしてフリージア王国からの訪問ではプライドの代わりにティアラやステイル王子が行うことになると。重ね重ね謝りながら言ってくれたヴェスト摂政に頷き、聞き終えた時には涙もまた抑えられた。
『プライドは、…再び指導をすることになるでしょう。その時、あの子が再び女王に相応しい振る舞いを身につけたら…またお会いして頂ければ幸いです。』
まことに勝手な話ではありますが…と、苦々しく眉の間を狭めたヴェスト摂政に僕は「勿論です」と返した。
決まっている、彼女に会えるならば会いたい。許されるなら今すぐにでも。そして、……もう一度だけ彼に僕は確認する。
『ですが、…それは今までのプライドではないということなのですね。』
今度は一言で返事が返ってきた。
その途端、また涙が込み上げそうで今度は膝の上でハンカチを握って耐えた。笑みで答え、わかりましたと伝えればまた深々と頭を下げられた。
『ほとぼりが冷めたら、また我が城でも来賓を招くことができるようになるでしょう。ただ…レオン王子殿下は、もともとプライドと盟友関係であったからこその定期訪問と存じております。もし貴方がー……』
『変わりません。……変えるつもりはありません。』
ヴェスト摂政の言葉を敢えて僕は遮った。
彼の言いたいことはわかる。プライドとの盟友関係が難しくなったのならば同盟国とはいえ、僕が定期的にフリージア王国に訪れる必要はなくなる。僕が会いに来ているのはプライドなのだから。
もしフリージア王国が再び来賓を受け入れられるようになっても、きっとプライドには会えない。僕が訪問しても、話せる相手はステイル王子かティアラになるだろう。でも、両国間の関係を示す為にもフリージア王国との相互訪問は我が国にとっても大切なものだ。それに…
『ヴェスト摂政。……僕は』
僕から、語った。
全てとは言わずとも、僕にそこまでを語ってくれたヴェスト摂政にちゃんと僕からの誠意も、…決意も伝えておきたかった。
あの姿のプライドを見た時から。いや、そのずっとずっと前から決めていたことだ。
僕の言葉を一つひとつ、何も言わずにヴェスト摂政は受け止めてくれた。途中、少し優しげでそれ以上に懐かしむような悲しげな表情をしたけれど、それでも頷いて聞いてくれた。
わかりました、感謝致します。とそう返してくれたヴェスト摂政は僕の馬車を降りる時、最後にこう告げた。
『時間は、…掛かるでしょう。ですが必ず、いつか女王に相応しい人間にしてみせます。……今度こそ。』
扉を閉められ、城門を潜ることなく僕の馬車は自国のアネモネ王国へと引き返していった。
降りた後も僕の馬車を見送り続けてくれたヴェスト摂政の姿をカーテンの隙間から眺め続けた。……僕自身の視界が滲むまで、ずっと。
「…レオン様。御朝食の準備が整いました。」
ふと、侍女から言葉をかけられて顔を上げる。
気がつけばずっと窓の外を眺めたままだった。今行きます、と言葉を返しやっと視線を窓から外す。振り返れば、僕の愛する民がそこに居た。ずっと物思いに耽っていた僕を心配するように見つめてくれる彼女達に笑みを返した。その途端、少し緊張したかのように紅潮した頬で頭を下げてくれた。
…大丈夫。僕の愛は変わらない。
朝食を終えたら、書類から片付けよう。今日一日で今までの遅れを取り戻せば、明日にはきっとまた城下に降りられる。貿易の様子も見に行こう、新しい商品をそろそろ見積もらないと。
そこまで思った途端、一瞬また彼女の深紅の髪が脳裏に浮かんだ。記憶の中で振り返ってくれた眩しい笑顔に、酷く胸が締め付けられた。思わず歩きながら胸を掴むようにして押さえつける。
「……っ…プライド。」
…どうか、望むことだけは許して欲しい。
愛しい君に、叶わぬ願いをただ一つ。その願いと引き換えに今は立ち止まることなく歩んでみせるから。
本当の、君に逢いたいと。
……
「…案外、すんなりといくものね。」
朝の支度を済ませながらプライドは誰へでもなく一人呟いた。
彼女の身の回りを整えているのはいつもの専属侍女ではない。プライドと顔を合わせたことは何度もあるが、交流も殆どなかった侍女達だ。その中でも専属侍女のマリーのように熟練の侍女のみがプライドの世話を交代で行なっている。同じ侍女ではプライドからの嫌がらせも酷さを増すばかりの為、なるべく一定の者を回さないようにと配慮された。五年前のプライドが、専属侍女を自分に付けることを躊躇っていたように。
更には失敗をしやすい侍女では、あまりにも今のプライドの世話は危険過ぎた。
侍女達に全てを任せ、言葉も交わさずに佇みながらプライドは静かに昨夜の母親であるローザと父親であるアルバートの言葉を思い出す。
『…良いでしょう。貴方の言うその全ては〝一時的に停止〟します。ただし、貴方の要求だからではありません。……今の貴方には全てが〝相応しくないから〟です』
豹変した娘の姿を正面から見据え、ローザは言い放った。
既に現実を受け止めることも辛く、前夜に泣き続けた彼女はそれでも目の前の過ちを犯した娘へ気丈に振る舞った。「貴方が相応しくなったその時、全てを返還しましょう」とこれから先、今度こそ今のプライドを次期女王として育ててみせると覚悟のみをその胸に宿していた。
プライドにとっては、近衛騎士を含む全てが邪魔でしかない。彼らがいるだけで、自分は常に動きにくくなるのだから。更には自分の功績に成り得る学校制度も国際郵便も全てが余計なだけだ。極悪非道のラスボスが国に良い機関や制度を残しましたなんて、らしくもない。
いっそ自分の手から離れ、全てが終焉を迎えた後に生き残ったティアラと攻略対象者が再開させれば良いとも考えた。
『良いか、プライド。もしまた侍女や城の人間に危害を加えるようなことがあれば、お前は〝離れの塔〟に移すことになる。……その意味は、わかる筈だ』
アルバートの言葉を思い出し、プライドは軽く舌打ちをした。せっかく動きやすくなったというのに、あんな脅しで動きを奪われるとは思わなかった。
昨日の騒ぎで今日から部屋に軟禁が決まったプライドだが、彼女にとっては自室だろうが離れの塔だろうが外出自体は問題ではない。だが、よりによって〝離れの塔〟だけはプライドにとっても酷く屈辱的なものでもあった。
アルバートが告げた〝離れの塔〟こそ、ゲームでティアラが長年住んでいた場所なのだから。そこに自分が入れられるなどプライドにとっては屈辱でしかない。寧ろ自分の住処が女王が住む王宮ではなく、単なる宮殿であることすら不満なのだから。
…女王だったら、もっと色々好きなこともできたのに。
ふぅ、と思わず鼻息だけで溜息が出る。
王女という立場ではゲームのプライドのようにやりたい放題にできないことが多過ぎる。もし今、自分が女王の立場であれば……と、そこまで思えばゾクゾクと背中から興奮が走り、口元が勝手に緩んだ。それほどに、彼女の頭の中では今からにでもやりたい〝愉しいこと〟で溢れていた。
そしてそれができないことは酷く不満だった。その上、昨日のような〝小さな楽しみ〟も禁止されてしまえば余計に欲求不満が溜まってしまう。
侍女達から支度を終えたと挨拶を受け、プライドは再びソファーに腰掛けた。自分と目を合わせまいとビクビク怯える侍女を眺めるのは楽しいが、それに自分が実際手を出せないことは不快とも思えた。
仕方ない、どうせ今は今後の計画を考えなければならないのだからと。プライドは眉間に皺を寄せたまま背凭れに身を沈めて考えに耽る。
朝食を部屋に届けられるまで少しでも思考を進めようと目を閉じた。
これから、最悪の好機が訪れることも知らぬまま。
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