403.王弟は選ぶ。
「……兄貴、入るぞ。」
コンコン、と手の甲だけでノックする。
返事がない事を理解しながらも、…それでも望み、声を掛けてから兄貴の部屋へと足を踏み入れる。
カーテンの締め切られた、薄暗い部屋だ。
俺の訪問に、指示をせずとも部屋に居た侍女達や衛兵、従者達がいつものように無音で部屋を出て行った。言葉の交わしすらなくそして俺自身、誰とも目を合わせようとは思わない。
深々と去り際の彼らに頭を下げられながら、ベッドに横たわる兄貴にだけ視線を注ぐ。毎日四六時中兄貴の面倒を見てその身を守り続けてくれた彼らに、労いの言葉が無いわけではない。だが、同時に俺が不在の間、彼らが兄貴の命を握っているという事実が…酷く恐怖でもあった。
…誰が、また裏切るかわかったものではない。
ジャラッ、ジャランッと俺が一歩ベッドに近づく度に全身の装飾が音を鳴らす。
その音にすら兄貴の反応は薄く、ここ暫くは当初のように暴れることもなくなった。症状が落ち着いたのではない、……もう動く力すら残されていないだけだった。
枯れきった喉からは「ァ…カ……ァ…」と人声とも思えぬ音だけが漏れ聞こえ、呻きすら単語が聞き取れない。
乾いた眼球が開かれては不気味に震えている。手でそっと閉じさせても、呻く時にはまた開かれてしまう。ベッドの中に覆われた身体も今では酷く衰えてしまった。締め切られたカーテンから漏れた外の光だけが薄く部屋を照らす。
「兄貴、金の発掘は順調だ。…今月も無事フリージアに提供できるだろう。」
兄貴が倒れ、フリージアへの金の提供が決まってから摂政と宰相であるファーガスとダリオが急ぎ体制を整えた。
無償での提供の上、王族の馬車でも十日は掛かるフリージア王国へ毎月大量の金を運ぶ。それだけで我が国の衰退を激しくさせた。金が底を尽きる恐れこそ未だないものの、それを採掘し、加工し、運ぶのは全て我が国の民だ。負担の無い訳がない。
その仕組みすら理解できなかった時は、初めこそファーガスとダリオがフリージアに加担しているのではないかとも疑った。
急ぎ産業と貿易関連について十人の教師に講義をさせて知識を得たが、…今のところ問題はない。だが、全て理解してからは俺自ら舵を握るようになった。いつ、誰がまた金脈を望み、それを横領するかわかったものではない。
我が国の安全保障の為にも金脈だけは質も数も落とすわけにはいかない。俺が一人で掌握した方が安心できる。その為に必要な知識も今は全て頭にあった。
「…兄貴。兄さんは……。…旧チャイネンシスは、……また、奴隷を搬出したらしい。」
ラジヤ帝国の支配下になってからすぐ、チャイネンシス王国は他の属州と同じく奴隷を定期的に搬出し始めていた。
今は未だ国内の罪人で賄っているとも聞くが…そろそろそれも尽きる頃だろう。もともと信仰が深かった心優しい民の多い国だ。
以前は俺もよく兄貴と共に訪れていたが、誰もが俺の名を呼び、温かく迎え入れ、時には手製の料理なども食べさせてくれた。兄さんの友人である兄貴のことも、次期サーシスの国王として敬ってくれた。そんな彼らは今
我が国を、これ以上なく怨んでいる。
チャイネンシス王国を裏切り、陥れ、ラジヤ帝国に売り渡した。
大国であるフリージア王国にまで密約を交わし、己が国の可愛さに民に愛されしヨアン国王までをも欺いたと。
俺一人だけならまだしも兄貴や我が民までもが憎まれ、罪人のように呪詛を吐かれた。更には瞬く間の内に国境には互いを断ずる為の高い壁が築かれた。旧チャイネンシスから、…兄さんからの意思表示に他ならなかった。
サーシス王国を、俺を許さないと。
そして我が民は、…俺や兄貴がそのようなことをする訳がないと。フリージア王国に俺と兄貴が騙され、脅されているのだと信じた。そして、旧チャイネンシスは国としての全てを奪われた途端、手のひらを返しサーシス王国に矛を向ける非国民だと我が民もまた、彼らを軽蔑した。
以前のように上層部だけではない、民全体が互いを疎んでいる。…わかっている。全てではない…!未だ互いを想い合い、それでも国壁に阻まれ会うことも叶わず互いの無事のみを願っている民も双方にいるということも…‼︎
「っ…俺、はッ…‼︎」
歯を食い縛り、堪える。
膝の上の拳を握り、睨むように俯いた。呼び掛けても兄貴は答えない。渇いた喉で息を吸い、呻くしか今の兄貴にできはしない。問うまでもない。全ては俺のせいだ、俺の愚かさ故に…
『忌子』
「っ……‼︎‼︎」
兄さんの、…あの言葉と顔が突如として鮮明に浮かび上がる。それだけで全身が震え上がり、……涙が、溢れる。
手で拭い、必死に他の思考へと切り替えるが、込み上げてしまった感情は喉の奥まで突っかかり、それを自覚した途端にどうしようもなく喉を掻き毟った。
兄さんまでもが俺を、憎んだ。
ならば、俺の容姿のみに惹きつけられていた民もいつかは俺のことを恨むだろう。いや、むしろ心の底では既に恨まれているのかもしれない。…………だが、それでも。
「…兄貴、俺はまた暫く城を空ける。大国の王女と婚約だ。兄貴の先を越すのは悪いが、まぁ気にすることはない。所詮はー……、…。」
気を取り直すように声を明るくしてみたが、途中で詰まり、続きが出なかった。
笑みを作ってみてもすぐ固まり、引き上げた口元が痙攣して痛みを発した。
〝所詮は〟…その言葉の続きは酷く残酷で、王族としてどころか人としても穢らわしいものだと、一年前の愚かな俺でもわかったことだ。
兄貴が伏してから縋るように吸収し続けた国中の書の知識。知れば知るほどに己の愚かさと無知さを知り、自己嫌悪に押し潰されそうになる。
唇を噛み締め、頭の重さのままに俯く。
濡れた顔を手のひらで拭い、ひりつく喉をなぞった。座ったまま湿った手を重い膝に垂らし、拳を握る。喉を鳴らし、首を一人強く振る。
……今更何を躊躇う必要がある?
俺の手は既に血塗れだ。サーシス、チャイネンシスの罪無き民の血に浸りきっている。
それにたった一人が加わるだけ。そうすれば多くの民が救われる。
「喜べ兄貴。…あと、少しだ。」
自分でも驚く程か細い声が出た。
勝手に溢れる涙を止めることを諦め、兄貴へと顔を上げる。…もう骨と皮だけに成り果ててしまった、俺の兄貴に。
「また暫くは会えなくなるが…どうか、無事でいてくれ。」
誰が兄貴の命を狙うかわからない。
誰が俺達の王政に異議を唱えるかわからない。いつ旧チャイネンシスの民が我が国に侵攻してくるかわからない。誰もかれもが信用できない。だからこそ
「一度、一ヶ月以内には帰る。その後もまた出ることにはなるが、…なるべく早く済ます。」
約束を交わすように、痩せ細ったその手を握る。
枯れ枝のようにガリガリの手は、以前の俺を制した力強さの名残も無い。力なく、ただ垂らすだけの兄貴の手を両手で握り、力を込める。
そして、握り返されることのないその手に……祈りを、込める。
「だから早く…っ。…ッ目を、覚ましてくれっ……。」
両手で握ったその手を額に当てる。反応どころか、血色も悪く別物にも見えてしまうほどに衰えたその手に。
兄貴から、返事はない。呻きも浅く、俺の言葉など届いていないことはわかってる。それでも
どうしようもなく、縋ってしまう。
「チャイネンシス王国が解放されれば…兄さんが兄貴に会いにくるかもしれんぞ…?その時にっ…そのような姿を、あの人に見せるのか…⁈」
俺は憎まれたままで構わない。それ程の過ちを犯したのだから。俺の愚かさ故に兄さんの大事なものを全て奪ったのだから。
だが、兄貴のこのような姿をあの人には見せたくない。これ以上、……兄さんを傷付けたくはないっ…‼︎
「兄貴、俺の手はっ…もう、血塗れなんだ…‼︎このような人間に王の座など相応しくない!兄貴、この国にはランス国王が必要なんだ…‼︎」
力をこれ以上込めたらそれだけで折れてしまいそうな兄貴の腕に、縋る。
俯き、吐露し、…それでも胸の泥水は治らない。とぐろを巻いては濁り続け、…どうにかなってしまいそうになる。
「必ず俺はッ…チャイネンシスを、ハナズオを取り戻す…‼︎そうすれば俺など要らん‼︎兄貴が居れば良い!民も喜び、繋がりっ…、…っ。」
目を閉じれば満ち足りたあの頃を思い出す。
民が笑い、兄貴と兄さんが居た。…それを、全て俺が壊した。
「兄貴…っ、俺は、これからまた…罪を、犯す…!だからっ…早く目を覚まし、あの玉座に座り、兄さんに会い、…っ…………ッ俺を…罰してくれ…‼︎」
もう俺は、貴方の弟とは名乗れない。
どうか歴史からも抹消すべき忌子として葬ってくれ。
正当なる王として、この俺をハナズオの民の前で裁いてくれ。
「もうっ…俺はッ信じられない…‼︎兄さんも!民も!ダリオもファーガスも世界中の何もかも‼︎‼︎兄貴以外の全てが信用できない…‼︎皆が裏切る…!皆が‼︎……ッ…俺を、……憎むッ………‼︎」
…誰も、信じられない。
腹の底では俺を憎み、恨んでいるとしか思えない。
全ての人間が俺の隙を窺い、騙し、また大事なものを奪い取ろうと画策しているように見えて仕方がない。兄貴以外、その全てが信じられない。
………それでも、守りたい。
兄貴が、兄さんが愛した民と国を守りたい。…そして、救いたい。
知っている。矛盾した俺のエゴだ。俺のような人間が民を支えたいなど驕り以外の何物でもない。
第二王女を恋に落とし、そして俺の手で殺すこと。
それが、女王が俺に出した条件だ。そうすればサーシス王国をフリージアの属州にせず、チャイネンシス王国をラジヤの手から解放させると。……また罠だとも思う。ただそれでも、今はそれに縋るしかない。あのような化け物国に我が国が敵う筈などないのだから。
その、為には…。
「俺が…上手く、やれば…。」
己が拳を見つめ、握り直す。嵌められた指輪が強く指に食い込み激しく震え出す。
この手を穢せば、兄貴と兄さんの大事なものが返ってくる。
…簡単で、単純な話だ。
大国の第二王女。…あの女王と血を分けた妹でもある姫君。
ティアラ・ロイヤル・アイビー。
会ったことも無い、名前しか知らぬその女性は…きっと非力なのだろう。何も知らずに十六の誕生日を迎え、婚約者としての俺と会い、…そして殺される。
あの女王の妹と思えば、少しは躊躇いも薄れるかと思ったが…やはり、駄目だった。
姉がどれほどの悪魔であろうとも、その姉妹までもがとは限らない。俺のような人間の兄弟が、兄貴であってくれたように。
「……ではな、兄貴。…行ってくる。」
枯れ木の腕から力を緩める。
そっと顔を離し、冷えぬようにとベッドに戻す。傍らの椅子から立ち上がり、挨拶代わりにあの頭に手を置く。薄暗くなった顔色に金色の髪だけが酷く映えていた。背後に流していた髪も、今は左右に垂れるだけだ。以前は俺の頭に手を置いてくれていた兄貴に、今は俺がこうして縋るように手を置く姿は他者から見ればさぞ滑稽だろう。
力無く眠り魘され続ける兄貴は、そろそろ限界かもしれないと医者が話していた。俺が戻った時、生きているかもわからない。たとえ裏切りに遭わずとも兄貴の生命線自体が途絶える可能性もある。本来ならば、片時も離れたくはない。……だが。
「…兄貴の愛した国を護るには、これしかないのだから。」
自嘲じみてそう呟けば、無理に作った笑みが歪んだ。
独り言のように呟いた言葉を残し、兄貴の頭から手を離す。数歩、兄貴の顔を見つめたまま下がり、それから背中を向ける。
扉に向かい、一歩一歩進んでいく。馬車はもう待たせている。十一日後のティアラ王女の誕生祭、万が一にも遅れる訳にはいかない。早めに向かい、女王への謁見も済ませねば
「………セ……リッ…っ。」
「…?」
声が聞こえた…気がした。
兄貴の声に聞こえたが、立ち止まり振り返ってみてもベッドの兄貴は瞼を重く閉じたままで口からもやはり変わらず枯れた呻きだけだった。……気の所為だ。
兄貴は既に言葉など発せなくなったというのに。今更、俺の名を呼ぶなどある筈がない。
……引き止めて、欲しかったのだろうか。
この俺自身が、兄貴に。
馬鹿なことをするな、罪なき者の命を王族が奪うなど、また騙されるのか、他に方法があるだろうと。
「まだ、…俺はあいも変わらず愚かだな。」
方法など、一つしかないというのに。
そう思い、今度こそ俺は振り返らずに部屋を出た。部屋の前で待っていた侍女達に後を任し、馬車へと向かう。
パタン。と、兄貴の部屋の扉が閉じられた音をこの耳で、確かめながら。
……
「ッ兄貴!入るぞ‼︎」
衛兵に扉を開けさせ、俺は兄貴の部屋へと足を踏み入れる。
まだカーテンも締め切られた部屋は僅かに薄暗い。侍女達に断りをいれ、俺は真っ直ぐに兄貴のベッドへと足を運んだ。
ベッドの中で身を埋める兄貴はまだ眠っていた。一度寝れば眠りの深い兄貴は、俺の声にも慣れている所為で全く起きる気配がない。仰向けのまま、身動き一つせず眠っている。生きているか死んでいるかもわからん熟睡中の兄貴を置き、俺は勢いよくカーテンを開けた。
まだ大して陽が昇りきってはいないが、それでも朝陽を浴びた兄貴は「ぐぁあ…!」と焼けるように呻いた。藻搔くように太い腕で額から目を覆い、陽の光を防いでいる。
「今日はフリージア王国に向かう前に仕事を片付けると話していただろう⁈今からやらねばアネモネの船には間に合わんぞ!」
俺も手伝う!と声を張れば、兄貴は呻きながらも「そうだったな…」と呟いた。腕から今度は指先で目頭を押さえ、溜息をつくように大きく息を吐く。
「セドリック……もう、身仕度を済ませたのか…。一体何時に起きた…?」
呻きながら問いかける兄貴に答えると、俺に短く返して起き上がった。
ベッドから身を起こし、その場で大きく伸びをする。俺は侍女達に兄貴の身支度を任せ、兄貴の机の前に腰掛ける。既に積まれていたやりかけの仕事書類を手に取り、眺めながら兄貴に続けた。
「今朝は変に目が覚めてしまってな。折角だからそのまま起床した。」
夢見でも悪かったのか、妙に目覚めは悪かった。
どうせ今日のことで気が急いてしまい、眠りが浅かったのだろう。陽も昇っていなかったが、身支度を一人で済ませている内には良い時間にもなった。
兄貴に「また机に突っ伏していたのではあるまいな」と聞かれたが否定する。こんな大事な日に寝坊するような真似をする訳がない。
また一枚、一枚と書類を捲りながら目を通す。金の産出に於ける輸出制限についてだ。やはり我が国は金も宝石も輸出量を減らして価値を上げる方向でいくらしい。それが良い。有り余っているからとはいえ、ばら撒けばすぐに足元を見られる。フリージア王国にすら極少量しか提供していないのに、他国にそれ以上を輸出しては意味もない。
「…兄貴!これを片付けるのに必要な資料はここにある物だけか?」
兄貴の机の横に置かれた本と書類を目で指して問えば「今日の分はな」と返ってきた。
摂政のファーガスがまとめ上げた各取引国の情報と取引条件だ。一部既に先行して交易を始めた国も含めて資料の方は百枚程度しかないが、本の方はどれもなかなか分厚かった。早速書類を机に置き、先ずは読むのに時間が掛かりそうな本から先に手に取る。…が。
「……?」
俺は一頁目以降からは適当にバラバラ捲り、他の頁もいくつか確認してから表紙を見る。……やはりだ。
他の本も先に表紙を見れば、全て見覚えのあるものだった。少しうんざりとした記憶が過ったが、諦めて今度は書類の方に目を通す。
「…兄貴。本の方は全て読んだことがある。知りたいことがあれば俺に聞いてくれ。」
机に肘をつき、手を頭に付いて言えば少し低い声になってしまった。
兄貴も気付いたのか、俺へ「どうした」と投げかけてくる。資料の方を目で眺めながら、俺は言葉を返す。
「約十四年前に読んだ。…役に立つのは嬉しいが、実に腹立たしい。」
間違っても奴らに感謝などはしないが、無駄な知識ばかりでなかったことに安堵した俺もいる。
どうせバートランドのことだ、単純に分厚い本ばかりを俺に暗記させたかったのだろう。
察したらしい兄貴が「そう言えるようになっただけ成長だ」と笑い交じりに返した。…確かに以前の俺ならば苦々しく思うだけで、口を噤んだだろうが。
俺は今度こそ資料を急ぎ読み込みながら、また捲る。こちらの方が比較的新しい各国の情報らしい。途中でアネモネ王国の名も出たが、可能な輸入品目が恐ろしいほど抜き出ていた。リストだけで二枚分にも及んでいる。
「本当にアネモネ王国は素晴らしいな。この二年程の間で輸出も輸入も取引可能量を引き上げたなど。これからは輸入だけでなく、アネモネにも金や宝石を輸出するのだろう?」
「ああ。宝石の方はまだチャイネンシスの事情もあり直接は難しいが、サーシスを経由した分はアネモネに輸出しても良いとヨアンからも許可を得た。」
奴隷制を宗教上も良しとしないチャイネンシスでは、まだアネモネと直接の取引はできない。
だが、アネモネ王国には防衛戦での感謝もある。その為、我がサーシスがチャイネンシスから買い取った宝石であれば売るのも問題ないと兄さんが仕組みを考えてくれた。
兄貴が「もう暫し経てば、アネモネ王国も奴隷制が完全撤廃される」と続け、俺もそれに返した。そうすればきっとチャイネンシスもアネモネも互いにより良い利益で取引することができるだろう。
「チャイネンシスの民もヨアン自身もレオン王子を悪く思っていない。今日のアネモネの便に俺達と共に同乗を決めたのもその証拠だろう。」
そう言うと兄貴は少し安堵するように目を閉じて笑った。
今日、ちょうどアネモネ王国から貿易船が来る。俺達との取引を終えた後はアネモネ王国へ帰る予定のその船に、良かったら共に同乗しないかとレオン王子自らが提案してくれた。
ハナズオ連合王国からフリージア王国まで王族の馬車でも十日。だが、船ならばフリージア王国の隣国であるアネモネ王国まで最短で五日で着く!これほどに有り難い話はない。それに何より
「ならば、レオン王子との船旅も楽しみだな。船に乗るなど初めての体験だ。」
今まで閉ざされた国だった我が国では、港があっても自ら船出することなど漁以外ではなかった。俺も、兄貴も兄さんも船で移動などしたことはない。
浮き上がる俺の言葉に、兄貴も「そうだな」とまんざらでもない声色で返してきた。
兄貴も昔読んだ書物で船旅にも憧れがあると以前話していた。そう思えば余計に気持ちが跳ね上がる。
「レオン王子自ら舵をとると聞いたが、俺も是非手解きを受けたいものだ。」
「それはお前から願い出ろ。決して無礼のないようにな。」
無論だ、と返しながら俺は更に書類を捲る。
船旅…過去に読んだ文献にも時々描写や記載されたものもあったが、全て過去の文字。やはり実体験に勝るものなどない。確か〝船酔い〟というものもあったが、兄貴と兄さんは大丈夫だろうか。……まぁ、どうせ馬車と似たようなものだと考えれば問題ない。
「最短で着けばティアラの誕生祭の六日前にはフリージア王国に着けるかもしれんのだろう?ならばプライド達ともじっくり話ができる。」
レオン王子はアネモネ王国での停泊も許してくれたが、兄さんの体裁もあり申し訳ないが丁重に断った。
フリージア王国からも到着次第五日から六日程の王居停泊許可も得た。遠方ということもあるが、同時に国際郵便機関の設立に関しても打合せが行われるらしい。
「言っておくが、最長六日間だとしてもティアラ王女と常に話せるとは限らんぞ。」
兄貴の言葉に思わず顔を上げる。
見れば、少し意地の悪い笑みを俺に向けてきていた。俺が鼻の穴を膨らませて「わかっている!」と返せば、ハハハッと軽快な笑いが返ってきた。
前回の訪問時、ティアラに今度こそ婚約者候補としての了承を得ることができた。……俺との婚約自体は泣く程に嫌がっていたが。
だが、これで彼女はフリージア王国に居続けることができる。彼女の憂いの片鱗を少しでも晴らせたのならばそれで良い。残すは彼女が本当に愛するのが誰かということ、まさかステイル王子やレオン王子の他に好意を寄せる相手がいるのか。それとも、最初から好きな相手など
「誕生祭でティアラ王女も色々と忙しく、きっと落ち着かないだろう。あまりしつこくはするな。プライド王女、それにステイル王子からも会えるのを楽しみにしていると書状にもあっただろう。」
……プライド。その名に俺は思わず息を飲む。
俺にとって神の如き存在である彼女にもまた、フリージア王国に居れば会えるのだと。そう思うと今から緊張もするが、それ以上に嬉しい。防衛戦後も彼女には世話になってばかりだった。…本当に、一生かけても返せぬほどの大恩だ。
彼女の恩恵と慈悲を受けてばかりだった俺だが、郵便統括役になればやっと少しは彼女にも貢献し、恩を返すことができるだろうかとも思う。
彼女が居なければ、今のこの幸福は一欠片すら俺は持ち得なかっただろう。もし、………当時の俺の愚策と愚行で彼女に見放されていたらと考えると身慄いするほど恐ろしい。
そこまで考えれば、当時の愚行がまた鮮明に頭に蘇り、顔が熱くなる。胸元を引っ張り、熱を吐き出すように深く深呼吸するが、引き摺られるようにプライドへの愚行が次々と頭を過ぎり、また死にそうになる。耐え切れず一度書類から目を離して頭を抱えると兄貴から「またか」と呆れたように一言投げられた。
『失礼。あまりに美しい髪でしたので、つい』『この三日間が、とても良いものになりそうだ』『大ッッッッ嫌い‼︎‼︎‼︎』『ッお前に…何がわかる⁈』
ぐおおぉぉぉぁあぁぁぁ……と、鮮明に場面を悉く思い出せば堪らず呻く。
最近はプライドやステイル王子達を前にしても平静を保てるようになったが、それでも思い出せば額を打ち付けたくなる。顔から湯気が出て悶絶していると、着替えを終えた兄貴が近付いてきて俯き唸る俺の頭を軽く叩いた。
「落ち着けセドリック。郵便統括役となったら、その癖は重々気をつけろ。」
「っ、…わかっている。」
ちゃんと今も兄貴や兄さん達の前以外では抑えることもできている。…顔の火照り程度は仕方ない。俺にとっては過去の愚行を日記と共にその姿絵まで見せつけられる拷問の方がよっぽどマシなぐらいだ。
兄貴に叩かれた頭を押さえながら言葉を返せば、今度は俺の手に重ねるように頭へ手を置かれた。
「さぁ、仕事だ。フリージア王国に移住する迄は私達の仕事も遠慮なく手伝ってもらうぞ、セドリック。」
気を改めるような兄貴の快活な声に顔を上げれば、眩しいほどの強い笑みを向けられていた。「ああ‼︎」と俺からも強く声を張り、笑みと共に応えれば頭をガシガシと撫でられた。
兄貴へと席を譲り、資料を手にソファーへ腰掛ける。書類を睨む兄貴から他国についての問いに答えながら、俺は更に資料を読み進めた。
十一日後のティアラの誕生祭。
今から楽しみで仕方がない。愛しき人が女性と認められる日だ、めでたくない訳がない。更にはローザ女王により正式にハナズオ連合王国と合同での国際郵便機関が発表される。
俺は今度こそ、胸を張って兄貴や兄さん達の隣に立てるのだから。
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