そして選ぶ。
「…ねぇ。フリージアで過ごすんじゃなかったの。」
目の前の光景に、セフェクは足を伸ばしながらも投げかけた。隣で寛ぐケメトが目をキラキラさせて喉を鳴らしている。
いつもよりも豪華な部屋は、寝心地の良さそうなベッドが三つも並んでいた。もともとは二つしかなかったのを無理矢理もう一つ詰めたような並びではあったが、宿によってはベッド一つでもぎゅうぎゅうの部屋になることも珍しくないセフェク達には大して気にもならなかった。それよりもテーブルに運ばれた高級料理の方に目がいってしまう。所狭しと並んでは、出来立ての香りが鼻腔をくすぐった。
料理を運んできた人間が全員部屋を出て行ってから、ヴァルは早速酒瓶を傾けた。グビリ、と半分近く一気に飲んでからやっとセフェクの問いに答える。
「ベロニカ王国の方が奮発できそうだったんでな。」
これでも全く懐は軽くならねぇが、とこぼしながらヴァルがテーブルの肉を摘んだ。たぷ、と肉汁が溢れたそれを乱暴に噛み切ると、酒で流し込む。見慣れたヴァルの食事風景と「僕も食べて良いんですか⁈」と嬉しそうに肉料理を頬張るケメトにセフェクは小さく溜息を吐いた。
自分としても、昼の件があった後はもうあの男に鉢合わせたくないとは思ったし、できる限りあの場から離れたかった。だがまさか、国単位で離れられるとは思わなかった。
ヴァルの背中に従い歩き続け、城下を抜けたと思えばそのまま特殊能力の最高速でヴァルは移動を始めてしまった。余程、先程の男とのやり取りが不快だったのか、かなり荒い運転だったが、お陰で馬車でも二日以上かかる国にすぐ到着してしまった。
今、自分達が泊まっているのは貴族などの上級層が旅行などを目的に使う高級志向の宿だ。宿の人間に命じれば、まるで専用の使用人のように食べ物から衣服、馬車まで何でも用意させることができる。そこでヴァルが注文したのは上等な寝床三つと酒と料理。他の貴族と比べれば生易しい方の注文は簡単に通り、瞬く間の内に用意をされた。以前の彼らには到底できない贅沢だったが、それでもステイルから受け取った報奨金の量は殆ど減らない。改めて自分の懐を軽くするのは難しそうだとヴァルは思い直す。
本当に懐を軽くするならば色街や賭博場でも良かったが、どちらも子ども連れは難しい。更に言えば色街にセフェクやケメトを連れて行ったなどとプライドに知られれば、大目玉を食らうのも目に見えていた。
結果、リゾート地での豪遊という結論になった。フリージア王国も大国として他国に負けない有数の豪遊地帯はあったが、万が一にも例の男と鉢合わせる可能性を避けた結果だった。
「セフェクも食べましょう!凄く美味しいですよ!」
ケメトがセフェクの分も皿に盛り、手渡した。昔は全てセフェクがやってあげていたが、最近はケメトがとりわけることも増えていた。
ケメトから皿を受け取り、セフェクも促されるまま食べ始める。見たこともない盛り付けと贅沢な味付けで一気に目が覚めた。美味しい!と声を上げながら次々と料理に手を付ける。セフェクの目の輝きにケメトも嬉しそうに顔を綻ばせた。この料理は初めて食べました、これはレオンのところで食べたことあるわ、これはもっと食べたい、ヴァルも食べてみて下さい、ヴァルのそれも一口ちょうだい!と。いつものような騒ぎにヴァルはげんなりとソファーから天井を仰いだ。二本目の酒瓶を傾けながら自分の大皿を二人に突き出せば、フォークで一切れずつ肉を突き刺してきた。
ヴァルが酒瓶の五本目に手を出した時には、料理はもう殆ど残っていなかった。その後も料理一欠片どころかソース一滴すらもケメトとセフェクが綺麗にさらっていく。最後に何もなくなった皿を宿の人間に片付けさせた後には、ヴァルと同じようにケメトとセフェクもソファーでくつろいだ。
七本目の酒瓶を空にした後、ケメトが目をこすり始めてからとうとうヴァルがソファーからベッドに移り始めた。寝衣に着替えず、着の身着のまま一番端のベッドに転がるとケメトとセフェクも合わせるようにそれぞれのベッドに飛び乗った。ボフッ、と柔らかい生地とクッションに受け止められ、中に潜らずとも転がるだけで充分心地良かった。
二人がベッドに転がったのを確認してから、灯りを消す。ケメトに触れずとも離れてから短時間であれば特殊能力を扱えるようになったヴァルは、荷袋の砂を操りベッドの上から灯りを消すことも増えた。
ケメトから「おやすみなさい」と声が放たれ、適当に返す。だが、いつものようにセフェクからは放たれなかった。もう寝たのか、それともまだうだうだと考えているのかと二人に背を向けながら考えていると、不意に背後で誰かがベッドを降りる音がした。布の擦れる音と、トスっと軽い着地音。さらには忍ばせた足音までが近づいてくる。
音に気付きながらも、ヴァルは振り返らずに低い息を吐いた。二人に背を向けたまま、動かず耳を澄ましていると、その足音の主は躊躇いなく自分のベッドへ潜り込んできた。
「…テメェの寝所はそっちだろ、セフェク。」
うんざりとした声で振り返らずに言葉を掛ける。同時にケメトもベッドから起き上がったのか、更に布の擦れる音が向こうから聞こえた。
それでもセフェクは構わずヴァルの背中にくっつくようにして転がった。寝具の間に入り込み、ヴァルの分も布を引っ張った。
「………寒いから。」
ぼそり、と呟くそれに頑なさを確信したヴァルは呆れながら「どこがだ」とだけ返した。
今の季節は夏。更にここは風通しも良く、整った高級志向の部屋だ。少なくともいつもの寝所や野宿より寒い訳がなかった。
ヴァルの言葉に無言で包まるセフェクに、諦めてヴァルは目を瞑る。そうしている間にもまた向こうのベッドから小さな影が降り、更には今度は隠す様子もなくパタパタと駆けてベッドに飛び込んできた。
予想した展開に今度は声に出して呻くと、それを上塗りするようにケメトが「僕も寒いです!」とセフェクをヴァルと挟むようにしてベッドの中に潜り込んで来た。もともと巨大なベッドだから三人で寝転んでも狭くは無いが、また翌朝には寝具もセフェクに奪われているのだろうとヴァルは今から諦める。
せめて毛布はテメェらのベッドから取ってこいと言ったが、二人とも動こうとする気配すらなかった。
勝手にしろ、と悪態をつきながら目を瞑る。どうせこの部屋なら床で寝ようと野宿よりは快適だ。ただ、三人分敷き詰まったベッドと空の二つのベッドが側から見たら、さぞかし間抜けだろうとだけ思う。
「…………あの男の人。…知ってたかも。」
ぽつりと沈黙の闇にセフェクが小さく言葉を投じた。もう三人が黙してから十分以上経ってからだった。いつものセフェクの声から考えられないほど小さな声は至近距離にいたヴァルとケメトには充分聞こえた。ヴァルが相手をするのも面倒そうに背を丸めると、ケメトがセフェクの背後からそっと彼女の茶色い髪を撫でた。
「…あの人。………私の、……。」
そこまで言うと急に身体が震えた。
言葉にすること自体を全身が拒絶するように、頭で思っても言葉にならなかった。既に七年も前のことなど殆ど悪夢のようにセフェクの記憶には残っていない。それでも爪痕と事実だけは鮮やかに心にも身体にも残っていた。
歯までカチカチと鳴りそうなのを、ぐっと食い縛って堪えた。震えを気付かれないように、ピッタリくっついていたヴァルの背中から少し離れようかと身体を引いたその時。
ごろり、とヴァルが寝返りを打って身体をセフェク達へと向けてきた。
え。と思わず驚きでセフェクが目を丸くする。
一瞬、ヴァルが嫌気が差してベッドから出て行こうとしたのかさえ思った。なのに出て行くどころか、今まで背中しか向けてこなかったヴァルが初めて正面を自分達に向けてきたのだから。
ヴァルの背中に合わせて寝転がったセフェクの目の前には、今はヴァルの胸板があった。顔を僅かに上げれば、不機嫌そうに眉間に皺を寄せたヴァルが自分を覗くように見下ろしていた。セフェクの背後にいたケメトも驚いたのか、セフェクの髪を撫でる手が一度止まった。
すると、ヴァルは無言のままセフェクからケメトの背まで手を伸ばして二人を引き寄せた。大きな手のひらがケメトの背中を捕まえ、力強い腕がケメトごとセフェクを抱き締めるかのように囲った。ぎゅぎゅっ、と強くケメトとヴァルに挟まれ、セフェクは圧迫感よりも安心感が遥かに勝った。耳の後ろでケメトが嬉しそう声を漏らし、さっきよりしっかりとセフェクの背中にしがみついた。寝具よりもヴァルの衣服を両手で掴むように握り、セフェクはその胸板に額を当てた。信じられないほどの安心感に、ほっと息を吐く。それからやっと、また別の言葉が口から吐露された。
「…あの人は、…………私の前の名前を知ってる。」
ずっと、気が付いてしまってからは胸の奥をぐるぐると気持ち悪く渦巻いた想いがやっと言葉になった。
ヴァルに名を貰うまでは、自分の名前など呼ばれたこともなかった。捨てるより前に自分が持ってすらいなかったその名が、本当は存在したのか。それともずっと、名前すら自分は与えられていなかったのか。もし名前があったならばどんな理由で、どんな意味でその名前を付けて、そして何故一度も…
「………でも、呼ばれなかった。」
また、消え入りそうな声が俯向き気味のセフェクの口から放たれた。
本当は呼ばれたことがあって、自分が思い出せないだけなのか。それとも、呼ぶ価値すらないような、呼ぶことすら躊躇われるような名前なのか。考えれば考えるほど、答えは全く黝んだままだった。
ケメトが自分を掴む手が、更に優しく強まった。当時三歳だったケメトも、覚えていないだけでもしかしたら呼ばれた名前はあったかもしれない。ただ彼は、自分の両親の記憶すら全く持っていなかった。今のセフェクには、それが羨ましいとすら思えてしまう。
すると、ヴァルの胸板が大きく息を吸い上げ膨らんだ。そして次にはゆっくりと深い息が放たれる。いい加減にうんざりされたのか、ヴァルが短く「セフェク」と彼女を呼んだ。うるせぇ、もう寝かせろと言われるかとセフェクは一度返事を無視した。すると、もう一度さっきよりも静かな声色で同じ言葉が放たれる。
「…セフェク。」
はっきりと、自分に呼び掛けたような声に今度は顔を上げる。
すると、暗闇に目が慣れたセフェクにもはっきりと、ヴァルの鋭い眼差しが自分に向けられているのがわかった。思わず息を飲み、真っ直ぐ見返すセフェクにヴァルは再び口を開ける。
「セフェク。……それ以外の名が必要か?」
欲しけりゃ奪ってきてやる、と。そう続けたヴァルの声はどこか突き離すようで、…そして酷く優しかった。
その言葉を聞き入れた途端、セフェクは小さな唇を震わせた。ヴァルに額を擦り付けるように何度も首を振り、再び震えた手足を隠さず彼にしがみついた。自分の中に最初からあった当然の答えが涙と共に込み上げる。
「…っ……要らないっ…!」
必要ない、と。
心の底からそう思った言葉がやっと口から出た。
他の誰でもなく、この世で最もかけがえのない存在である二人に呼ばれるこの名以上のものなど最初からセフェクにはあり得なかった。
たとえあの時、自分の名前を男から呼ばれて泣きつかれてもセフェクは間違いなくヴァルとケメトを選んだのだから。
…ずっと私は、ここが良い。
前の屋敷やあの男に対しても帰りたい、もう一度会いたいとは全く思わない。ただ、今のここが自分の居場所なのだと。…ここ以外は必要ないのだと心から思えた自分に安堵した。
過去なんてどうでも良い。ケメトに会って、ヴァルに名前を与えられたあの時こそが自分がこの世に存在し始めた瞬間なのだと。
自分の逃げ場所は、ここに在る。
気付けば強くしゃくり上げていた自分に気付く。ヴァルの胸に顔を埋め、ケメトに抱き締められながら。
この名が良い、セフェクが良い、ずっとこれが良いと絞り出すように彼女が繰り返せば、ヴァルは回している方とは反対の手で一度だけセフェクの涙を拭った。
これ以上ない安堵に包まれて、セフェクはその夜だけは身動ぎ一つせずに眠り込んだ。
涙を伝らせたまま、寝息を立て始めた少女を見てやっとヴァルも目を閉じる。
手のひらを背中に添えられたケメトが、それに気付いてヴァルの腕に手を重ねた。セフェクの背中に顔を埋めながら幸福そうに笑い、ヴァルに続くように目を閉じた。
─ 三人の家族が、そこにいた。




