〈書籍12巻本日発売‼︎・感謝話〉義弟の夢見で。
この度、ラス為書籍12巻が発売致しました。
感謝を込めて、書き下ろさせて頂きます。
時間軸は第二部あたりです。
……どこだ、ここは。
白い空間に、俺は立つ。
自分の立ち位置すらわからない。何故俺はこんなところにいるのか。塗り潰したような白の世界が広がっている。
左右から周囲を見回しても、目印どころか全くの差異がない。眼鏡の黒縁を指で押さえ目を凝らし一度眼鏡を外したが当然ながら見える景色は変わらず、再び付け直した。声を放てば木霊しような空間だ。
窓どころか光源もない空間なのに妙に明るいが、それ以上に既視感を覚えるのが気味が悪い。こんなところ来たことがあるわけがないというのに。一度訪れたら忘れるわけがない。
敵の奇襲かとも考えればすぐにでも瞬間移動しようかと考えるが、まずここがどこか、そして敵がいるならば出方も見たい。……誰かがいる筈だと、妙な感覚を引き摺るように形のない確信に押されもう一度周囲を改めた。十分……いや五分程度周囲を散策してからでも戻るのには遅くな
「なにしてるの」
……不意に、掛けられた声に視線を下げる。見れば、さっきまでいなかった筈の背後、振り返ったすぐ目の前に少女が立っていた。
小さな少女に、まさか近すぎて逆に見えなかったのかと思うがこの距離では気付かない方がおかしい。目立つ髪色やドレスを見ても、間違いなく視界に引っかかる筈だ。なら、特殊能力による幻かもしくはこの少女自身が特殊能力者なのか。
じっと子どもにしては鋭い目で俺を上目に睨んでくる少女は、この意味不明の空間でも全く怯えた様子もない。無感情、むしろどこか不機嫌そうに見上げる少女はその視線を一瞬も俺から逸らさず、そしてその場から動こうともしない。
何かの罠か、と考えればここで相手をするべきかも考える。しかし、何もない場所で唯一出会った存在を無視するわけにもいかない。何か知っていればと、振り返った体勢から正面を向けるように身体ごと向き直り、手に胸を当てる。「どうも」と笑顔を作って返してみたが、彼女から返答はなかった。
愛想の無さは昔の俺にも近いかもしれない。単に感情の起伏がわかりにくいのか、警戒心が強いのか、それともセフェクのように相手を選ぶのか。もしかしてただの迷子の可能性も鑑みつつ、返事のない少女に少しだけ腰をかがめて言葉を続ける。
「そちらこそ、何をされているのですか?僕は今さっき気付い」
「無礼者」
ガンッ、と。少女の靴が床を踏み鳴らし音が響く。一瞬前まで俺の爪先があった位置だ。
眉を釣り上げて踏み出してきた時から何かしらしそうな気はしたが、踏みつけようとする動作に足を引っ込めれば予想通りだった。俺の足を踏めなかったことが不満のように、キッとつり上がった目をさらにつり上げて睨む。踏みつけ損なった足で、今度は蹴飛ばそうとしてくるから更に一歩下がって避けた。途端に悔しそうに顔を歪めた少女は、そこでも諦めずに今度は俺に飛びかかるように早足で迫ってくる。拳を握り肩まで強ばっていることから、次は殴るか引っ掻くでもするつもりかと想定しつつ、彼女の足並みに合わせて俺も後ろ足に後退する。アーサーとの手合わせもしている俺が、今更こんな小さな少女に隙を受けるわけもなければ、後ろ歩きでも追いつかれるわけもない。
てっきりセフェクに似た気性の少女かと思ったが、それ以上だ。彼女よりも更に負けず嫌いか好戦的に見える。二度ならず、まだ俺に一矢報いたくて仕方が無いらしい。
「ッ止まりなさい!!そこに平伏なさい無礼者!」
「それは君の方だ。そこに直れ無礼者」
子ども相手に大人げないと自覚しつつ、彼女の頭を冷まさせようとすればするほど俺も声が平坦になる。
言い返されるとは思わなかったのか、少女の目が皿のように一瞬開かれたと思えば次の瞬間に顔を真っ赤にして更に鋭く釣り上がった。「死刑にしてやる!!」と甲高い声で叫びながら更に俺を追いかける。子どもというよりも、野良動物のような牙の剥き方でドレスを乱す。
ガンガンガンと、何度も俺の足を踏もうと靴を慣らし、俺の裾だけでも捕まえようと手を伸ばし、時に拳を振り上げる彼女は見掛けよりも幼い。初対面でこちらが尋ねる立場だからこそ言葉を整えたが、礼儀のない少女を相手に言葉を整えるどころか弁える意味もない。
今だけは壁も遮蔽物もない空間が楽だった。いくら後ろ歩きで後退しても背後を気にする必要もない。
いっそ、この少女がどこまで諦めずに追いかけてくるか観察しようかと、不思議と警戒心は湧いてこない。「死刑」なんて、そんな言葉どこで覚えたのか。俺が住んでいた街でもそんな言葉を喧嘩で使う子どもなど女でも男でもいなかっ
「私はフリージア王国の選ばれし第一王女よ?!アンタなんかいつだって処刑にできるんだから!!!」
は、と。少女の金切り声が刺さり、足を縫い止めた。
突然足が止まってしまったことで、少女が俺の足を踏む前にそのまま真正面にぶつかった。ぼすりっと子ども一人分の体重が当たり、俺よりも体重が軽い少女の方が跳ね返されるように反動で後方へ転倒する。さっきまで、転んでも自業自得だぞと思っていた筈の少女に考えるよりも前に手が伸びた。俺の方へ抱き寄せるかたちで転ばせずに済んだが、安全に確保された途端今度こそガツンと靴を踏まれた。
少女を、彼女を前に声を上げることを理性が勝ち、寸前で堪えた。しかし、少女の力と体重とは思えないほどの激痛に足を引っ込めると同時に、少し彼女を抱き留める手に握力が強まった。恐ろしく的確に、指の爪が割れたんじゃ無いかと思うほど痛む。セフェクに踏まれたヴァルが毎回声を上げている理由を今無駄に理解する。
少女は俺の腕を振り払うと、自分から距離を取った。フンと鼻息荒く息を吐き、腰に手を挙げ俺を睨む。
「わかったのなら平伏なさい!じゃないと死刑よ!!」
「……………………」
わかったのはこれが絶対現実ではないということだけだ。プライド、と呼べば良いのかこの小さな少女に姉君と呼ぶべきなのかと脳がわけのわからないことを悩み出そうとするのを思考で振り払う。そんなことどうでも良い、寧ろ何故今まで気付かなかった?!
波立った深紅の髪も、紫の瞳も本来ならば一番に連想すべき彼女が霧でもかかっていたかのように全く頭に浮かばなかった。いやそもそもドレスを着ている時点で、彼女の身分について考えるべきだったのに何故、何も結びつかなかった??
この白の世界より遙かに理解不明な現象に言葉が出ない。
腰を丸めても変わらず低い位置にいるプライドが、ふんぞり返り目線を上げる。今にも俺が平伏するのを当然とばかりに待っている彼女は、……正直まだプライドという感覚がしない。それどころか令嬢なのかも疑いたくなる域だ。
姿はまさにプライドだ。幼い頃に出会った彼女の面影にもこれ以上なく合致している。子どもの頃はもっと大人の女性に見えたが、実際はこのくらいの少女だったのは城に飾られている肖像画が証明を残している。だが、……あまりにも行動はそれ以下に幼すぎる。
令嬢でも、この年齢の少女なら幾分か身分を勘違いした振る舞いをする少女はいる。特に、……下級貴族の方で。もしくは同じ上級層でも貴族ではなく商人など成り上がり富裕層の令嬢でだろうか。
第一王子の俺は接点を持つ機会も少ないが、ジルベールの手腕のお陰で近年は下級貴族や地方貴族と接点を持つことも少なからず得るようになった。公爵や伯爵のような上級貴族であれば、社交界に出す為にも教育が行き届いている分、表面上だけでも礼儀正しく振る舞う。が、ただ権力と金だけ覚え、自分が王族と同格に近いほどの立場にいると勘違いしたまま成長する子どもや大人もいる。しかしプライドは、第一王女だ。
「早くしなさい!!」
ずい、と胸を突き出しながら一歩自ら再び近付いてくる。まだ十歳にも……いや俺が出会った八才程度の年齢だろう少女に、見ず知らずの大人と二人きりで喧嘩を売るような真似はやめてくださいと言いたくて舌が疼いた。
これも、王女としての自信からの行動だろう。何故ここにプライドがしかも子どものプライドがいるのかはわからないが、本来ならば必ず傍に護衛がいる身分の女性だ。
プライドが、俺の出会う前にそういう子どもだったことはヴェスト叔父様達から聞いて知っている、しかし、こうやって目の当たりにすると……確かにこれは、子どもの癇癪にもほどがある。奪還戦のあのプライドを父上達が勘違いしたのも頷ける。
今も俺が困惑している本当の理由はわかっていないだろうプライドは、自分が王女だと聞いて俺が狼狽えているとしか思っていないのだろう。眉を釣り上げながらも、その表情はさっきまでと違うどことなく優位感がある。
彼女が、俺の知るプライドであれば膝を折る程度は構わないが、このプライドに折る気にはならない。代わりに改めて腰を落とし、彼女と視線の高さを近づける。
「……貴方は、何故ここに?」
「うるさい!!!」
バシィ!と、間髪入れず今度は手が飛んだ。避けることもできたが、プライドを前に選択肢から外れてしまった。眼鏡が真正面から叩き落とされ、床に落ちた。見下ろしヒビは入っていないようだと安堵した直後、今度は本当に迷う隙もなく小さな靴に踏み割られる。パリィンッと硝子が割れ、子どもながらに踵の高い靴が踏みにじった。
大事な眼鏡だった分、一瞬息が詰まったが、初戦夢だと思うことにする。今、この程度のことで感情を露わにするわけにもいかない。
まず目の前にいるのが十才にも満たない子どものプライドという時点でおかしいと、自分に現状を正しく言い聞かす。そうでもしないと、うっかりこの状況に飲まれそうになる。
今だって、プライドなのにこの頃は踵の高い靴を好まれていたのかとか、子どもの足では硝子の破片が散って自分まで怪我するからやめるべきと言おうかとか、上級層ならまだしも使用や民にとって眼鏡は高級品だから割るのはやめてくださいとここで指導すべきかと要らないことばかり考えようとする。違う、プライドがこの年で俺の前に現れるわけがないあり得ないこれは現実じゃない。
眼鏡の破片を拾う気にもなれず、膝に手をつき脱力する。プライドがここまでの振る舞いともなると、俺の中で色々納得できる部分も多くでてくる。今のこの彼女をもっと知りたいと思う反面、今すぐにこの空間から逃げたいと思う。子どもの頃のプライドが、今は俺よりも遙かに小さな姿でここにいるという現実に頭の螺子が抜けそうになる。
プライドが今も甲高い声で怒鳴る中、ハァァァ……とアーサーのような溜息が出てしまう。視線を床に落とし、このまま顔を上げたらせめて子どものプライドは消滅してくれていないだろうかと思う。あまりにも頭にも心臓にも悪い。
「貴方が、本物だと、あくまで仮定として、……本題に移りましょう。ここはどこで、貴方は何歳で、何の権限で俺に平伏を命じ大事な私物を踏み壊すのですか」
「うるさい!!!アンタが偉そうに私に口を利くからよ!!選ばれし第一王女である私のことも知らないなんて馬鹿じゃ」
「プライド。知っていますよ貴方のことは。そして俺は王族で、とある大国の第一王子です。王族だからといって理由もなく他者の私物を踏み壊す権限はフリージア王国の法に認められていないことも知っています」
ビクリッと、…………予想外にプライドの肩が激しく揺れたことに、自分で言っておきながら一瞬胸が咎めた。そうだ、彼女は俺のことも知らない子どもで、家族以外に呼び捨てになどされたことのない少女だった。
いくら傲慢な態度を見せても、中身は十年の人生経験もない子どもだ。言い返されることにも慣れていなければ、上から圧力をかけられることも慣れていない。
やってしまったと、口を結んでしまうプライドから目を伏せ反する。眼鏡の黒縁を……押さえようとして目元に触れた。そうだ今は眼鏡がないんだ。
今この場で、大人げないのは俺の方だ。
子どもの頃は自分よりも大人びていて、年上の女性だという印象だったプライドが、今は本当に小さな子どもだったと何度も視界に入る度に思い知る。「話を変えます」と落ち着いた、怯えさせない声色を意識して言葉を言い直す。年齢を言いたくないのならば仕方が無い。他の言い回しで検討付ける方が早い。
「では選ばれし第一王女であらせられる貴方は、王位継承者の証である予知能力に目覚めてはおられますか」
瞬間。……反省どころの話ではなくなった。
さっきまで目を尖らせ胸を張り強者に振る舞っていた第一王女が、あまりにも不安げな表情に顔を歪め眉を落としていた。
プライドが予知能力に目覚めた八歳より前か後かを図る為だけの問いだった筈が、まるで泣く直前の表情だった。口を俄かに上げたまま言葉がなく、子どもが親に強い言葉を浴びせられた時のような強ばりだった。俺に震う拳も今は自分のドレスの裾をぎゅっと握りしめ、微弱に震わせている。ぷるぷると肩まで振動し、本当に泣くのを我慢しているのだと子ども特有の震えでわかる。子どもの頃のティアラが怒る直前にもよく似ている。俄かに空いていた口がとうとう閉じられ、ぎゅっと歯を食い縛るような音が聞こえた気がした。
まずいと、気付けば足が半歩下がり背中が反った。俺はこんなにも考え無しで配慮に欠けていただろうかと自分に問いたくなる。しかも相手はプライドだ。
「……うるさい」とさっきとは比べものにならない擦れた微かな声が漏らされた。子どもに、よりにもよってプライドにこの俺がこんな表情をさせるなど、今すぐ両方の意味で消えたくなる。爪先を踏まれたどころじゃない激痛が、心臓に爪を立てて抉ってくら。
「なるわよ絶対。母上の娘は私だけだもの。父上の娘だもの。女王になって絶対……絶対アンタなんか死刑にしてやるんだから……」
もういっそ死刑になるべきかと、夢の中だからこそ思う。まだ八歳になってもいないかもしれない少女にこんなこと言わせてどうする。
少なくとも、今のプライドはまだ予知能力に目覚めていないことは確信できた。父上達もプライドが改心したのは予知能力をきっかけにと話していたからこそ、齟齬はない。ッいやこれは夢に違いないのだが!!!
まさかまだこんな幼い年で、予知能力を持っていないことを引け目に感じているとは思わなかった。現女王である母上は十六歳で目覚めたくらいだというのに、まだ八歳以下のこの年で何故そこまで傷つくのか。…………要因はどこで、誰にあるのか。
いや、どんな理由であれさっきまでの振る舞いが第一王女としても人としても許されるべきではないが、それでも要因を考えれば血が冷たく沸く感覚に襲われた。ジルベールも言っていた、プライドには様々な要因が取り巻いていたと。
そこまで思考が熱く巡った時、「ヒッ」と目の前から悲鳴が上がり、我に返る。「失礼しました」と表情を無にして謝罪した。
何故こうもこのプライドにろくなことができないのか。今決まった、悪夢だこれは。
「……失礼しました。ではまだ貴方には兄弟……もいないということですね」
「ッ一生要らないわ!!」
ザクリと、今度は刺さる音まで脳に響いた。一生か、と思いつつしかしこれもあんな表情をさせた罰だと割り切る。泣く前に持ち直してくれただけ感謝しなければならない。
「一生ですか」と力無く反復すれば「そうよ!」と強い声が返される。ティアラの存在を知らされるのは、確かプライドが予知能力を得てからだ。しかしこのプライドはもしや義弟制度も知らないのだろうかと考える。ならば仕方が無い。この年の子どもは、兄弟姉妹が欲しいと思うか、もしくは欲しくないと思うかは二極端が多い。…………多いのだが。
「……〝補佐〟でも、ですか。貴方のお役に立つ〝義弟〟は」
「義理??血も繋がらない弟なんか私が弟にしてあげる必要もないじゃない。私は補佐なんかいなくても充分優秀よ」
「どんな弟でもですか」
「要らない。血が繋がっていても嫌だけど他人を弟になんかしたくないわ」
大人げない大人げない大人げないやめろと、頭の冷静な部分が繰り返す。俺は、こんな年端もいかない少女に何を言って欲しがっているんだ。いくらプライドでも、八歳の子どもで、まだ予知能力も、ティアラも、それにご自分の振るまいを省みる前の子どもに「どんな弟になれば認めてくれますか」と言いたくなる舌を喉億へと引っ込める。
そんなこと聞かなくても、もう俺の知るプライドはちゃんと認めてくれている。プライドも、アーサーも、ティアラも、それにヴェスト叔父様も。…………それなのに
「貴方を決して一人にしないと誓っても?」
「!……っ」
この人にも、認められたい。
大人げない、まるで俺まで精神年齢が下がったかのような、学園での生活と似たような感覚で彼女に想う。そうだ、きっと夢の中で浮かされているだけだそう思おう。
今度はプライドからも拒絶も、そして返事もなかった。眉の間を狭めた表情に、唇を結ぶ彼女にこれは肯定に近いだろうかと紙一枚程度の薄い希望を抱く。
この人に、この幼いプライドに出会う前にもう一度、認められたいと思ってしまう。王族としてはあまりに礼儀もない、理性にも品性にも欠けているこの少女が、横柄に振るまっていてもどうしようもなくいつまでも
寂しすぎる。
「……朝は「おはようございます」夜は「おやすみなさい」と、挨拶します。貴方が行くところにはできる限りついて行きます。楽しい話も、本も、経験も、なんでも共有し、共有されます。食事とおやつの時間も一緒にとります。貴方が好きな色も、お菓子も、銘柄もなんでも譲りますよ。貴方が王女だからではなく、ただそうしたいと思うからそうします」
今更ながらに、理解した。この小さな少女を前に気付いてしまった。当時、義弟になった俺にプライドがあんなに優しくしてくれたのはただ慈悲をかけてくれただけじゃない。心からの笑顔を向けてくれた理由も、…………きっと彼女自身がどこかで寂しかった。
幼かった俺が広く感じた城や宮殿で、たった一歳しか変わらない彼女が一人で暮らすにも広過ぎる。そう、同じことを感じたことがあってもおかしくない。
城に来たばかりの頃は彼女に頼ってばかりいたが、彼女だって子どもだった。あんなに良くしてくれたのも、……心のどこかで彼女が〝誰か〟とそうしたいと思ったことがある痕跡なのかもしれない。
「貴方が泣きたい時は、いつだって胸を……貸しますし、そして必ず受け止めます。貴方を悲しませる相手にも傷付ける相手にも、貴方と同じくらい寧ろそれ以上に怒りを抱きます。貴方が望むからではありません、貴方が大事な存在になるからです。……それでも弟も、兄弟も、姉妹もいりませんか」
「…………いらない。兄弟も姉妹も、……。…………けど」
拒む言葉に反して、声が弱い。さっきの傷付けられた時と同じ柔さだった。ぽつりぽつりと降り始めの雨粒のような声の後、彼女がずっと下ろしていた拳を上げる。しかし、さっきのように振り上げるほどの高さではなかった。
うっすらと膜が張ったかのように潤んだ瞳で、彼女は真っ直ぐに俺を見る。鋭くも無い、ただ釣り上がっただけの…………幼い頃は怖いと思った筈のただただ幼く哀しい眼差しで。
「そういう〝家族〟は……欲しかったわ」
トン、と叩くでもなく踏むでもなく、ただ軽く突き飛ばすようにプライドの小さな手のひらが俺の胸を押した。
小さな衝撃にも関わらず、胸は剣で貫かれるようだった。真っ直ぐに移す紫色の眼光は、俺以上に無感情だ。
「けどもう無理。だから要らないの。私には父上さえいれば良いの。だから消えて」
とん、とん、どん、どんと、俺を何度も突き放すように手のひらで押し、突く。無感情の平坦な声は、さっきまで喚き散らしていた時のように抑揚はなく、それなのにさっきよりも感情が直接刃となって突き付けられる。目にも見えそうな、大剣のような刃だ。
俺を突きながら、プライドはもう顔も見せてくれない。下を向き、そして譫言のように「消えて」とそれだけを切り返し出す。
きえて、きえて、消えて、消えてと言いながら、さっきのように殴ることも踏みつけることも、いっそ自分かその場から去ろうともしない。…………動けないのか。
「消えて、消えて、きえてっ……。……こんな、……っ……〜っ夢の中でしかいてくれないくせにっ……!」
最後は嗄れるような声だった。とうとう俺の胸からも手を下ろし、俯けただけの彼女はまるで人形のように力なく、そして震え出す。
ぽたりと、水滴が床に落ちた瞬間だけを見た。
俯いたプライドの表情はわからない。思わずその手を掴み返そうとすれば、…………突き抜け、通り、掴めなかった。
まるで空でも相手にしたかのように、触れられない。おかしいさっきまで触れられたと反対の手を掴もうとしても駄目だった。
夢だと思った筈なのに、酷く焦燥し両腕で彼女の身体を掴もうとしたが両腕が交差し突き抜ける。目を見張れば、薄く白の世界に溶けていく少女は、まだ下を向いたままだった。
プライド!!と叫んだが、彼女はもう顔を上げてくれない。その顔を見られることを拒むように、水滴を落とし長い深紅の髪で顔を覆い隠す。触れられない、声も届かない。初めての筈なのに、もう時間がないと嫌な確信に急き立てられる。
さっきまであんなに触れられていたのに、何故今の今まで俺から触れなかったのかと奥歯を噛み締め後悔する。何度呼んでも、顔を上げてくださいと叫んでも彼女は首を振ってすらくれない。本当に姿だけでなく、声まで消えてしまっているのかと考えながらそれでも叫ぶのを止められない。このままの彼女を行かせたくない。
「ッ現実でもッいます!!!プライド!プライド・ロイヤル・アイビーの傍に必ずッ」
彼女の耳を壊してしまうと過りながら、肺の底まで叫び放つ。
続きをと言いかけ、一度止まった。嘘は言いたくない、個人的な望みでも願いでも夢でも決してこのプライドに事実以外は言いたくない。彼女の希望は本物しか翳さない。
僅かに顔を上げようと角度をあげてくれた彼女がもう半分は白く溶けていくのを睨み定めながら、言葉を精製する。
「俺がッ!!っ……ッ俺が貴方が孤独にならないようにします!!貴方の傍に必ず貴方を大事に想う〝誰か〟がいるように!!俺も!!その一人になります!!!!」
こんなに目の前にいるのに掴めないのがもどかしい。肩を、手を、その身体を抱きしめることもできないことが歯痒くて仕方が無い。目の前に、近くにいるのに届かない。
胃の中が現実へと煮えたぎるような感覚を覚えながら言葉を尽くす。薄く、薄く、白の世界に解けていく彼女が、その表情もわからなくなりそうなほど薄くなったところで顔を上げてくれた。もうその表情はわからないのに
「──────っ……」
泣きながら子どもらしい笑った顔だったと、その声の上擦りと抑揚でわかった。顔が見えないのに、今のプライドではない俺が知るプライドの表情で脳裏に浮かび照合された。
声まで消えかかり聞こえない。なにを言ったのかわからない。ただ、その表情から彼女にとって願うような言葉だとそう思う。
そしてとうとう、真白に消えた。
彼女のいたその場所に、膝をつき空をなぞる。幼い、八年生きたかどうかの少女とは思えない複雑なその表情を思い出し、……己の手も透け初めていたことにさえ、俺自身のぼやけた視界のせいで寸前まで気付けなかった。
…………
「兄様っおはよう」
ぼんやりと呆けていたところで、呼びかけられた声に振り返る。見れば、ティアラがちょうど自分の部屋から出てきたところだった。
俺と違い、プライドと同じ階に部屋があるティアラは扉を開ければすぐに俺にも気付く。プライドの部屋の前にいる俺に。
更にはティアラが短い距離を駆け寄ってくる間に、階段からも人影が現れた。アラン隊長とカラム隊長だ。近衛の任で合流した二人にも挨拶すれば、ティアラも振り返り手を振っていた。
今日は俺が一番早かった。…………というより、目覚めが悪く普段より一時間も前に目が覚めてしまった。なにか嫌な夢でも見たのか、起きた時は覚えていたが酷く後悔が残った記憶しかない。嫌な夢など覚えていない方が良いのに、後味だけが残っているのも不快だ。
ティアラにも歩み寄ってきてすぐ「どうかした?」と首を傾げられた。疲れているだけを理由に返しつつ、眼鏡の黒縁を押さえる。…………そういえば、目が覚めてすぐ眼鏡の無事を確認したような気もする。魘されてテーブルから払い落としでもしてしまったのだろうか。全く記憶がない。唯一覚えているのも、声もわからないただ告げられただろう謎のひと言だけだ。しかも、心外の言葉だ。
カラム隊長にも体調を心配され、同じように疲れを理由に断る。たかが夢見を理由に体調が引き摺られているなど言えるわけもない。
普段通り四人で他愛のない会話と、そして何度か沈黙をはさみながらもプライドを待ち、…………待ち、…………。ふと、気になって時計を確認した。
「…………遅いな」
「どうかしたのかしら?」
普段ならもうとっくに起きてきて良い筈のプライドが部屋から出てこない。ティアラも気になるように扉に更に近付き、耳を扉にくっつけた。本来なら王女としてあるまじき行為だが、相手が姉のプライドだからこそ許される行為だろう。「はしたないぞ」と一言指摘したが、逆に「しーっ」と俺の方が唇に指を立てて怒った顔を返された。
近衛兵のジャックも心配するように扉の方に振り返り、とうとうノックを短く鳴らした。「プライド様、ステイル様とティアラ様、近衛騎士がお待ちです」と告げてくれても、返事は無い。何かあれば部屋にいるマリーとロッテだけでも反応がある筈だが、……恐ろしく無言に少しだけ不安が過る。今朝魘されたせいもあるだろう。
なにかあったのかと、ティアラも細い眉を下げ俺達の方に振り返る中、俺も一歩近づきノックを鳴らす。
「姉君、俺です!どうかされましたか?」
ゴンッッッ!!!と。
俺の言葉が言い終わるよりも先に、恐ろしい殴打音とロッテの短い悲鳴が響いた。一気に血が引き、直後俺が言うよりも先にジャックも扉を開けた。「失礼します」を言い切る前に、近衛騎士二人が飛びこみ、俺達もともに入れば、……プライドは、いた。
テーブルの下で、頭を両手で押さえ小さくしゃがんだ体勢で。
「…………プライド?」
俺達に背中を向けた状態で小さくなっていたプライドの傍には口を両手で覆ったロッテと、そして困り顔のマリーが中腰で立っていた。
二人とも深刻そうな表情ではなく、さらに近衛騎士の二人までテーブルの両脇で困ったように視線をプライドへと覗き込むように落としている。まるで猫に出てこいと呼びかけるような構えだと呑気な部分で思う。
ティアラが「どうかされたのですか?!」と駆け寄る中、プライドから「大丈夫……」と擦れた声が聞こえればようやく肩から力が抜けた。胸を撫で下ろし、アラン隊長とカラム隊長と同じ位置まで前進する。
「これは……?プライドはなにを……?」
「お待たせして申し訳ありませんステイル様。実は今朝からこの調子でして……」
マリーが早足で俺の元に歩み寄り、耳元で囁くように説明してくれる。
朝起きてから大分寝ぼけていたのか放心状態だったプライドだが、それでも普通だった。しかし、そろそろ俺とティアラが迎えにくる頃だとロッテが溢した時あたりから急に様子が慌ただしくなったらしい。「ちょっと待って」「心の準備が」と、何故か朝食の迎えに来ただけの俺達に対して専属侍女二人に懇願し、一度は二度寝までしそうだったらしい。
せっかく着替えたドレスに皺ができるとマリーとロッテが止め、今度は衣装部屋や衣装棚にも隠れようとし、最終的に落ち着いたのがテーブルの下だったと。…………もう、聞いていて納得しかけたところで意味がわからなくなる。
しかし、そこでテーブルに頭を打ち付けてさっきの音が鳴ったということだけは少なからず安堵する。プライドが誰かに襲われたわけではないだけマシだ。
「プライド、一体どうされたのですか?具合でも?」
「いッいいえ!大丈夫!よ?!お待たせしちゃってごめんなさい!ステイルこそ大丈夫?!足ッじゃなくて!〜っくっ靴は!」
「??はい。なにも…………?」
何故そこで靴になるのか。
気になって自分の足下を見るが、汚れ一つない。もともと王族になってからは履き古すことはなく、常に新品が用意されている。プライドが靴にイタズラをしたとも思えない。
ひと目みただけでも目がぐるぐる回っているように見えるプライドは、そのままティアラに手を取られながらようやくテーブルの下から出てきた。騎士達に声を掛けられても「大丈夫」と苦笑するプライドだが、誰がどう見ても大丈夫には見えない。
「ごっごめんなさい。本当に、…ちょっと変な夢を見て、いろいろ申し訳なくなって……」
穴があったら入りたいくらいに……!!と絞り出すような声で続けるプライドに、全員が首を傾ける。プライドの方が申し訳ないと思う夢など、一体どういう夢なのか。俺のつまらない悪夢なんかよりも遙かに気になる。
ティアラが「どんな夢ですか?」と尋ねたが、プライドは激しく首を横に振るだけだった。首を振る先で一瞬俺と目が合ったような気がしたが、その瞬間今度は窓の方に逃げたところで先を読んだように待ち構えていたジャックに真正面からぶつかった。慌てて今度はジャックに謝り出すプライドに、アーサーを連れてきて触れて貰うべきか真面目に考える。いや、まずは医者か。
「怖い夢ですかっ?」
「いえ怖いなんて!!……。……いえ、怖い時はあったけど?あれは、全部、私が悪いから……。……ほんとうに……」
ティアラに大慌てで両手を振った直後、段々肩が丸くなるプライドは最終的に顔を両手で覆ってしまった。
夢にまで自分が悪いと反省してしまうのはプライドらしい。そしてティアラとも近衛騎士ともジャックとも目が合うのに、何故かまだ一度もちゃんと俺とは合わない。
プライド、と呼んだが途端に今度はジャックの背後にくっついて顔を突っ伏したプライドに、本当にどんな夢をみたのか嫌な予感がする。これはまさか、悪夢の原因は俺じゃないだろうか。一体夢でプライドに何をしたのか。
「……プライド。もしかして夢で俺が何か……?気に障るようでしたら俺は先に食堂に行っておきましょうか」
「!違うのステイルは悪くないわ本当にごめんなさい!!…………~っ、……むしろお礼を言わないといけないくらいで……」
ぷしゅうと、まるで湯気が搾り出るような音が聞こえた。ジャックが振り返る中、プライドの耳が深紅の髪から覗かせている部分まで赤い。やはり熱でもあるのかと、念の為マリーに医者を呼ぶように指示を出す。
お礼?と聞き返してもそれ以上の返事は俺にもティアラが聞き返してもなかった。アラン隊長とカラム隊長が半笑いで俺とプライドを見比べる中、まるで俺が疚しいことでもしたような気分になる。
朝食の時間など微々たるものだが、それでもこのままプライドと膠着状態では俺もティアラもそしてプライドもこの後の予定に支障を来す。
やはりプライドは部屋で休んでいた方がと提案したところで、まるで覚悟を決めたような表情でプライドがとうとうジャックの背中から顔を上げた。「行くわ」と言いながら、早歩きでとうとう部屋の扉へと足を進め出す。
俺とティアラも顔を見合わせつつ、その背中に続く。階段にさしかかり、普段ならプライドに手を差し出したかったが、ここで階段から転倒される方が恐ろしく一拍置いてアラン隊長がプライドに手を貸してくれた。今は彼女が平静を取り戻せるまで、俺はなるべく黙し気配を消す。
階段を降り、食堂に着いたところで自分の席に向かおうとした、その時。
「あのッ、すっすている?……~っ、きょ、今日だけど、休息時間……来てくれる?」
「?はい、勿論です。もし何かありましたら、早めに休息を得られるようにヴェスト叔父様にお願いします。もしくは今日はティアラと落ち着きたいということでしたら……」
「ッ違うの!」
早口で振り返ってくれるプライドと、今日初めてしっかり目が合った。
熱でもあるような真っ赤な顔のプライドは、子どものような慌て顔で思わず俺まで熱が上がる。……てっきり、遠回しに今日は会いたくないと言われるかと覚悟したが。毎日休息時間に訪れている俺に、わざわざ聞くなどそれしか考えられなかった。
しかし、怒っている表情でもなければ、若干情けないくらいに焦った表情で否定してくれたプライドに密かに胸を撫で下ろす。取りあえず、嫌がられているわけではないと自惚れておこう。
「ただええと、当然なのだけれどその…………」
髪を二度同じ耳にかけ、紫色の目が泳ぐ。
ティアラも気になるように自分の席に移動しかけた途中で立ち止まりこちらに振り返っていた。恐らく、プライドの夢の中で俺が何かしでかしたのは間違いないだろうが、こんな当然のことを尋ねさせるなど一体どんな言葉を浴びせたのか。
夢は潜在意識とも聞くが、プライドの中で俺がどういう人間になってしまっているのかと考えると余計に気になる。
三度目の髪を赤い耳にかけ直したプライドは、そこで喉を小さく鳴らしこちらに目を向けた。
「すっ、ステイルは約束は守ってくれる人だから。〜っだ、から心配ないわねと言いたかっただけ、ょ……」
突然何を言い出すんだこの人は。
最後の蚊の鳴くような声やささやかに逸らされた目よりも、告げられた言葉に平静が乱され急激に顔が熱くなる。強張ったまま必死に笑顔を作っていると俺でもわかるプライドが、着替えたばかりにも関わらず頬まで汗で湿らせていた。
本当にどんな夢をと既に何度も過った疑問を告げようにも口が痺れたように力が入らない。その間にプライドの方がそそくさと自分の席に逃げてしまった。俺だけが取り残される中、ティアラのクスクス笑いが耳の端を遠くから擽った。
一気に全思考が鈍り雲がかる中、今度は頭の遠い場所からも声が落ちてきた。
『信じてあげないっ……』
何故そんな言葉を向けられたのかもわからない。声も覚えていないのに、ただその声が微弱に震えていたのが印象にまだ残っている。言葉のわりに、優しい口調だった。
何故そんなことを言われたのか、正直不服だし心外だが今こうして頭を覚ますにはちょうど良い。誹謗にしては単純で安易な言葉なのに、不思議と思い出すたびに胸がツンと細くも鋭く痛む。言葉そのものよりも、良心を刺激される痛みだ。
何か言ってやりたいのに、何を言えば良いかわからない。相手が誰なのか、声そこものしさら思い出せないのだから。
ただ、……言葉というのは言える時に言うべきだなと不思議と学びじみたことを、思う。
「頂きましょう」
そう、席に着いたプライドが意識的にだろう明るい声で呼びかけてくれるのを聞きながら思う。ティアラからも「兄様もはやくっ」と急かされる中、とうとうずっと黙ってた従者のフィリップにまで「大丈夫ですか?」と気遣われた。
早足で自分の席に向かい、そしてフィリップがわざわざ引いた席に座りながら、……本当に不思議なくらい目の前のプライドよりもあの夢の主を思い出したくなる。
まるで憂でも晴れたかのように顔色を少し取り戻し笑顔で食事を始めるプライドを見つめながら、それどころではないというのに寧ろ先ほどにも増して気になった。
声の主にもこれくらいの笑顔をさせてやれればと、叶うわけがない希望が胸にぽっと宿った。
書籍が12巻発売です…!
とうとう連続の美しい表紙が完成します。ありがとうございます。
是非、お手元で揃えてご覧ください!