Ⅲ186.担われし者は踏み出し、
「今更そんなこと言われても……困ります。団長は団長ですし、そもそも僕を後継者なんて誰も認め」
「何を言うんだラルク!今日あれだけ観客を魅了した若き猛獣使いを誰が認めないというんだ!!」
………団長は、相変わらず熱量がすごい。
サーカス団に引き取られてから、気付けば二年が経っていた。
団長が熱心に教えてくれたお陰で猛獣使いとしても猛獣達と心を通わせることもできるようになった。初めて鞭を持たされた時はすごく怖くて動物達への命令に使うのも嫌だったけれど、あくまで響かせる音だけで決して猛獣達に向けるものじゃない。最近は鞭も格好良いと思えるようになってきた。
団長に教えてもらうまで、鞭は人を叩くものとしか思わなかった。でも本来は分厚い皮膚を持つ生き物に使う物で、大した痛みを感じるようなものでもない。そして僕は地面に向けて鳴らすだけだ。
猛獣使いはあくまで動物を意のままに操るのではなく、決めた動物と心を通わせた上で合図で動いて貰う主人と動物との信頼を要する連携技。何も知らなかった僕に、団長が猛獣使いとして必要なことを全部教えてくれた。いっそ団長が猛獣使いになれば良かったのにと思ったけど、団長は「私はあくまで団長なのだよ」「私では猛獣使いになれなかった」「団長こそ私の天職だ」と言っていた。
そうして団長に認められてからとうとう今日、僕は初めて若き猛獣使いとして舞台に立った。名実ともに演者としてサーカス団にも認められた。………………演者としては。
「だからって団長を〝父親〟と呼ぶなんて僕にはとても……。どうせ皆勝手にそう思ってるし…………」
「だからこそじゃないか!ここで大活躍したお前が私を父と呼べば良い!そろそろ皆にも息子としてお前を紹介したいのだよ」
団長は、サーカス団の後継者が欲しくて僕を買ったらしい。この二年の間に話してくれた。
団長の家系は代々このサーカス団を継いでいて、自分の子を団長として育てあげるのが通例だった。でも団長は子どもがいないから養子が欲しくて僕を引き取った。
だから皆には僕が奴隷っていうのも秘密にしたかったらしい。あくまで団長の隠し子で血が繋がった実子っていうことにすれば、サーカス団員達も僕が後継者であることに疑問を抱かない。サーカスの団員は逃げる団員と団長が招き入れる団員で入れ替わりが激しいから、このたった二年で僕はもう団長の隠し子として団員に認識された。
団長は肯定も否定もしないでそのままで良いって言うし、僕が勝手に決めることもできないから何も言わないで勝手に広がって固まった。
「それともまさか嫌か?私の子になるのは。私はもうとっくにお前を我が子だと思っていたのだが、もしそうなら悲しい」
「ッそんな。そんな、ことはありません。団長には感謝してますし、尊敬もしてます。ただ、僕はまだ貴方の息子どころか後継者としても…………」
打ち上げ後の深夜、団長テントに呼ばれた僕は誰も聞いていないとわかっていても声が小さくなる。
演目は、確かに上手くいった。ちゃんと段取り通りにできたし、客も喜んでくれた。想像の百倍上手くいって団員にも打ち上げでは立派になったと褒められた。けれど、何が〝できなかった〟かも僕が一番わかっている。
最初に進行役の促しで客前に出た時、幕から出た瞬間に足が竦んで動けなくなった。
進行役に「初めての意気込みは?」と聞かれても頭では覚えていたのに何もでなくなった。進行役が上手く笑いに変えて流してくれなかったらあそこでもう終わってた。挨拶もまともにできなくて、棒立ちで、話しもできなくて、あれは全部僕が子どもだから笑って「可愛い」で許してもらえただけだ。
その後に猛獣達が来てやっと動けたけど、演目が終わった後も猛獣達を帰したら急に怖くなって観客に礼をするのも忘れて幕の向こうに逃げてしまった。
舞台の上はずっと憧れた眩しい世界だったのは間違いないのに、人の目が多いと感じれば感じるほど喋れなくなった。喋らないといけないのに〝喋ってはいけない〟と全身が拒絶して舌が攣って意志を効かなくなる。初めての舞台の緊張とは全くの別物で。
僕は、客前で声が出せない。
団長の一番輝く仕事は、大勢の客の前での開幕挨拶。それがケルメシアナサーカスの伝統だって聞いた。口上を覚えるのはできるけど、それを大勢の前で話すなんて小声でもできる気がしない。
「猛獣達と一緒が良いのなら次からは一緒に来場すれば良い」「客に愛想が無いのも良い!仮面をつけて謎めいた印象をつけよう」と打ち上げで言ってくれた団長も、これだけはどうしようもない。ただ、話さなくて良い演出にするのが精一杯だ。
猛獣使いでいるならそれでも良いけど、……団長にはなれない。観客の前で話さないといけない恐怖感は今も手の平にまでべったり残ってる。
そんな僕が後継者なんて、言えるわけがない。それならいっそ今からでも僕は奴隷で団長と血が繋がっていないって明かしても良いと思う。だってもう猛獣使いになれたんだからこのサーカス団に置いて貰えて、団長とサーカスの役に立てれば充分だ。奴隷の経歴の団員だっているってわかってる今は知られるのもそこまで嫌じゃない。
そんな僕に団長は「ああ良かった!」と両手を広げて抱き締めてきた。
「嫌じゃないのなら問題ないな??そうだな無事猛獣使いにはなれたことだし、今度は私の息子になる練習を初めよう」
なに焦る必要はないさ!と、笑う団長は本当に押しが強い。
僕の意見……いや、僕ら団員の意見を聞いてくれるけど、大筋は押し通す。今も結局僕がすぐに呼ぶのは諦めてくれただけで、僕がいつか息子と呼ぶのは変わらない。
けどこういう人だから、奴隷だった僕は引き取ってもらえた。この二年の間だって、出て行った団員もいるけどそれ以上に団長に拾われた団員も僕以外に大勢いる。ケルメシアナサーカスは昔からそういう場所らしい。
腕に自信があるはぐれ者や行き場のない者を引き受ける。そんな人間で支え合って大勢の客を笑顔にしながら各地を巡る。
前の家を、……探そうと思ったことはない。家名は思い出せるけど家の場所まではわからない。家名と商会で調べれば見つけることは難しくなくとも、戻りたいとまでは思わない。
団長が引き取ってくれた日から僕の家はサーカスだけだ。あの母と奴隷達にも、復讐しようと思えたこともない。奴隷達は主人の命令に逆らえないのを僕は一番よく知っているし、きっと幼い僕も知らずに彼らを傷付け踏みつけにしてきた。母も、…………………僕が邪魔だったのなら仕方ないと思う。
せめて父さんが人生を賭けた商会と家だけでも守ってくれれば嬉しい。
「まずは私に父親呼びが効果的なことを覚えておくと良いぞラルク!お前が父と呼んでくれたらどんなおねだりでも聞いてやろう!欲しい物だって買ってやるぞ?」
「甘やかさないでください……。うちのサーカス団は金がないんだから節制しないと」
本当に困った人だ。
古株の団員や幹部曰く、ケルメシアナサーカスの方針は変わらない。だけど団長は特に変わり者好きらしい。慕う人はどこまでもついていくけど、そうじゃない人は長続きしない。
世代交代後に団長が好き放題し過ぎて、先代からの人気団員も殆どが出て行った後だ。先代からいた団員も今残っているのは一部の演者とあとは下働きが殆どだ。
今の団長はサーカス団員の素質が無くても困っていたらサーカスで引き取る。孤児や浮浪者でも受け入れて、暫く面倒みる間に食べるだけ食べて逃げられたりお金を盗んで逃げられることも珍しくない。
その度に団員に怒られるのにやめようとしない。ただ、やっぱり団長としての才能はあるから、開いた公演は大盛況になる。二回以上開演すれば、一回目は客が少なくても次は殆ど満員になる。客が客を呼び、一度訪れたことのある土地には訪れる度に客もサーカスへの期待も膨らんでいく。
団長が一度決めた人選や演目に狂いはないし、演出だって言われた通りにした方が客の反応が違う。
『ケルメシアナサーカスは居場所を求めし者を受け入れる為の場所なのだよ』
そう断言する団長の言うとおり、このサーカス団の中では上下関係はあっても差別はないし誰か一人だけが虐げられることもない。そして団長はそうすることができるだけの手腕がある。
けれど僕はここまでなれる自信がない。団長としてより猛獣使いが落ち着くし、団員も僕を団長の子どもとは思っても次期団長なんて認めてくれる気がしない。口上挨拶どころか観客の前で一言も話せない、団長がやってるような演目や演出とかも考えられない。
団員とも話せるようになった相手は少ない。団長になるのはもっと堂々としていて自分に自信がある人間が相応しいって僕でもわかる。昔から人に何でもしてもらって、奴隷になって言われた通りに動くしかできなくなってそれすらまともにできず処分されかけた僕なんかじゃなくて。
「……欲しいもの……」
そう思った瞬間、不思議と頭に浮かんだのは黄色の目をした奴隷だった。
彼は今頃何をしているのだろう。
ずっと思い出すのも嫌だった収容所だけど、無事に猛獣使いになれたからか少しだけ思い出せた。舞台に立つまで猛獣使いになることだけを考えてきた分、少し余裕ができたのもあるかもしれない。
僕と同じ収容所に居て、先に出荷された少年。当時のことは悪夢のようであまり思い出せないけど、彼とネズミのことは思い出せる。
彼は僕よりもずっと奴隷として優れていたから、きっと高額で売り出されている。今もどこかで奴隷として働いているのだろう。収容所の生活こそ地獄だったけど、優秀な奴隷ほど高く売られる。そして高く買われた奴隷ほど余程の主人でなければ粗雑には扱わない。
せめて、元気でいて欲しい。
考えて少し呆けてしまえば、団長に顔を覗き込まれる。きらきらとした目で「あったか?」と尋ねられた。いつもは「食べたいもの」とか「希望があれば」とか殆ど「無い」で通してきた僕が今回は即答しなかったから勘づかれたらしい。
「何が欲しい?新しい動物か?猛獣か?衣装か!嬉しいなお前は本当に何も欲しがってくれないのが寂しかったのだよ。ほらほら今こそおねだりの好機だぞ!!」
「寂しいって……僕はもう充分恵まれているって言ってるだけじゃないですか……。別に不満があるわけでもないのに……」
そんな僕が冷たく遇ってるような言い方をされるのはちょっと嫌だ。
引き取られた当初は、希望を言うどころか声を出すことすらまともにできなかった。話せるようになった後もいつ愛想をつかされて売られないか怖くて希望なんか言えなかった。
僕が何も言わなくても誕生日は動物系統の贈り物も贈って祝ってくれるし、食事らしい食事も水もくれる。僕を殴る人もいない。
この二年ずっと団長テントで寝泊まりさせてもらっていたけれど、今日からとうとう演者として個室テントも与えられた。何よりわざわざ触れ回らなくても、僕にとっては団長はとっくに父親だ。僕自身が団長の息子として不足でも、団長は僕の父親としてこれ以上ないくらいのことをしてくれている。
僕だけじゃない、結局団長を父親のように慕っている団員は多い。この人は僕を引き取る前から子どもであろうと年齢も過去も関係なく引き取っている。わざわざ店にまで来て買ったのは僕ぐらいなだけで。
もう団長に売り飛ばされるなんて思わないけど、奴隷だった僕を引き取ってくれた団長にこれ以上欲するのも贅沢だ。ただでさえサーカス団の経営状況も安定しないのに、僕の為に使うべきじゃない。……僕の為、には。
「それでそれで??なんだ何が欲しい??」
「…………………………」
僕の言い分も聞く耳持たず、首をにゅっと伸ばす団長に唇を絞る。もう、一度すぐに断れなかった時点で無理だ。
ここで何と言っても団長は毎日聞いてくる。既にもうサーカス団員の前で僕に構い過ぎるところがあるのに。ちょっと前まで食事の度に僕に「これが好物か?!」と聞いてくるのが習慣化してたくらいの人だ。
まぁ良い。どうせこれを言ったところでねだる迄もなく団長も無理だと諦める。そう心で先に結論づけて僕は、僕を息を細く吸い上げる。「ものではなけど」と断れば、可否の前に「やはり動物か!!」と返ってきた。動物も猛獣も今の彼らで充分だ。
ここが団長テントで、誰もこない夜で良かった。そう思いながら僕は声を抑えて団長に話す。団長に出会うよりずっと前、幼い頃に収容所で出会った四十六番のことを。
収容所での生活も、その前に家族が居たことも団長には話したことがなかった。団長が聞いてこなかったし、何より僕を「息子」にしたいと言ってくれている団長に、前の家族の話をするのも悪い気がした。
今も団長に話すのはあくまで収容所での四十六番の話だけ。僕が何もできない役立たずで年の近い奴隷に虐められた時に助けてくれた少年がいたこと。もし叶うなら、彼も奴隷という立場から脱しさせてここのサーカス団に置けたら良いのにと思ったと。勿論、そんなことが無理なのはわかってる。
僕と彼が収容されていたのがどの地の収容所かさえ僕は覚えていない。その後売り飛ばされた店も収容所の系列だとすれば団長はわかるかもしれないけれど、収容所から一介の奴隷の買い取り先を探すなんて不可能だ。売られている間ならまだ探しようはあるけど、売れた後の行方なんて誰もわかる筈が無い。
話していくうちに団長も最初に見開いていた目が嘘のように眉が垂れていった。やっぱり流石の団長もこれには
「……それは、茶の髪と黄の瞳を持つ少年か?」
何故そのことを。と、突然言い当てられたことに思わず声が大きく出た。
その子の容姿までは話してなかったのに、何故団長がわかったのか想像もできない。
問い返す僕に団長は答えない。「そんなことが」と、口の動きと一緒に微かに息の音が聞こえた気がした。下がった眉と一緒に、珍しく表情全体までが曇り出す団長はさっきまで輝いていた目が微弱に揺れていた。
大きく息を吸い上げたと思えば僕から逸らすように目を伏せ、今はもう帽子を脱いだからそのまま頭を片手で押さえて肩まで落ちる。こんなにも団長が悪い感情を露わにするのも珍しい。
明らかに反応がおかしい団長に、もう一度同じ問いを投げ掛ける。まさか覚えがあるのか、当てがあるのか。だけど、どうして僕の話だけで彼だとわかったのかがわからない。酷く胸騒ぎがして頭から今度は口を片手で覆い出す団長の肩を掴み、俯けられた顔を下から覗けば………今まで見たことのない表情に歪んでいた。
まるで父さんが病気で倒れた時のように灰色の顔色と酷い汗に、心臓が跳ねた。一瞬、本当に病気じゃないかと思う。
団長を呼び叫ぶ僕に「だ、大丈夫大丈夫だ」「ちょっと腹が減ってね」「年かな」と俯いたまま乾いた笑いを溢す団長が、誤魔化す為だと確信する。なんでも誤魔化すこの人が目も合わせられない嘘なんて相当な時しかない。
絶対四十六番に何かあったのだと、せき立てられるように僕は団長の両肩を掴み押さえる。
「団長、教えて下さい。お願いします。四十六番の何を知っているのですか。今生きてるんですか」
「この話はまたにしようラルク。今日は疲れただろう、今日はせっかくの自分の城を満喫すると良い」
またにできる訳がない。
明らかに狼狽えた声笑って出口に僕を誘導しようと肩に手を手を回す団長に、僕は食い下がる。こんな状況で満喫なんかできるか。今こそ目が泳いでいる団長を、ここで逃したらきっと明日には全部しらばっくれられる。
奴隷の四十六番が、どういう人生かなんていくらでも良くも悪くも想像できる。今までどこかで奴隷としてでも悪くない扱いで生きていると信じていた四十六番がもう死んでるんじゃないかとまで考えられた。いくら優秀で僕らと同じ人間も、奴隷でいる限り〝物〟として扱われる。
それとも、生きてて団長が彼とその居場所も知っているのなら本当に助けられるかもしれない。決して親しいと言えるような相手ではないけれど、あの地獄で唯一助けてくれた人だ。恩を返すことができるのなら演者として立場も得られた今からしかない。
それなのに団長は頑なに言おうとしない。「今日はもう遅いから」「さっきのは忘れてくれ」と僕の目もまだ見てくれない。目を合わせたくない相手と目を合わせるのがこんなにも難しいことなんだと今思い知る。
団長、団長お願いしますと何度重ねても団長は皺の入った額を湿らせるだけで口を閉ざすから。
「ッ〝父さん〟……っ。お願いです。四十六番のことについて、隠さず教えて欲しい」
「……今それを使うのは、……ずるいな。……」
ついさっき教えられた切り札を使った。引き取られて初めて団長を口で父さんと呼ぶ。
やっと顔ごと目をゆっくりと僕へと合わせてくれた団長は、眉を垂らしたまま笑いながら目はどこか虚ろに見えた。もともとの年齢よりは若々しく見える顔が、今は皺が際立って見えて数秒で酷く衰えたかのようだった。浅く息を吐く姿が、胸が苦しくなるほどに陰鬱そのものだった。
わかったよ。と、そう言って促そうとしていた僕の肩を一度ポンと叩くとそこで手を離した。
帽子掛けに置いていた帽子を手に取り被り、上着の襟を立てる。まるでこれからまた外に出るような仕草の後に、団長はどこに向かうでも腰を落ち着けるでもなく僕を見据えた。椅子に座るかと聞かれ、首を横に振る。とても落ち着いてきいていられる気がしない。まさか四十六番の行方をこんな近くで知っている人がいるなんて思いもしなかった。
全てを話そう。そう言い切った団長に、後悔するぞ覚悟はあるかと言われ心臓が早くもバクついた。初めてサーカスに訪れた日も、猛獣使いになる為に猛獣の檻に入った時も今日の本番で舞台の出番が近づいた時もこんなことは一度も言われなかった。それを、開演挨拶とは打って変わった冷気のような静かな声だ。
最悪の結末も覚悟して頷いた僕は、団長の語り出しに口の中を噛む。客の前とも違う肌触りで、同じくらい流暢に鮮明に色鮮やかに語る団長に息も止める。
始まりは団長が団員の誰にも秘密で後継者を探すべくあの店に足を踏み入れた瞬間から、そこで出会った僕──じゃない。
覚悟よりも現実の方が、残酷だった。