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Ⅲ184.担われし者は見つかった。


幼い頃のことは、あまり覚えていない。


死ぬほど苦しい時にだけ都合良く浮かぶ記憶が自分の中の妄想なのか記憶なのかも、いつからか自信が持てなくなった。

もしそれが妄想じゃないのなら、僕はもともと奴隷じゃなかった。普通……だと思うけど、家があって使用人の奴隷を何人も持っている暮らしだった。僕専用の奴隷もいて、僕を産んですぐ亡くなってしまった母さんの代わりに世話をしてくれる優しい奴隷がいた。それに動物が好きだった僕に父さんは犬と猫に鳥、馬も買ってくれたから寂しくなかった。

商人だった父さんは、母さんからの贈り物だと言って僕を大切にしてくれた。そんな父さんが好きで、自慢で。奴隷達は皆僕の言うことを聞いて動物達は友達で家族で、父さんが留守の家は僕が王様の暮らしで、とにかく幸せだった。


あの頃は奴隷は〝そういう生き物〟で、動物と僕ら人間の、その中間にある別の存在だと漠然と思っていた。

言うことをなんでも聞いてくれる、そしてなんでもできる便利な存在だ。勉強を教えてくれる奴隷も父さんが買ってくれた。

九歳の頃、父さんが「そろそろお前にも」と言って紹介してくれたのが新しい母さんだった。とても綺麗な人で、父さんを仕事でも支えてくれた優秀な人だったらしい。僕も家族が増えるのは嬉しくて、顔を絵画でしか見たことのない母さんよりもすぐに目の前の新しい母さんが好きになった。一緒に家に住むようになってからも毎日綺麗な服に身を包んで、父さんときらきらした仕事の話をして、僕が体調が悪いとすぐに気付いてくれて、父さんが病気になった時も毎日必死に看病した母さんは




父さんの葬式を全て終えた日、僕を奴隷商に売った。




父さんの病気は何人も医者に見てもらったのに誰にも治せなくて、あんなに優しかったと思った母さんは父さんが死んだ瞬間に人が変わった。

父さんが死んで悲しかった僕は母さんに怒鳴られてももう悲しい寂しい以外わけがわからなくて「この屋敷も商会もアンタなんかにやるものか」と言われても異国の言葉のようだった。父さんが死んでたくさん泣いていた人が、今まで見たことないような怖い顔で父さん似の僕を見下ろした。……ううん、これがもしかしたら妄想かもしれない。だって、あの人は本当にそれまでは僕にも父さんにも優しかった。

「なんでこの私が未亡人に」「まだ子どもをつくってもいないのに」「一緒に商会を大きくしようと言ったくせに」「せっかくここまで来たのよ」「あの人の遺したものは全部私のものだ」「未亡人にして子どもなんか押しつけやがって」「騙された」と怒鳴られて髪を引っ張られて頬を叩かれて、……奴隷達に僕を売ってくるように命じた。


犬も猫も馬も鳥も屋敷も全部奪われて、僕の言うことを全部きいていた筈の奴隷達は誰も僕を助けようとしてくれなかった。

嫌がる僕を新しい母さんの言うとおり、全然迷う様子もなく奴隷商へ売りつけた。僕が「やめて」「家に帰りたい」と言っても、誰も目も合わせてくれなかった。屋敷から引張り出される時に、何人かはちょっと笑っていた。でも多分あれも僕の気のせいだ。だって奴隷達はそれまでずっと何年も嫌な顔一つしないで僕の言うことを聞いていたんだから。


頭が真っ白なまま僕は、奴隷になった。

奴隷商に入って、収容所に連れて行かれてから番号だけ付けられた。これからはその番号で呼ばれたら返事をしろと言われて、いつまでここにいれば良いのかわからないまま毎日汚い場所で汚くて不味い食べ物で、よくわからないことばかりやらされた。

いつになれば帰れるのかとか、いつになったら奴隷は終わるのかとか、別の部屋が良いとか別の食べ物が食べたいと言ったら蹴られて殴られて鞭を打たれた。僕はもう〝奴隷〟で逆らっちゃ駄目なんだと教えられた。

僕は売られて、もう塀の向こうであった生活は全部嘘で夢で僕の妄想だって言われた。「お前は奴隷だ」「奴隷の分際で」と毎日何度も何度も繰り返された。


僕は、何もできなくて。


「不良品」「欠陥品」「ゴミ」と何度も言われた。

家で学んだ勉強も読み書きや足し引き以外は殆ど役に立たなかった。まだ僕は九歳で、難しいことは十歳になってからちゃんとした家庭教師を雇って教えて貰う筈だった。大きくなったら父さんが仕事にも連れて行ってくれるって、いつか僕に継がせてくれるって言ってたのに。


文字を書くのも、足し引きも、収容所に入ってから全部駄目になった。

監視や教育係に見られてると思うと手が震えて頭が白くなって、いつまた殴られるんだろうと思ったら怖くてペンすら上手く握れず何も書けなくなった。文字の読み方も、口に出そうとしても睨まれると怖くて、間違ったら殺されそうで、舌が痺れてしゃべれなかった。書けないとしゃべれないとそっちの方が酷い目に遭うのに、怖くて手足がかじかんで震えばっかで何もできなくなった。


大人に見下ろされると時々母さんを思い出して、怒鳴られると身がすくんで立っているのがやっとだった。

頭ではわかるのに、結局僕はどれも〝できない〟と大人に決められて、一番汚くて臭くて気持ち悪い仕事を覚えないといけなくなった。力も弱い僕にもできる仕事だけど、……代わりに毎日吐いたり吐きそうになって、段々何も考えることをしないようになった。

出された奴隷用〝餌〟は僕が知る食事じゃなくて、だから不味くで口に入れても吐きそうになって、どんどん手足も細くなった。家で毎日解かれていた髪も伸びてぐちゃぐちゃになって、でも前髪が伸びると人と目を合わせなくて良いからそのまま下ろし続けた。

大人と目が合うだけで息をするのも怖くなってきた。怖い声を聞くだけで、頭が真っ白になって考えられなくなる。

就寝時間や自由時間にネズミとお話しすることだけが幸せだった。僕が食べれない餌を食べて嬉しそうに尻尾を振って、チューチュー言う可愛い生き物が好きだった。このまま消えちゃいたいくらい辛い時は家での暮らしや父さんを思い出して母さん……今まで恋しく思うこともなかった〝最初の母さん〟に会いたくなった。父さんよりもお姉さんで強くて優しくて、若い頃にやりたいことを全部やって最後は僕を命懸けで産むと決めてくれた人。僕が生まれる前から僕を大好きでいてくれた人。

父さんと最初の母さんが迎えにきてくれて、抱き締めてここから連れ出してくれる日を何度も何度も思い浮かべた。


『ははっ!ガイコツ!ガイコツ!!』

『なんで目玉ついてんだよ骨のくせに!!』

『ほじくってみようぜ!』

僕は家でも奴隷を虐めたことなんかなかったのに、自由時間にネズミを探していたら急に奴隷に虐められた。

大人よりは小さいけど、僕よりも身体が大きくて力も強い子達に押さえつけられたらすごく怖くてそれだけでもう息が苦しくて立てなくなった。目玉をと言われて、目が取られるのが怖くて必死に地面に隠したのをよく覚えている。

奴隷が助けてくれないのも、大人が助けてくれないのももう嫌なくらい知っていたから、ただただ目をほじられないことだけを考え続けた。ぎゅっと目を瞑りながら、ここでネズミ達が助けにきてくれるのを想像した。僕から餌を貰ったネズミ達が大群で現れて、虐める奴隷達をやっつけて、塀を囓って大きな穴を空けて、大人達を倒して僕を連れ出してくれる。そんなことを考えて考えて必死に目を守り続けていた時だった。……茶色髪の子が助けてくれたのは。

同室の子で、でも話したことはなかったその子は奴隷なのにあの子達を追い払ってくれた。確か番号が、四十六番。……これも、妄想なのかな。あんな都合良いこと、今でもあったなんてちょっとおかしい。あの子達に虐められる前から、僕は毎日が地獄だった。

だから助けて貰えた理由がわからなくて、あの子達と同じ奴隷なのに僕の味方になってくれて手を引いて立たせてくれたその子が不思議だった。

土汚れまで払ってくれるのが嬉しくて、ちょっと前までは当たり前にやってもらっていた筈のそれに胸がなんだか温度がもどってきた。


『え゛ぐっ……ひっ……っ。……な、なんっ……僕、話……たこと、なッのに……』

〝なんで助けてくれたの〟〝僕、君と話したこともないのに〟

そう言おうとしても、とっくに泣きすぎてぐちゃぐちゃの喉だった。しゃっくりも全然止まらなくて引っかかって喋れなかった。簡単な言葉すら喋るだけで苦しかった。


『三日前病気になった奴隷、今日処分されたやつ。お前弱そうだから次目ぇつけられたんだろ』

返された言葉は全然僕が尋ねたのと違うもので、当然答えになっていなかった。

なんでもないことみたいに僕の土埃を払ってくれた四十六番はその後もぐずぐずしか喋れない僕に返事をしてくれて、すごく久々な人との会話だった。今まで大人に話しかけられても怖くて声が出なくて、年が近い子はみんな奴隷だからネズミしか話し相手がいなかった。

僕と年も近いように見えるのにすごく大人っぽくて強くて優しくて。それで、すごい淡々とした子だった。

まるで、人じゃないみたいに。

奴隷のことについても詳しくて、処分されないように注意してくれて、……奴隷がどんなのか知ってる筈なのに、全然嫌そうでもなく当たり前みたいに「処分」とか死んじゃうことを話すから。


『…………なん、で……君、は平気なの……』

つい、聞いた。

こんな汚い場所で不味い餌で、ペットよりも酷い扱いされて、叩かれて怒鳴られて、自由時間がたまにしかないこの暮らしでなんで平気でいられるのかわからなかった。

その子は他の奴隷と違って僕を助けてくれるような〝普通の〟子なのに、なんでこんな怖い場所で平気でいられるのか不思議だった。

処分が殺されちゃうことなのももう知っていた。ちょっとしたことで殴られて怒鳴られて、ちょっとしたことで殺される。狭い場所に押し込められて、楽しいことなんて何も用意してもらえない。人間に優しくしてもらえないこの場所で、何を支えに頑張れば良いかも僕にはわからなかった。


『ハァ?お前よりでかいし頭も良いから。俺は経理奴隷だから売られる時はちょっと高めだし』

でも、その子から返されたのはまたわからない答えだった。

僕より大きくても頭が良くても売られる額が高くても、ここの暮らしが辛くて苦しいのは変わらないのに。奴隷がずっと働かないといけなくて、遊んじゃいけなくて好きな時に休んでもいけなくて、人と動物の間みたいなものなのに、それなのになんで奴隷でいることが平気なのか聞きたかったのに。


『奴隷の何が嫌なんだよ。その為に生かされてるんだから仕方ねぇだろ。俺らそれしか役に立たねぇんだから』

いやだ。そう、すぐに思った。

生かされてるって、僕はここに連れてこられる前にもずっと生きていたのに。

もっとずっと幸せで、何もしなくてもできなくても皆が褒めてくれて優しくしてくれて楽しかったのに。なのに仕方ないなんて言われてもわからない。僕はまだ九歳で、父さんは「これから」って何度も言ってくれた。そんな、奴隷になる為に生かされなくても、別の場所でもっと幸せで温かいところで生きていたし今だってそこに行きたい。こんなところからすぐに出たい。

いつになれば誰が迎えにきてくれるのかもわからない。このまま奴隷になったら、あんな風に自分の為に何かすることなんか何もできなくなっちゃうのに。


僕がいるだけで嬉しいって、頑張れるって父さんは言ってた。母さんは僕が産まれて欲しいから命をかけて産んでくれたって言ってた。だから大事だって、何もできなくても大事っていってくれた。

「おかえりなさい」って言うだけで喜んでくれた。天国にいる母さんは僕が元気に良い子で大きくなってくれるだけで喜ぶって父さんは何度も何度も言ってた。


そう言いたいのに、「でも」ばっかで思った言葉が口では言えなかった。

助けてくれたその子に言いたいことがいっぱい浮かんでも、言葉にするのがもう難しくて。先にその子がどっかに行っちゃいそうになって、慌てて腕を捕まえたら僕が転んだ。でもちゃんと教えてあげるまで行って欲しくなくて頑張った。

奴隷は普通なんかじゃなくて、ここから出ても同じなんだよって。ここの外の暮らしはもっと〝普通〟で楽しくて楽なんだよって、収容所や檻なんかじゃなくて父さんや母さんのいる家に帰るのが〝普通〟で、奴隷じゃないなら僕らみたいな子どもは何もできなくても良いんだよって、外には美味しいものもあるしベッドで寝れるし鞭も振られないし殴られないし怒鳴られない




役に立たなくても生きてて良いんだよって。




『やだ!!!!!!』

やっと言えたと思ったら自分で言ってるのに苦しくて、悲しくなった。

父さんのことを口にしたら今までで一番父さんに会いたくなった。父さんと僕との暮らしに戻りたくなって、僕はこんな生活が嫌なんだって気持ちがあふれ出した。

家に居た頃は当たり前だったことが全部駄目で怒られてできないことがすごく嫌になって、今やらないといけないことが毎日よりももっと〝今〟思い出すだけで辛くて辛くて堪らなくなった。胸がちぎれちゃいそうで、お腹の中がぎゅっと痛くて、喉が燃えてるみたいに熱かった。

今これが全部僕の悪い夢で、目が覚めたらベッドで寝てたら良いなと思うくらい暴れ出したいくらい嫌になった。手足が邪魔なくらい痺れた感じがして、途中から思ったまま叫んだ。前の家に戻りたくなってこんな暮らし今すぐやめたくなって、…………目の前の四十六番が奴隷になっちゃうのも怖くなった。


こんなに〝普通〟で僕を助けてくれるような優しい子なのに、この子まで大きくなったら奴隷に〝されちゃう〟のが自分のことみたいに嫌になった。

僕の家の奴隷にも同じくらいの年の子はいたけど、僕が遊んでる時も仕事をしてて、僕が寝る時も起きてて、汚い床を掃除して、暑い日は手が痛くなっても僕を扇ぎ続けて、寒い日にマフラーもつけられなくて薄い服でも平気でいないといけなくて、本も読めなくて僕のペットを勝手に触るだけで怒られる。

もう僕は奴隷のあれが全部〝普通〟で〝平気〟だったんじゃないってわかったから。

奴隷は僕と同じで疲れるし暑いのは暑いし寒いのは寒いしお腹も減るし眠い時は眠い。なのに、目の前のこんなに〝普通〟で優しい子があんな奴隷になってこれからも辛いことばっかりなのが嫌で嫌で仕方が無かった。優しい人はずっと優しいところにいて欲しいのに。


叫びだした瞬間からその子に言ってるのか、ただ叫びたいだけなのかもわからなくなった。

気がついたら掴んでいた筈のその子は離れてて、僕はまた地面に転がってた。あの叫んでいる間、何が起きてたか今でも思い出せない。

ちょっと前までは口にすれば殆どが叶ったのに、今は何も叶わない。自分で言ってて苦しいまま何かに急かされた。口を動かせば前の家の暮らしばっかが浮かんできて、自分でも何を言ってるかわからなくなった。いつの間にか自由時間が終わって、また大人に「早く戻れ」って怒鳴られて蹴り上げられて喉をしゃくり上げたままふらふらで戻った。

泣きすぎて、檻で四十六番に会ってもそれまでのが現実だったかも思い出せなくて話しかけられなかった。もう毎日妄想ばっかりしてたから、本当は奴隷に虐められたまま蹲っていただけであんな妄想してただけなのかなとも思った。

あれが妄想じゃなくて本当だったんだって思ったのは次の自由時間。また虐めてきた奴隷から四十六番が助けてくれた時。お礼を言っても、どうしてまた助けてくれたのって話しかけても聞こえないみたいにいつもどっか行っちゃったけど、虐められる度に絶対助けてくれる四十六番は本の中の人みたいだった。家で読んだ、何度も出てくる一番優しくて困ってる人を助ける格好良い人だ。…………どうしよう、やっぱりこれも妄想かな。



「………………………………………………………………」



口が、乾いてる。喉も、唇も、カラカラして水を飲まないとと頭ではわかるのに動けない。

四十六番が助けてくれるようになってからすごく嬉しかった筈なのに、最近は上手く思い出せない時がある。

あれからもずっと大人に「妄想だ」「お前は奴隷だ」って言われ続けてて、僕の昔の家も僕が辛くて考えた妄想なのかなと思うことが増えてきた。

あの頃は本当で、ちょっと前のことで、信じていたのに今はそんな証拠どこにもない。僕が覚えている記憶だけで、何もない。今だって僕を迎えにきてくれる人はどこにもいない。でも、あの収容所での辛い暮らしは全部本当だ。悪夢だって何度もみる。


四十六番が虐める奴隷から助けてくれても、僕が覚えなきゃいけないことは変わらなかった。ちゃんと読み書きも足し引きもできる筈なのに、できないことしかないと決まってから汚くて気持ち悪くて嫌なことを毎日やった。

昔は好きだった「人をよろこばせる」方法であんなやり方知らなくて気持ち悪くて〝人〟が嫌いになった。

それでも、あった筈の帰る家の思い出と、ネズミと、助けてくれる人がいたことを支えに頑張れた。

でも、途中で四十六番がお別れも言えずに出荷された。僕を虐めてきた奴隷はもう別の小さい子を虐めてて僕は狙われなくなったけど、友達だったネズミは大人に見つかって踏み潰された。毎日僕は奴隷だ奴隷のくせに奴隷の分際にって言われて、段々僕は僕の思い出が信じられなくなってきた。


僕は最初から奴隷としてどこかから産まれて、辛くて汚いこの暮らしが嫌で妄想でそんな思い出を作ったのかなって。そう思ったら、どんどん自分が〝奴隷〟で空っぽなんだとわかってきた。

ちょっと昔は、もっと色々考えられた筈なのに最近は空っぽで何も考えられない。

出荷された後、また別の檻に入れられて色々な人が店に買いに来た。でも、僕を買おうとする人は現れなくて、買いに来るのはみんな僕の父さんみたいな普通の人に見えたのに誰も僕を助けてくれない。気持ち悪い、骨みたい、生きてんのかって言って指を差して笑った。僕も奴隷として買って欲しくなくて、……収容所で教わったことをするのが嫌で気持ち悪くて、人の目も怖くて顔を向けるどころか目を合わせるのも血がどくどくいって嫌だった。


もうどれくらいここに居たのかわからない。

もしかして産まれてからずっとここにいて、収容所のことも妄想なのかもしれない。僕はずっと奴隷で、奴隷として産まれててと思って、……また目を閉じる。

他の奴隷に目を付けられないように虐められないように、買いに来た人にも目がつけられないように檻の隅の隅に膝を抱えて小さくなり続ける。餌の時間だけちょっと食べて水飲んで、それでまたお腹が減らないように動かないで喉が渇かないように口を閉じる。そうやって、誰の目にも届かないようにする。

目を閉じたら想像の中で〝は〟僕は人間で、大好きな父さんがいて、帰る家がある。温かいベッドの匂いを知っていて、美味しい料理も甘いお菓子も食べたことがある。プリンって食べ物が特に美味しくて、口の中が幸せいっぱいに溶けそうになる。

いつかは父さんが迎えにきてくれて、僕を抱き締めて家に連れ帰ってくれる。そんな、そんな妄想に逃げて、役に立たないゴミクズ奴隷の僕はいつか処分される日をただ待っ







「〝ラルク〟はいるか?」







瞬間、心臓が止まった。

呼ばれた言葉に顔が気付けば上がっていた。瞼も開いてて、抱えた膝のまま声が聞こえた先を見る。遅れて空耳か聞き違いかと思う。でもすごく聞いたことのある、懐かしい名前が聞こえた気がした。

視界の先には、いつも通り檻の前で客が僕らを覗き込んでいた。父さんみたいにちゃんとした格好のおじさんがこっちを見ていた。急に話しかけてきたおじさんに、僕以外の奴隷も皆が顔を向けていたけど返事はしない。

話しかけてくる客はいる。だから餌目当て以外は自分を買って欲しい奴隷ほど鉄格子の手前にいる。僕のいる檻は殆どみんな僕みたいに動かなくて喋らなくて下を向いているばっかの奴隷だけど、それでも大きな声で話しかけてきたおじさんにはびっくりしたようだった。だって、いきなり知らない言葉を言われたんだから。


ラルク、ラルク、ラルクらるくラルク。


なんだっけ。言葉?名前??聞いたことがある筈なのに思い出せない、すごく遠い、本当に夢の中で聞いたような雲がかった言葉だった。

僕が知ってるものか自信もなくて、口が小さく開いたけどそれ以上動かない。舌の動かし方もわからなくて、顎に力が入らないままおじさんを穴が空くほど見続けた。誰からも返事がないのにおじさんは僕らの檻を隅から隅まで見ながらまた口を開く。


「ラルク!ラルクはどの子だ?君、は違うなもっと若い子だ。男の子だ。ラルク、返事をしてくれ。手を上げるだけでも良いぞ!ラルク、ラルクは─……………………嗚呼」

きょろきょろと奴隷の影に隠れた奴隷も顔の角度を変えて覗き見ながら、その名前を呼ぶおじさんの目が途中で止まる。

一番後ろの隅にいる僕に気がついて、じっと見つめてきた。なんで僕で目が止まったのかもわからなくて、でもおじさんから僕も目が離せない。あんなに合わせるのも怖かったのに、今は魅入ったみたいにおじさんに目が刺さってしまう。その名前が何なのかも僕は思い出せないのに、おじさんはまるで確信したかのようだった。

とても優しい眼差しに緩められて、僕の乾ききった喉が上下した。にわかに開いたままの口に、急に水が伝った。いつもと違う味がすると思ったら、目から零れた水だった。

枯れて、枯れて、水も殆ど飲んでなかったのに、嘘みたいに目から涙がいつの間にか溢れてた。瞼がないまま、段々視界が滲んでおじさんの顔も見えなくなった。



「君がラルクだね。おいで、一緒に帰ろう」



ただ、檻の隙間から伸ばされた手の眩しさははっきりわかった。

ずっと、長い長い間掛けられなかった優しい声を浴びて、お迎えが檻の外なのか天国かもわからなくなる。

なんで涙がこんなに溢れるのかもまだわからない。ただただ〝ラルク〟という名前が懐かしくて、叫び出したくなるほどずっと欲しくて聞きたくて呼ばれたくて呼ばれたくて堪らない響きだった。


忘れていた。遠い夢で妄想で想像で空想だと思っていた昔の、僕の名前。

四十四番じゃない。父さんが呼んでくれていた僕だけの、僕の名前。


伸ばされた眩しさに、目が眩みながらも手を伸ばす。握った手が大きくて強くて暖かくて、本当に父さんの手のようだった。

神様のようなその人に骨と皮で縋り付いて、開かれた檻で何年かぶりに抱き締められた。

檻から出ただけでまだ店の中なのに、そこはとても明るくて温かくて別の世界のようだった。神様が店主に「いえ焼印は結構」「ええこの子が良いのです」「私の運命だ」と言ってるのを聞きながら僕は人形みたいに棒立ちで、涙でぼやけた光の世界を漠然と見つめる。ガチャンガチャンと、少しずつ首や手足が軽くなる。

〝どうして〟とか〝なんで〟とか〝だれ〟とか、ぽこぽこ浮かんで泡みたいにパチンと消える。頭が辿りつかない。ここが夢が妄想か現実かまだわからない。

ただ抱き上げられた瞬間、この神様からもう離れたくないと思った。



「さぁ、行こう。ラルク、私達の家へ帰る前にまずは共に暮らすことから始めよう」



……ラルク。

産まれた時から変わらないずっと変わりたくない。

二人の父さんがくれた、僕の名前だ。


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ほんとセドリックの言うとおり、奴隷制は奴隷になることと隣合わせ…「何人かはちょっと笑っていた」ゾクッとしました。 てっきり義母が実父計画殺人かと思ったけどそこまで救いのない話じゃなかった、いやでも結局…
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