そして受け止める。
「あの女、殺したいっ……!殺したい殺したい殺したい殺したいっ……潰して!砕いて!!野良犬の餌にしたいっ……あんな、あんな奴なんでっ……」
小さくなった全身から、殺気が膨大に膨らんでいくのをアレスは肌で知る。
ガリガリガリとシーツを引っ掻いたまま小刻みに繰り返せば古い布地が裂け、穴が空いた。
こんなに憎しみを滲ませたラルクは、アレスも知らない。奴隷だった彼は嘆くことはあっても憎しみなど知らなかった。
殺したい、殺したい。そう、息を吐く回数と同じだけ溢し出すラルクに、自分も叶えられるならそうさせてやりたいとアレスは思う。
自分の知るオリウィエルの命の価値などその以下でしかない。ここで、オリウィエルの髪を引っ張って引き摺り出して、殺して埋めたらどれだけ胸をすくだろうと考えれば今すぐ実行したいほどに手が疼いた。
自分だって殺したい。「許せない」などという優しい言葉で済ませられるほどの軽さではない。もっと重く、そして血の匂いがへばりつく気持ちがべったりと腹の底に残っている。
団長のこともラルクのこともそして自分の私怨も全て汚く混ざり、濁っている。
「なんでっ……殺せたのに!!殺せたっ…………さっきまでは殺せたっ、殺して良かった……。……………………あの女の為になら……!!」
相反する言葉が絡み、本心が地の底のような声で空気を鳴らした。
まるで今も手に汚れがついてるかのように、ラルクは手のひらをべったりべったりとシーツで拭き取るようになすりつけた。
オリウィエルに操られていた間は人殺しも厭わなかったラルクが、……今はもう殺せないのだとそこでアレス達は理解する。
可能不可能の問題ではない。ただ、もう殺せない。今の彼が正気である何よりの証だった。
手の平も手の甲も叩きつけるように拭った後、今度はグシャグシャと音を立てて髪を掻き乱した。「気持ち悪い」「気持ち悪い」「やだ」と嗚咽まじりに聞こえる言葉が、子どものように弱い。
アレスに掴まれた両肩はそのままに、全身の至る所に目に見えない泥でもついてるように暴れ出す。鼻を啜った音が、途中で足りなくなり袖で拭う。視線がアレスでも膝でもなく、行き場のない空へと泳ぐ。焦点も合わない視線は部屋の何も見ない。
視線が上がり、顔が上がる。首が上を向き、背中が伸びても視野が広くない。下肢はベッドに一体化したままに上体だけが起き上がる。まるで持ち直したかと思うかの動きだが、その顔を見ればそうではないと一目で誰もが理解できた。
生を感じさせない血色と、呆然とした眼で空っぽの声が絶望のまま誰へでも無く放たれる。
「……僕の為に、殺したい。……なのに…………………できない…………」
ぽつぽつぽつと名残の水滴のような吐露は掠れた声で続いた。
あと一歩、ほんのひと囁きで彼の中の唯一の倫理が死ぬのだと、誰もがその絶望の色だけで理解する。一番大きな黒の固まりを落とした直後、釣り上げていた糸が切れたようにガクンとラルクの全身からまた力が抜けた。
首も顔も肩もベッドへ垂直に重力へと引っ張られる。アレスが掴んでいなかったらベッドから顔が落ちていた。
これだけ殺意を膨らませても尚殺せないと語るラルクにアレスは険しく顔を歪めた。
食い縛り過ぎた口から鉄の味がする。ラルクの肩へ折ってしまいほうなほど力が入ってしまう。なんでだよ、と止めるべき自分が言いたくなる。
奴隷の自分でも、この一年だけで簡単な慰め言葉くらいは知っている。その言葉を言うべきだと頭では思う。人を殺す境界線の手前で踏みとどまっているラルクに「良かった」と「そうだ」と、「優しい」と、「それならまだやり直せる」とそういった言葉は短いサーカス人生の一年で学んだ。
表向きの、肌触りだけ良いその言葉でも、時にどれだけ救われるかだって知っている。なのに、今は言いたくない。彼を踏みとどまらせる為にも言うべきなのに舌が喉が、口が歯が肺が拒絶する。
〝殺せば良いのに〟〝殺して楽になれば良いのに〟と。
この世界の正しさを知っていても尚、自分とは違う考え方だとアレスは思う。
自分なら殺す。団長もラルクもその人生を歪めたオリウィエルなら殺して良い生き物だと思う。しかしここまで言って殺せないラルクはどうしようもない。……どうしようもないほどに
〝ラルク〟だった。
「もう死にたい……。いっそまた全部白に戻りたいっ……あの女に溺れてた時の方が楽だった……!」
「………………お前らしいよ」
白く整った中性的な顔をこれ以上なく歪め汚し濡らし、絶望のまま地へと吐くラルクへ初めて返事を口にした。
今までの言い聞かせるように張られた声でもない、むしろ力の抜けた弱い声はラルクの嘆きよりも小さな音だった。沈黙で繋げられたテントの中でなければ聞こえない弱さだ。
初めて返されたその言葉に、ラルクも数秒遅れてから気がついた。息をすることも激痛が走る中、今聞こえた気がする言葉はアレスだろうかと頭が処理をする。自分の嗚咽にすら塗る潰されかけるところだった隙間の言葉に、少しだけ喉が突っかかり止まる。膝とシーツを見つめながら、もっと暗い先しか連想できない彼は聴覚に意識が宿る。
肩のぬくもりだけが、今目の前にアレスがまだいることを証明してくれる唯一だ。
『慰めではなく過去の彼と話してあげてください』
「……なんで、殺せねぇんだよ……。殺して楽になれりゃあ良いのに。ほんっと、お前………。……変わらねぇなぁ……」
ハハッ……と、枯れた声と一緒に滴が落ちた。
ラルクではない。もっと高い位置から落とされた滴に、ラルクは瞬きを二度繰り返してから気付けば首が動いた。
ぽたりぽたりと、一度だけでなく連続して続く雨の軌跡を追えば自然と視線がアレスへ向いた。さっきまで何度見ても、自分を見つめる強い眼差しや必死の形相だったアレスが、今はあまりに力のない表情だった。
目が遠く、ラルクを見ていない。肩を掴む手も微弱に震えていた。
無感覚にも近い、顔のどこにも神経が通ってないような顔で黄色の瞳からだけ涙が溢れていた。肩がラルク以上に下がり、首にも力が入らず顔も不出来に傾いていた。笑っているように見えるのに、顔の筋がどこも笑みに繋がる動きをしていない。
まるで無理矢理引っ張られているかのように、微かに口角が上がって見えたのはラルクが息を飲んだ後だった。
笑いたくなったのに、上手く笑えない。
奴隷の頃から愛想がない。怒り狂うことはあってもまともに笑えたことなど少ない。表情や感情が乏しいわけではない、むしろ機微の激しい筈のアレスだが笑うことだけは少ない。
それなのに今だけは無性に笑いたくなって、胸が苦しくなった。赤く染まりだす目を擦る気力も引いていく。
嬉しいのか、悲しいのか、絶望すれば良いのかもわからない。その全てが混ざり合って正しい感情の言葉が出てこない。
オリウィエルに操られていた自分を思い返すよりも、現実に脳を貫かれる。脈が不均等に内側で波打ち、目眩に近く視界がゆるく回る。
「アレス……?」
突然の異変にラルクの方が狼狽え出した。自分が何故いまアレスを泣かせてしまったのかも、何故そんな顔をさせてしまっているのかもわからない。
『君も奴隷になっちゃうのもやだ!!』
本当に変わらない。ジャンヌの言葉の所為か、それともあまりに目の前の彼が変わっていなさ過ぎたからか。
ただただどうしようもなく、今目の前で泣きじゃくるラルクは自分の想像した以上にあの頃の彼だった。
奴隷として生きたのに、自分よりも穴の底ような仕打ちに遭っていた筈なのに、自分よりも地獄を知ってそれでも彼は変わらない。
あの時から今も理解できない。自分だけではなく親しくもない他人が奴隷なのも嫌だと嘆く彼は、そのままだった。
それが胸が絞れるほどに嬉しくて、そして気付けなかったことが悲しい。
あの頃はわけのわからなかった喚き声に、もっとできたことはあったと今はわかる。
「ありがとう」くらい言えたかもしれない。「どうして」と聞けたかもしれない。
もう、過去には戻れない。奴隷としての人生しか知らない自分には、あの言葉を嬉しいとすら思えなかった。初めて自分に不幸になって欲しくないと思ってくれた相手なのに、気付かなかった。奴隷という地の底に居ても尚、あの頃からラルクは優しい人間だったと思い知る。
無知で、役立たずで、自分が見下していた奴隷はそれでもやはり人間だった。あの時の自分の感覚は間違っていなかった。
自分はまだ〝殺して良い〟と思える奴隷のままなのに。
人間のラルクと、奴隷の自分の決定的な隔てを改めて思い知る。
自分は本当に根からの奴隷なのだと、人らしいラルクを見せつけられて理解する。
自分もまだ、あの頃から変わらない。いくら枷も鎖も焼き印もなくなって奴隷の証がなくなっても、それでも奴隷の感覚は焼き付けられたままだ。……ラルクへの嫉妬も、変わらない。
肩を掴む指が、もう少しで落ちそうだった。肺へ酸素を送ると同時にもう一度アレスは持ち直す。
自分が奴隷であることなどわかりきったことで、今はそんなのどうでもいいと自分に言い聞かす。だからこそ今も自分は役目があって、生かされた。
ラルクの肩を掴み直せば、今度はびくりと震えが大きく返ってきた。自分のではない、ラルクの目が惑いのまま怯えるように強張った表情で、それでも今までに無く意識の宿した眼差しを自分に向けている。
感情が乗ったまま、悲しそうに細い眉を垂らすラルクに、……自分のことよりも目の前でおかしくなった〝アレス〟を心配する彼に、アレスはさっきよりも温度のある笑いが零れた。
「だからお前が嫌いで、妬ましくて、羨ましくて…………眩しかった」
瞼が半分落ちたまま手足の重さがまだ残る。口が半分笑ったままに涙も細く止めどない。
自分の中で枯れてる部分に、まだその感情が子どもの頃から残っていることを実感する。言葉にすれば余計に刺さった。
直視するのも深く知るのも嫌で、目を逸らし続けた。あの頃のラルクを見れば見るほど、……知れば知るほどに人間で、自分が奴隷だと思い知るのが形にできないほどに胸のどこかが引っかかるようで気持ち悪かった。
人間に焦がれる自分を知りたくなかった。
「俺じゃなれねぇから、代わりに人間でいて欲しかった」
諦めていた。
そう、言葉にしながらあの頃も形にできなかった感情を今一つに絞れば、虚しくなるほどにしっくりきた。
嫉妬して羨望して、だから子どもながらに勝手に悟って託した。自分が見下ろしていた相手なのに、誰よりもあの時上にいた。人として何よりも必要な尊厳も矜持も大事に抱いているラルクが、きっとあの頃の自分には異色に見えた。
そして今もまだ、自分の中には子どもの頃と全く同じ感情がラルクへ残っている。
団長の為だけでも、ラルクの為だけでもない。自分もまた、ラルクを取り戻して仕方がなかった。
今までになく温かく、そして哀しいアレスの声にラルクは身動ぎできず息も止まる。
今の自分だからこそ受け取れる、あの時の真実を初めて知った。
長く長く、知りたくて仕方がなかった疑問へ一つの答えを与えられる。
「だからまだ、頼むから。もう数十年ぐらい、このまま人間らしく足掻いてくれ。団長に謝って、あのクソ女も殺せねぇまま、団員の信頼落ちたのも取り直して、全部。全部を全部やり直して……」
ゆったりゆったりと、穏やかな声と共に口も心臓の音も遅くなる。
自分でもどんな顔で言っているのかもわからないまま、アレスが言えたのは慰めではなかった。誰よりも傷付いているとわかったラルクに、ただ自分の望みをまた押しつける。救いになるとは思っていない。
やっと今度こそ再会できたラルクを相手に、自分でも知らなかった想いが溢れ出す。望みに押されるまま言葉にすれば、いつの間にか誰に言っているのかもわからなくなった。目の前のラルクに話しかけているつもりで、瞳の奥で見つめているのは
「もう一度、俺とこの世界で生きてくれ」
遠い過去の、ラルクだ。
『この世界で生きていくと決めたのでしょう?』
頬がこけて背も低くて、骨のようだった少年を見つめながらもジャンヌの声はもっと遠くから聞こえた気がした。
自分は、もう覚悟ができていた。団長に買われ、役目を託されたあの瞬間からこの世界で生きるものだと決定した。
今まで一度も口にしながった言葉を吐いた瞬間、今言えて良かったと思う。オリウィエルの特殊能力にかけられたラルクならきっとこんな言葉、歯牙にもかけない。同時に、……本当ならもっと早く自分の口から頼むべき言葉だったとも思う。
サーカスで初めて人と生活を本当の意味で共有することを経験したアレスは、誰かと共に何かをすることも誘うことも知らなかった。歩み寄る方法どころかそういう生き方すら思いつかなかった。
ラルクを振り向かせることに必死で、会話をすることに躍起になって、もっと理解する方法も言葉もあったのにできなかった。
眼球が溢れそうなほど見開くラルクは、まだ言葉がでないまま喉が干上がった。
アレスの倍量の涙が溢れるその瞳から、絶望の影は薄れ出す。身体の芯から指先まで振動させながら手が浮いた。
否定したいことも、訂正したいことも謝りたいことも多過ぎて最初すら選べない。アレスがわかっている以上に、自分はケルメシアナサーカスに損害ばかりを与えてきた。
自分一人がもっと早く団長に切り捨てられていたら、今日までサーカス団員達が財政難で喘ぐこともなかった。
何度も細かく口の中を空っぽに飲み込んで、また詰まる。
否定をする前に、訂正をする前に、謝罪をする前に、今一番自分が言わなければならないことが決められた。言う前から込み上げ目も鼻の奥も痛いほどつんとした中で、震える声を絞り出す。
「ッ……話したいことがたくさんあったんだっ……」
君に、と。
言った直後に剥き出しに歯を食い縛り、苦しげに歪めたまま喉仏が上下した。
濡れた瞳から涙の痕を新たな滴がなぞり新たな痕をつくる。赤く腫れた鼻も、充血しきった桃の目も、ぐしゃつき絡まりダマになった薄紫の髪も震える顎も指先も、全てが過去の面影のままラルクは放つ。
傷んだ喉のまま無理やり出した声は女のように高く、ところどころひっくり返った。
アレスの腕を掴み返そうと浮いた手が、まだ躊躇いのままにそこから動かない。ガクガクと中途半端に宙に浮いたまま停止された手が、全て指関節まで強張らせ一関節一関節が曲がり、固められる。差し出されたその手を取るのには、まだ自分は知らないことが多過ぎる。
……だから。全てを話し、それでもアレスがまだ自分とこの世界を選んでくれるのならその時は
「ずっと……あの、運動場から!!……君とやり直したかった……っ」
ボロボロと涙を大粒にして溢すラルクに、アレスも釣られるように量が増した。荒くなる息のまま、子どものように泣く互いを見続ける。
ラルクは目を絞りしゃくり上げ、アレスは拭うことが思いつかないまま肩を上下し呼吸する。泣き方を知るラルクと泣き方を知らないアレスで向き合い、もう一度確かめる。
目の前にいるのが遠い過去の彼で、そして今やっと再会をやり直せたのだと。
独り言のような唐突さで、アレスから「俺もだ」と答えが返された。何故ラルクの方がそんなことを言うのかはわからない。だが自分にとっては間違いなくそうだった。
食い縛り直した歯が軋む音を鳴らしながら、嗚咽を溢すラルクは目を擦る。ゔ、ぁ゛っ、あ゛っ……と、気を抜くと言葉が出ないほどに喉が痙攣する。べたりとベットに座り込んだまま、立つことはまだ難しい。
「聞かせてくれ。……〝ラルク〟」
夜風のように静かなアレスの言葉に、頷く前にしゃくりあげた肩が揺れた。大きく頭を上下させるラルクからはもう、目覚めた時の殺気も翳りも失せていた。
今はそのどれよりも、ヒクつく喉を止めることに必死になる。自分の手の甲に歯を立て吃逆を噛み殺そうとするラルクに、そして何も言わずに肩を捕まえ続けるアレスに、プライドは静かに全員へ退室を視線と手の動きだけで促した。
ラルクから話を聞きたい。オリウィエルのことも、特殊能力にかけられてからのことも全て確認したい。このままいればアレスと共に事情を聞くこともできる。それを理解した上で、……後で尋ね直したいと考えた。
きっとこれからの会話には二人が他人に聞かれたくない奴隷時代の話も含まれる。前世の知識で知っている自分を含めた部外者が安易に聞いてしまって良いことではない。もうラルクが暴走する心配がなくなった今、自分達が立ち会うのは野暮だ。
促すプライドに、騎士達だけでなくステイルもまた反対はしなかった。
二人に声を掛けることなく、黙したまま気配も消してテントの外へ出て閉じる。彼らの話が終わるまで外で待つ。
この先は、彼らだけの物語なのだから。




