Ⅲ169.担う者は見つかった。
「ラルク。彼の手はお前が引いてくれ」
鎖もここで解こう。その言葉に、耳と正気を疑った。
ラルク、って言葉が妙に引っかかったけど今度は声も出なくて今は、……なに言ってんだこのジジイっていうのが何より頭に浮かぶ。
奴隷の俺でもわかる。焼き印も断ったばっかで、鎖もつけなけりゃあ奴隷に逃げられるし逃げられたら捕まえても自分の物って証拠がなくなる。もう金を払われた奴隷商達も絶対責任は取らねぇし、むしろ俺が逃げたら捕まえてまた売り直すぐらいだろう。
しかも俺の手を引かせようと指示を投げられた男は線の細い優男だ。
大分またとち狂った飼い主が現れたと思う。無言のまま本当に俺の鎖に鍵を差し込む優男も馬鹿か、もしくは狂ってる。地面に手足をついたままの俺に、屈むだけの動作で最初に首輪を外した。
首が妙に軽くなった違和感に、今度は恐怖と別の感覚の身震いで動けなくなった。暴れすぎて枷ですり切れた足首の鎖も、割れた爪から血が滲んだ手の鎖も、同じように何の躊躇いもなく鍵を開けられ外される。
最後に左手の枷が外れたところで、そのまま優男の白い手に手首を掴まれ引っ張られた。まさか本当に手を引っ張るだけか。
呆然と空いた口が塞がらねぇ。反射的に引かれたまま膝を立てて立ち上がれば、俺よりも背の低い優男は本当にそのまま俺の手首を掴んで連れて行こうとする。
「おーい気をつけてくださいよぉ?!その奴隷が逃げ出した場合はこっちは何の責任も取りませんからねぇ??」
「暴れられて物壊されりゃあ賠償金も請求されますよ~??」
汚ねぇ声が笑い混じりに放たれた。奴隷商共だ。いっそ俺に逃げろと言ってるみてぇだ。……いや、言ってるのか。
逃げて、またあいつらに掴まって、また売り出される。馬鹿の俺でももうわかる。
顔を向ければニマニマと愉快そうに俺とジジイを見比べていた。なのに気付いていねぇのかジイイは帽子を取って「ご心配どうも!」と明るい声で礼をした。やっぱ頭のネジ外れてる。
俺たちに背中を向けて前を歩き出すジジイとこの優男なら逃げられるかもしれねぇと、確かに思う。
立ち尽くしたままの俺の手を優男が引くけど、力も弱い。ずっと箱の中の生活だった俺のことも無理矢理引きずれねぇような細腕だ。振り払って、走って逃げればもう一目じゃ奴隷ってバレない。焼き印だって背中を剥かれなきゃ見られない。
馬車に乗せられて、同じようなこのジジイにまた箱に入れられた後じゃ遅い。あの変態ジジイだって最初は皮を被ってた。ただ、……〝逃げる〟って言葉はあんまりしっくり来ない。
棒立ちで、「おい」とか「歩け」と優男に言われても視線が下に浮いたまま焦点も上手く合わない。クスクス、ケケケと笑い声を聞きながら上手く身体が反応しない。逃げれば良いと頭でわかっても、動く気にならない。
暴れるとか、吐き捨てるとかなら箱の中でいくらでもした。けど、逃げるっていうのは意味はわかっても俺がやるっていうのがわからない。死ぬ方が、ずっとわかりやすい。
逃げて、どこに行く?どこに逃げる??どうやって生きる??
誰が餌をくれて誰が命令をくれて誰がどうしろと言ってくれるのか。奴隷の俺に、調教師も主人もいない人生はわからねぇ。考えれば考えるほど頭が白く褪せていく。カラカラと空っぽの音が耳の奥を塞ぐように繰り返される。
あの箱から出たいと思ったことはあっても逃げたいと思ったことはない。逃げるという感覚がわからない。そう考えればやっぱもっとクソな目に遭う前に、ここで全員纏めてぶち殺した方がずっと楽ですっきりするんじゃねぇのかと
「……行くぞ、四十六番」
「……は……?」
やっと声が出たと思えばぽっかり口が開いたままになる。
ぐいぐいといつまでも俺を手だけ引っ張って進む優男の声だとわかるのも時間がかかった。……また妙に引っかかった、その声で。
ジジイの顔を見た時と似たような違和感だ。低い位置から上目に俺を睨む優男に、思い出したように足が動いた。一歩、二歩と歩きながら、今なんて呼ばれたのか思い返す。開いた口がまだ塞がらない。
足の裏で地面の感触を覚えながら、そういえば外も土も久々なんだと思う。
どれくらい久々かもわからない。砂まじりの風が吹いて、伸びきった爪が地面に時々引っかかる。暴れるどころか、優男の手を振り払えずにただ進む。
「良い天気だな」と先頭を歩くジジイが両手を空に広げて、ぼんやりと上を仰ぐ。塞がっていない天井に、それだけでも〝久々〟を通り越して気持ち悪く、酔い掛けた。太陽が目に入って、思わず瞼を瞑る。……どんだけ太陽の下も外にもいなかったんだ。
昔は運動場に出ても太陽見ただけでこんな目がチカチカもしなかった。地面を踏む感覚だって変に感じたことなんざなかったのに。
「素晴らしいじゃないか二人とも!!空もこの日を祝ってくれているかのようだ!!」
「そんなことより団員達にはどう言うんです。あんな大金……オルディーニ達は怒り狂うだろうな」
気持ち良さそうなジジイの声と、淡々とした優男の声を聞きながら何度も頭をノックされたような感覚がする。さっきから消えない違和感の正体がわからねぇ。
ずっと使われなかった頭を久々に捻りたくても上手く働かない。昔はあんなに売れるように頭を毎日働かせていたのに、今は思考しようとしても働かない。薬が残ってる所為なのか、俺がもう馬鹿になっちまった所為なのか。
〝四十六番〟と、その言葉がぽつぽつと頭に浮かぶ。俺の手を引くこいつらの会話を聞き流しながら、なんでその番号に変な感じがしたんだと考える。なんか、懐かしいような……
ぼや、とその瞬間また頭の中が曇った。霧に埋まったような感覚で、目の中も白くなる。歩けなくなりそうで、白の代わりに俺の手を引く優男の後頭部を馬鹿みてぇに見続ける。
薬の所為で頭が大分おかしくなっちまったのか、逃げる絶好の機会なのに言う通りにしかできねぇ。また飼われて閉じ込められて死ねない日があるかもしれねぇのに。
パクパクと乾いた口を動かして、何も出ない。
掴まれた手首が圧迫されてるからか暖かい。土の上を歩いてる筈なのに全部がふわふわする。今が夢なのか現実かもわからず、左足が右足に引っかかってまた転び掛ける。足の力、本当入らねぇ。転び掛けた俺に手を引いていた優男も道連れにつんのめった。
自分も転び掛けたのに腹が立ったのか、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた優男の顔に「すみません」という言葉が浮かんだけど口からは出なかった。……出す気にならねぇ。
もうずっと、長い間そういう喋り方も忘れて吐き捨て続けたから。ガキの頃はあんだけ調教されたのに、もう反射的に出なくなった。…………ガキ……。
「……お前、足怪我でもしてるのか。さっきから歩くのが遅い」
「……………………いや、……薬。……薬、いろいろ……」
「ぼそぼそ喋るな。さっきまであんな流暢に怒鳴ってただろ。僕も団長も喋り方なんか気にしないから昔のままで良い」
なんか思い出せそうで、そこに頭を使ったら言葉が上手くまとまんなかった。自分でもなんでのろのろ大人しく足を動かしてるのかわかんねぇ。
暴れるの全部、焼印から逃げようとした時に使い切ったのかもしれねぇ。あれで完全に肩を空かされた。喋り方って言われて、そういえば気にしなきゃいけなかったんだっけと今思う。鞭で叩かれたり罰を受けたり、……今はそれも懐かしい。
苛々した口調で足を一度止めた優男の顔を正面から見返せば、またコンコンと頭を内側からノックされた気がした。声よりも、ずっとその顔の方が覚えがある気がする。
声からして多分男。女みてぇな顔で俺より細く背丈の低い、ちゃんと自分の顔を鏡を見た覚えが暫くねぇから相手が年上か下かも、もうわかんねぇ。そもそも奴隷は年齢の上下関係はねぇからどうでも良い。瞳の桃色と、薄紫の髪が妙に目に引っかかる。
口を開けたままただ見返す俺に、優男だけじゃなく気付いたジジイもこっちに振りかえって足を止めた。「どうした二人とも!」と呼びかけられて、優男も返事しねぇ。俺のことを両目で睨んでくる。
なんか、命令なのか、それとも汲んで行動しろってことなのかも全然わかんねぇ。旦那様……変態ジジイに何も教えられてこなかったから……。
俺の手を引くまま握る手に少し力が込められたのがわかった。握りつぶすほどいれたつもりなのか、少し震えてる。ジジイがこっちに駆け戻ってきた。
「ラルク!どうしたんだ!?彼は足でも怪我していたのか?困ったな、馬車を借りるほどの金はもうないぞ」
「いえ、怪我はしてません。でも転び掛けた。暴れてたくせに今は喋らないしさっきの薬が残ってるのかもしれません。……というか、絶対僕らのこと覚えてない」
そうか困ったなと、ジジイが頭を掻く。覚えてない、ってどっかで会ったことがあるのかって思う。さっきまでの違和感もその所為か。
どこか休める場所でもと周りを見回すジジイと、ずっと俺を睨むラルクという優男。わりと距離は空いた気がするのにまだ俺の手を引くだけで奴隷として荷物も運ばせようとしない二人。優男が怒ってるのも命令じゃなく覚えてねぇことに腹立ててるのか。俺に恨みでもあんのか。
ラルク、ラルク、ラルク、ラルクラルクラルクと。さっきから何度か聞いたその名前が引っかかりすぎて脳内で繰り返す。
思い出せねぇ、けど多分知ってる。知ってるからこんな引っかかる。会ったことあるなら知っててもおかしくない。旦那様の客か使用人か、商品棚自体の客か奴隷か。でも奴隷商の客や奴隷じゃ名前なんか知るわけ
『ラルクって呼んで欲しいっ…………』
「……?!あ゛!!!!!!?」
バチン、て。頭の中で雷が走った。
わけがわかんねぇくらい身体の芯から足先までビリビリくる。視界が急に白靄からはっきり色が付く。いつの間に曇ってたのかわかんねぇくらい急に色がはっきりして、視界が開いて背中を反らす。
前を歩いていたジジイと手を引く優男だけじゃねぇ、土の地面から左右の店構えもすれ違う馬車も横切る他人も奴隷も全部がはっきり視界に入る。自分が今までどこを立って歩いていたのか気付く。外、外だ。
「おお?!驚いた!!」と引き攣った笑い顔で目を丸くするジジイと、「うるさい」と顔を顰める優男の表情もわかるし知ってる。こいつらを俺は知っている。
まるで今やっとたたき起こされたみてぇに目が覚めた。なんだこいつら?!
瞬きも忘れて、もう一度顔を見る。ジジイと、優男……じゃなくて四十四番!!なんでこいつらが並んでんだっていうか俺の前に立っている?!目が覚めた筈なのに夢でも見てるか本気でイカれたかと頭を疑う。顎が外れて、意味も分からず半歩後退る。夢だ、絶対夢か幻覚だ。
「なんッ……おまっ……!!どういうっ……あ゛?!!アンタ四十四番買っ……なん、背!!!でかっ……」
「おおぉぉ奇跡だ!思い出したか!ああ良かった良かった。これで話も早い。大丈夫だ君の方がもっと背は高い!感動的だな!!ハハッ」
「うるさい。声が大きい。二度と僕をその名で呼ぶな四十六番。サーカスに戻るまでには絶対ラルクと呼ぶようにしろ」
嬉しそうに両手を広げた後に俺の背を叩いて目をギラギラさせるジジイがあの時のおっさんで、俺の手を引いていたのは四十四番だ。ふざけんななんだこれどうなってやがる?!!
いっそ変態ジジイよりも気味が悪くて今度は掴まれた手を振り払って三歩以上後退る。口が開いたまま閉じねぇし、現実と思えねぇ。
死んだのか???死んだからこんな夢みてんのか?それとも死んでこいつらも死んでんのか??
こらこら逃げるなと気持ち悪いほど柔らかい声で言われても身体が正直で、一歩足が下がったらまたつんのめって転んだ。地面に尻ついて転べば、視界に自分の放り出された両足が入った。
いつもあった筈の鎖が両足にないことに今思い出す。もう二回も転けるのがなんでかと思ったけど、足ふわふわしてたのもこの所為か。薬じゃねぇ、単純に本当に足も手も全部軽くなってたからだ。
思い出した途端、頭が晴れて一気に思考が回る。さっきまでぼけぼけしてたのがわかんねぇくらいに声が出る。
意味分かんねぇ四十四番がでかくなってる。俺より小せぇけどでかい。あの時の骸骨みたいな面影がどこにもない。むしろ高額奴隷で取引されてもいい容姿だ。一体どうやればこんな毛並み良い生き物になるんだ!?どんだけ年取ったんだ?!!
地面に尻ついたまま崩れて絶句すれば、ジジイが「大丈夫か?」と笑顔のまま寄ってきた。あの時と同じような笑顔でやっぱり俺に顔を近付ける。間違いねぇやっぱあの時のおっさんだ。
地面に手をついて息も切れる俺に、ジジイは自分の背後を指差した。
「そうだちょうど良い!水場だ。あそこで少し休もう。顔を洗ってすっきりしたら話をしよう。君も喉が渇いているだろう?」
「僕は反対です。彼女に帰ると約束した時間にこのままじゃ遅れます」
「大丈夫大丈夫!少し休むだけじゃないか。一息吐いて、それから足を速めた方がきっと効率も良い!」
さぁ行こうと。そう言って、手を掴まれた。
地面へ後ろ手についてた右手をジジイに、仕方なそうに眉を寄せた四十四番に左を掴まれ引き上げられる。こっちはまだ頭の整理もついていねぇのに。
さっきまでのただ引くだけの力じゃなくなって、ぐいぐいと二人揃って大股に噴水の見える方向へ俺を引っ張り出す。
変にまだ軽くて落ち着かない足で、何度もつんのめりかけながら追いつかない頭と一緒に地面を蹴って回す。分裂した生き物かって思うくらい四十四番とジジイの足並みが綺麗に踏み出す足まで揃って進む。
大人二人に引っ張られて、ずっと引きこもっていたなまりまくりの身体は簡単にいうことを聞かされる。
「早くしろ」「まずは顔だ!」と言われて、風を切る。楽しそうに笑い声をあげるジジイと眉間に皺を寄せ続ける四十六番に半ば引き摺られ、最後は噴水に勢い余って放り込まれ掛けた。
離された両手でぎりぎりに噴水の縁に手をついて止まったけど、もう少しで噴水から溜まった水面に顔を突っ込んだ。頭がまだこんがらがって息切れする中、「さぁ顔を」「早く」と背後から言われる。わかんねぇまま命令通りに水をすくおうと縁から手を浮かせた時、……気付いた。水面に反射した自分の顔に
もう何年も経っていたんだと。
おっさんと四十四番だけじゃない、奴隷の俺も同じだけ年を取っていた。
Ⅲ118