Ⅲ167.担う者は見かけた。
名前は、ない。
必要だったこともなければ欲しいと思ったこともない。識別さえできればそれで足りるのが俺〝達〟だ。
「自由時間だ。時間までには戻れ」
時計の読み方を覚えた奴から自由時間は与えられる。
飼育係のやることなんか扉開けて逃げないように見張っておくことぐらいだ。開けた運動場で何をしていても文字通り自由だった。ただ転がって寝ていても良い、歩き回ってもいい、合う連中同士で適当な遊びをすることもある。
数字と経理の勉強ばっかやらされるようになった俺にとっても、身体を自由に動かせるのはそれだけでも開放感を覚えた。
急激に手足が伸びたから、ずっと机と椅子に縮こめられるのはきつい。経理を身につけるだけ詰め込んで、出された餌を食って、檻に戻れば無駄話どころか下手な物音も許されず手足を同室の奴隷にもぶつからないように毛布の下に入る分また丸めて寝るしかない。
労働奴隷は毎日嫌というほど動いているから寝転んで、俺みたいな机にかじりつく奴ほど手足伸ばしてる。運動場は走り回るのはガキが多い。
大人の奴隷は俺みたいな経理奴隷でも皆寝転がって、足伸ばしてぼけっとしている奴らの方が多い。ガキみたいに遊ばず、大人は大人同士くっちゃべっている。
他の奴らと関わりたくもなくて、俺の場合はただただぼけぼけ歩いていた。労働以外の身体の動かし方も知らねぇし、遊び方もわからない。他の奴らがやっている追いかけ遊びだの力比べだのも混ぜてもらうことから面倒だった。
運動場の周りを意味もなくぐるぐる歩いて身体を回すだけでも、大分足も胸もすっきりした。何も考えずに動いているのも好きだった。
花もない地面と高い壁だけの運動場だけど、纏めて奴隷を放流するから同じ奴隷を見るだけでも時間は潰せる。寝ている奴でも座ってるだけの奴でも走ってる奴でもガキ同士遊んでいる奴でも
「ははっ!ガイコツ!ガイコツ!!」
「なんで目玉ついてんだよ骨のくせに!!」
「ほじくってみようぜ!」
……奴隷同士の潰し合いでも。
珍しくない。むしろ定期的に絶対あると俺は知っている。
俺も手足が伸びる前の頃は俺よりでかい奴らに似たようなことをされた。見張りも潰されてるのがよほど良い奴隷じゃない限り止めないし気にしない。
今も見張りから離れてはいても視界に入る場所なのに、一人の奴隷を三人が堂々と足蹴にしている。伸びきった髪を引っ張って、泣き声を上げれば楽しそうに笑う。目をほじくり出そうと木の棒を一人が構えれば、今度は窒息するんじゃねぇかと思うくらい地面に顔を突っ伏して抵抗する。引っ張られた髪がぶちぶち千切れても、目玉をほじくられる方が嫌なんだろうと他人事で思う。
頭持ち上げろ、お前が手を押さえろと笑いながら言ってる奴らも潰されてる奴も多分俺よりガキだ。歩きながら距離が近づけば近づくほど俺が見下ろせる背ばっかだった。
もうこの年になるまで俺も何度も何度も見たし、別に酷いとも怖いことも思わない。大人同士の潰し合いと比べたら普通だ。
これで奴隷が使い物にならなくなったら最悪壊した側の奴隷が罰を受けるのも知っているから、最後にはこいつらも泣きを見るんだろうなと思う。目ほじったら血が出て最悪死ぬし、そうでなくでも処分が多い。そんなことを考えながら普通に横を通り過ぎようと思った時、……今回だけはちょっとだけ立ち止まった。
虐めている奴らが俺よりも身体も小さい奴らたった三人で勝てそうだったのと、虐められているのが四十四番で、四十六番の俺と同じ檻に収容されている奴だったから。
「?なんだよ!文句あんのか?!」
「…………」
ドスッ、と手が怪我すると困るから取り敢えず一人蹴飛ばした。
俺が立ち止まったのが気に食わねぇって顔で睨んですごんできたけど「お前もこうなりたいのか」って言ってこねぇから、勝てるなって直感的に思った。
顔が壊れると処罰されて俺も罰を受けて困るから、顎を蹴り上げたらそのまま気持ち良いくらい仰向けに倒れた。握っていた木の棒も地面に倒れるより先に手放して宙を舞った。
少し血が飛んだ気がして焦ったけど、大した量じゃない。多分口を切ったんだろう。腹を蹴飛ばせば良かったと今気付く。丸々した顔が妙に蹴り飛ばしたくなった。
いきなり仲間が蹴り飛ばされたのに口を開けたまま固まっていた二人の内、馬乗りになっていた方を今度は胸ぐら掴んで引き寄せる。
俺達奴隷は食わせてもらうもんも少ないから当然体重も軽い。簡単に引きずり下ろせて俺に釣り上げられたまま腹がガラ空いたから今度は膝を二回打ち込んでから捨てた。最後の一人はその間に逃げた。
蹴っ飛ばした二人も顎を押さえたり腹を押さえて丸まって、やり返してはこない。うぜぇからもう一回腹蹴飛ばしたら四つ足まじりで唾と涎垂らしながらバタバタ逃げていった。
「……行ったぞ四十四番。顔に傷残したら処分されるぞ」
奴隷三人が逃げていっても、四十四番はずっと蹲ったまま鼻を鳴らしていた。
ひっぐ、えぐっ……ズズッと汚ねぇ声で泣きじゃくったまま虫みたいに丸まって動かない。薄紫の髪を地面の色に汚して糸くずみたいにぐちゃぐちゃになってて、このままだと俺らの檻も砂で汚れるなと思う。まだ自由時間が始まったばかりだし、仕方が無いから先に土汚れを叩いてやる。
立てよ、と声を掛けても動かない。
めんどくせぇし腕引っ張って無理矢理上体ごと顔を上げさせる。思った通り顔は頭以上に土で汚れてた。涙と鼻水で泥になってぐちゃぐちゃで、ただでさえ酷い顔が余計汚く見えた。
砂ぐらいはたき落とせよと言ってもどうせ泣いてやらねぇから俺が勝手にやる。檻に土汚れが入れられたら掃除するのも俺らだし、毛布が土まみれになるのも同室の檻にいる俺らだ。なら外にいる間にできるだけ叩き落とすしかない。
俺が服を引っ張ってバタバタ払っても、四十四番はただ目を擦って泣くばっかだった。檻の中じゃ死体みたいにも大人しいのに泣くとうるせぇ。
ひっぐひっぐと泣きじゃくって、細い手足にへばりついた砂すら自分で落とそうとしない。
「え゛ぐっ……ひっ……っ。……な、なんっ……僕、話……たこと、なッのに……」
「三日前病気になった奴隷、今日処分されたやつ。お前弱そうだから次目ぇつけられたんだろ」
えずきながらやっと話したと思ったら、なんで自分がと愚痴なのはちょっと意外だった。今日まではずっと運動場の隅に座り込んでいただけの四十四番が虐められるのは今日が初めてだ。
先週までは他の奴隷が虐められてたけど、風邪をこじらせたとかで隔離されたまま処分されたと聞いた。
だから風邪引くようなことするなよっていう看守の警告だったけど、あのいじめ連中からすれば遊び道具がなくなったようなもんだ。虐める奴隷がいなくなったから代わりの相手を見つけるのも普通の流れだ。
いっそその奴隷が虐められたせいで死んでたらあいつらも今頃罰受けて大人しかったかもなと思う。
それに、四十四番はその内標的になりそうだなとは俺も前から思ってた。
奴隷のガキの中でも小さいし男のくせに細くてひょろっとしてる。弱いし食うのが遅いから同じ檻の奴に餌を横取りされるし、檻に出たネズミにやってる時もある。単に暗いんじゃなく、調教者どころか同じ奴隷にすら近付かれるのを嫌がる。ネズミには逆に寄ってくのに、人からも奴隷からも嫌がって離れる。
手足だけじゃなく頬まで痩せこけてて白い肌が顔色の悪さで余計青白くて、骸骨が服を着てるようなやつだった。
桃色の目がでかいから余計にぐりんと骸骨の輪郭が際立って、同じ奴隷内でも気持ち悪いと言ってる奴も多い。
下の奴隷は、いくらでもどこまでも下を見る。奴隷の俺達より下にいるのは同じ奴隷しかいないから、その中で鬱憤を晴らす相手を探すしかない。
俺だって四十四番と会話なんかしたことなんかなかったし、四十四番もネズミにしか興味がなさそうだった。
四十四番の服や手足の土汚れを適当に叩きながら、本当に簡単に折れそうだなと思う。女は見たことねぇけど絶対女より弱い。
変わらずしゃくり上げながらだけど、やっと四十四番も自分で顔や髪の汚れを手で拭い払い始めた。ぐずぐずと鼻や喉を鳴らしながら暫くは黙ってた四十四番が話したのは、土汚れを落ちる分だけ全部叩き終わった後だった。
「……僕っも、いつか……処分……される、かな……」
「知らねぇよ。お前労働奴隷?もう専用決まってるだろ」
俺と二つ番号違いの四十四番だけど、この奴隷商に仕入れられたのはつい半年前だ。出荷されたり死んだり処分されて穴が空いた番号に新しく入った奴は当てはめられる。俺達の番号は名前でもないし、俺達だけのものじゃない。
ぱっと見ても役に立たなそうな四十四番だけど、こんなのが労働奴隷なんかできんのかと思う。俺の問いに首を二回横に振った四十四番は、蚊の鳴くような声で「もっと下と、掃除」とだけ答えた。
労働奴隷は下位でも二番目だ。なら、と考えれば納得した。掃除も多分糞尿や塵捨ての方だろう。掃除の中でも汚い、一番立場の悪い奴隷のする仕事だ。本当に処分に一番近い奴隷だった。
それでも、立場が低いから処分はされるわけじゃない。立場が低くてもそれ用の奴隷が必要なのは変わらない。
ただ、来週もここでこいつが虐められても誰も助けない。この程度の奴隷じゃ目玉をくりぬかれても死んでもさっきの奴らは罰も受けないかもしれない。それくらい価値がない。
「処分されたくねぇならあんな奴らに狙われるなよ。お前なんか傷でもついたら速攻で処分だぞ。ほら、その鼻とでこ」
むしろ俺みたいに得意分野がないこいつは特に顔とか見かけは大事だ。なのにもう地面に擦り付けた顔の至る所に擦り傷を作ってる。特に鼻と額は赤くなってた。これぐらいならすぐ治るだろうけど、痕にでもなったらもう終わりだ。
ひっく、ひっく、って。さっきも泣いてたのに喉を攣らせだした。まだ不細工な顔で鼻をずるずる垂らす。めんどくさくなって頭を掻けば、俯いたまま肩まで震えさせる。さっきの奴らが虐めたくなった気分が少しわかる。このまま蹴飛ばしたらちょっとは俺も気が晴れそうだった。
「…………なん、で……君、は平気なの……」
「ハァ?お前よりでかいし頭も良いから。俺は経理奴隷だから売られる時はちょっと高めだし」
「でも奴隷なのに……」
「奴隷の何が嫌なんだよ。その為に生かされてるんだから仕方ねぇだろ。俺らそれしか役に立たねぇんだから」
今度はひがみだした。やっぱあのまま放っておいても良かったかと思う。
同じ檻でも全然誰とも会話しねぇから知らなかっただけで、こいつはめんどくさい奴だ。ネチネチしてるし、俺の方が高く売れるし良い立場だから文句言ってる。
今の立場が嫌なのはわかるけど奴隷なのは仕方ねぇのにそこから文句言うとかおかしい。大人の奴隷みたいにでかければもっと役に立てたかもしれねぇけど、俺たちは子どものままなのが悪い。奴隷は代わりもあって、使えなくなったら死ぬしかない。薬代より価値がない奴隷は死ぬのが当然だ。
それでも、ちゃんと言われた通り役立つ奴隷になればいつかは買って貰えて主人がつく。それの何が文句あるのかわかんねぇ。
俺の顔も見ずに下ばっか見て声を震えさせる四十四番は、もうどんな顔してるかもわからない。
泣き顔を見たのも今日が初めてだし、いつもはずっと他の奴隷みたいに無表情で死んだ顔だ。俺が正論を返してもずっと「でも」をぶつぶつ繰り返す。もうめんどくさくなって、置いていくことにした。
最後に蹴っ飛ばそうかと思ったけど、せっかく叩き落とした砂をまたくっつけて持ち込まれると嫌だから我慢する。一言も掛けずに勝手に泣いてろと思って歩き出せば、そこで急に腕を掴まれた。
殴ってくんのかと思って振りかえったけど、骨男はその細い両手で俺の腕を掴むだけだった。
離せよって、強めに振り払追うとしたら俺の腕の動きと一緒に骨男の方がくっついてきた。べちゃんと膝から横に転がって、それなのに両手だけは俺の腕は掴んだままひっついて、ネズミ取りにかかったネズミみたいだった。
「ッなんだようっぜぇな!!文句あんなら言っ」
「やだ!!!!!!」
破裂したのかと一瞬思った。
運動場中に響き渡すような喚き声で、四十四番が何を言ったのかより先に耳がビリリと破れるくらい痛くなった。うるさいのが嫌で蹴飛ばしたら今度は掴んだ手もとれて地面に倒れた。
でも、今度はすぐに起き上がってきてぐちゃぐちゃに泥付いた顔を俺に向けてきた。さっきと大して代わらない泣き顔の筈なのに、俺が蹴っ飛ばしたからかさっきまでしおらしかった奴に怒鳴られたからか変に胸が騒いだ。気持ち悪いような怖いような、悪いことをしたような気がして視線ごとその場から動けなくなった。口の中が変に酸っぱくなって、遅れてこいつが何を怒鳴ったか思い出す。
俺を見たまま歪めた顔で下唇を噛む骨男は、ひっく!!とまた喉を鳴らしてから大口開けた。目が見えなくなるほどびちゃびちゃに垂れ流しながら、細い身体とは思えねぇ声を出す。
「とーさんが子どもは役に立てなくて良いって言った!!お腹いっぱい食べたいもっとお水飲みたいきらきらした服着たい汚いことしたくない死にたくない!!ベッドで寝たい寝る前に本読みたい!!君も奴隷になっちゃうのもやだ!!」
ガラガラ声で殆ど息継ぎ無しに喚きだす。
俺の方も見ないまま涙で潰れた目を絞って座り込んだまま口だけを動かす。何を言ってるのか殆どわかんねぇけど、聞きながらそういえばこいつは外部から仕入れられたのかと気付いた。どうりでさっきから変なことばっか聞くと思った。
首を掻いて回して耳を一度軽く塞いで音量を減らして聞いたけど結局殆ど耳に入らずただの騒音だった。最後はなんとなく聞き取れたけど、俺はなっちゃうも何も最初から奴隷なのに。
半年経ってもまだここの全員が奴隷なのもわかってないのかと眉が寄る。とーさんって、父親にでも売られたのか。
今日までずっと大人しかったのに、そんなに文句が溜まるくらい外では良い暮らししてたのかと少しムカついた。胃が変にチクついて、こいつの声を聞いてるだけで不安になってきて、距離を取ったまま背中を向ける。その間も「プリン食べたい」とか「とーさんに会いたい」「かーさんに会いたい」とか我が儘過ぎる夢見話ばっかを繰り返す骨男は、喉が枯れ出すのも早かった。すぐに咳き込んでケホッ、コホッと音が混じってそれでも「死にたくない」ってまた呟いて
「ラルクって呼んで欲しいっ…………」
絞り出すようなその声が、最後だった。
それからもう声が出なくなったみたいに喋らなくなった四十四番へ首だけで振りかえれば、蹲ったまままた頭ごと地面に埋めていた。
自由時間が終わって就寝時間にはやっぱり檻が砂だらけになって、俺も他の奴隷もじゃりついた中で寝た。罰が嫌だから俺も四十四番も目も合わせず今まで通り喋らなかった。
今日のことなんかお互い無かったみたいに、また同じ檻の中にいるだけの奴隷だ。
次の自由時間では虐められなかった四十四番は、またその次の週の自由時間には同じ奴らに標的にされた。また足蹴にされて乗っかられて、木の棒でほじくられようとしてても大した抵抗もできてなかった。あの時くらいの大声出せば良いのにそれもしない。びえびえ泣いて小さくなって丸まって、二人がかりで手足押さえつけられた四十四番を
……また、助けた。
もう絡まれたくなくて、本当に助けて終わりで、呼びかけられても会話は絶対しなかったけど。
四十四番がどうなっても良かったし、関わりたくなかったし、さっさと処分された方が絶対楽だった。うるさい奴隷も厄介な奴隷も泣き喚く奴隷もさっさと処分された方が一緒の檻の俺たちは助かったし、今までもそういうやつはさっさと売られるか処分されてくれと思ったこともある。あの言葉が耳にへばりついてなかったら絶対見捨てた。
たった一回見捨てただけで絶対四十四番はこの世からいなくなってくれたし、いっそ俺が殺しても四十四番程度の奴隷なら見逃されたかもしれない。なのに何度も、何度も何度も見つける度に相手がいつもの奴らでも他の奴らでも助けちまった。途中からはくだらない意地と運動ついでと思うことにしたし、正直四十四番のことは一番嫌いになった。……ただ、それでも。
〝ラルク〟って名前を持っていた四十四番が、奴隷じゃなく〝人間〟に見えちまったから。
羨みと嫉妬で結局一度もラルクと呼んでやることもなく、俺は売りに出された。