Ⅲ149.男は失敗する。
「あーーー!クソッ!やられた……」
ガシャガシャと髪を両手で掻きながら、男は顔を顰める。
目の前ではちょうど舞台に繋がっていた猛獣用の出入り口が塞がれたところだった。バキリと巨大な氷の塊を蹴り込まれたままに、入口だけでなくその周囲にめり込み変形していた。これはまた修理に労力も金銭もかかると思えばそれだけでも彼は顔を覆いたくなる。
しかし、今もっとも問題なのはそこではない。せっかくの最後の悪あがきが失敗したことの方が遙かに手痛かった。鳴り止まない拍手を聞きながら、最後に見た光景から考えてももうジャンヌ達の演目退場も終えてしまったことは理解する。
最後にもう一度くらい機会を狙ってジャンヌとカラムを今度こそ半分氷像にするくらいのつもりで目測を図っていたというのに、その前に塞がれ退場されてしまった。氷の出所程度はバレても仕方ないと考えていたが、まさか遠距離からしかもカラム本人に反撃されるとは思わなかった。
「ッ氷の試練も!見事乗り越えた王子が薔薇の精霊と共に退場です!!お幸せにー!!!」
進行役の即興ごまかしをテント越しに聞く。ジョンの奴また上手く誤魔化したなと、頭の隅で一瞬進行役へ関心する。
しかし直後には苛立ちと焦燥に比例するようにこの上なく傷む髪を頭皮ごと繰り返し両手で掻き乱す。
今すぐにでも水を頭から被りたいが、窮屈な衣装と同じく頭もまだ維持しなければならない。もう暫く待てば閉幕挨拶だ。舞台の日でなければ何日どころ何ヶ月も水を浴びなくても気にならないというのに、安物の塗料もどきを頭に被った後は一日どころか半日耐えるのも地獄だった。焦燥で汗を掻いたせいで余計に蒸れる。
頭を変わらず掻きむしりながら男は敵を見誤ったことに歯茎をむき出しに歯噛みする。どういつもこいつも自分が思った以上にふざけていた。
最初は、下働きが使う用の幕張用窓から様子を伺った。幕を張る用の縄を掴み、それを通じて交差している縄同士から氷を張るのはいつもの演目よりは難しかったがそれでも不可能ではなかった。なるべく遠目でもはっきりわかるようにと巨大な氷柱を形成したが、……最初の想定外はその直後だった。
てっきり天井に巨大な氷柱を作ればすぐに観客やカラム達が気付くと思ったというのに、ジャンヌ達のダンスに夢中になっていた観客達はおろかカラムもジャンヌも天井に上がるまで気付かなかった。彼の位置からは巨大な氷柱でも、巨大テントの天井と地面は高低差もあれば即席に作り上げた氷板の冷気も気付きにくい。それどころかダンスの中盤だった所為で、結果としては意図せずカラム達の不意をつくことになった。
最初にいくら安全確認をしていても、ダンスとダンスの合間の時間で氷の棘天井が現れるなど思わない。
てっきり氷柱が並べば危険だと判断し、空中技を容易にできず妨げられると思ったのにまさかのそのままジャンヌが投げられた時は流石に彼も目を疑った。
結果として怪我をすれば失敗に終わるのだから良いかとは思ったが、そもそもはそこまで殺意を持ったわけでもない。
しかもその後には目を疑う光景の数々だった。ジャンヌがたった一蹴りで一帯全ての氷柱を天井ごと砕き、そのまま無傷でカラムの元に着地した。まさかジャンヌも何かの特殊能力者なのかと本気で思った。
演奏担当も楽器を止め、少なくとも事故か失敗には仕立てられると思ったのに結果観客からは大喝采。ならばと、場所を移動し猛獣用の入口から今度は足下を狙い氷を広げたのに今度は地響きと共に一瞬で破壊されてしまった。
本来ならばあそこで立ち往生にさえなってくれれば、団員の救出活動を客に見せる形でしらけさせることもできた。まさか足踏み一つで自分の渾身の氷が破壊されるなど想像できるわけもない。
調整を気にせず張った氷は演目時よりも分厚く、自分の意志でも砕きにくい筈だったにも関わらずまるで水たまりに張った氷のような気軽さで砕かれた。
よりにもよって、新入りの中でも最も温厚で行儀も性格も良かったカラムからの反撃はそれだけでも驚かされた。
しかも最後には氷の塊を蹴り飛ばされる始末だ。彼らの正体が騎士とは聞いているが、アランだけでなくカラムも結局は気性の荒い奴だったのかと思う。
「アイツもっとお上品な奴じゃなかったのかよ……あーーーー痒い!!クソッ!!」
こうなったら直接力尽くで追い出すかとも考えたが、すぐに掻き毟った頭を一人横にする。
自分がどれだけ暴れても勝てなかった奴隷狩り達を簡単に無力化した騎士に、自分が勝てるわけもない。それは助けられた自分がこのサーカス団の誰よりも知っている。
次の演目へ移る前にと不機嫌に顔に力を込めながら、塞いでいた氷の塊へ手を伸ばす。まずは塞いでいる氷、そして地面に張られている氷にももう一度触れ、さっさと砕いて処理をしないと
「なッにしてやがンすかアンタ!!!!」
突如、怒号が飛び込んだ。
あまりの大声に手を引っ込め振りかえれば、銀色の青年が眼光を尖らせ自分の方へ駆け込んでいるところだった。
今までの彼からは想像のできない覇気と眼差しに、反射的に彼も逃げようと腰を上げたがたったその短い動作の間にも遠目だった彼が信じられない速さで距離を詰めてくる。獣以上ではないかと思う速度を相手に、逃げても間違いなく追いつかれると確信した彼は迎撃へと手の中で氷を精製する。
メキメキバリッと手のひらから握り馴染みもある氷を作り出す方が走って逃げるよりも遙かに早かった。氷柱ではなくこん棒状態になったそれを右手の包帯越しに握り絞め、すぐ眼前まで迫ったアーサーの腹へと真横に振り下ろす。
バキィッと鈍い振動が包帯越しに響いたが、同時に氷の破片が砕け視界に入った。
手の中の重さが軽くなったと感じるのと殆ど同時に、折られたのは自分の氷の方だと理解する。アーサーの長い足がかかと落としの形で氷のこん棒を真っ二つに砕き折った。丸太よりも強固を誇る筈の武器を砕かれ目を見張る暇もない。次の瞬間には足が地面につくと同時にアーサーの拳が腹へとめり込んだ。
グァァッ!と酸素を全て吐き出させられ、反動のままにメートル単位で吹っ飛んだ。背中から地面に着地した後もゴロゴロと転がった青年に、距離を感じさせない速さでアーサーが今度は跨がり両手を掴む。
「ジャンヌとカラムッさんになにやってんだふざけンな!!」
唾が飛ぶほどに声を荒げながら腕を背中で捻り上げ、拘束した。
プライドとカラムの演目を舞台袖で見守っていたアーサーも、目の前で繰り広げられる異常事態にじっとしているわけもなかった。最初こそ今すぐ飛び出すかと思ったが、流石に空中へ投げ放たれたプライドを今から追いかけることは自分では不可能だった。
プライドとハリソン、そしてカラムならばと信頼はあったがそれでも彼女が無事にハリソンの保護された時はフラつくほどに安堵した。ハリソンの残像は見えなかったが、プライドの蹴りだけであんな破壊力があるわけもなければあの速さと攻撃範囲はハリソンに間違いないとすぐにわかった。
プライドも降下ではなく一瞬真横に流れたように見えればもう間違いない。
むしろそれから間もなく今度はプライドがカラムへ投げつけられたことに驚いた。
ぎょっと息を飲み、なにやってんだあの人!!とあと少しで叫んでいた。無事プライドを受け止めきってくれたくれたカラムに自分も歓声を上げたくなったが、彼女の安全が確保された時点から優先順位も変わった。
舞台の裏で動ける自分にできるのは、当然攻撃相手の排除である。ハリソンが変わらずプライドを見てくれているのなら、自分が動くしかない。氷による妨害など一人しか想像できなければ、他の団員達も「どういうことだアイツ?!」と騒ぐ中、騎士としてアーサーもすぐに大本を探った。
最初は天井に上ろうと思ったが、それならば自分よりも先にハリソンが氷の天井と一緒に排除していておかしくない。ならば今はここにいないのかと考えれば、ちょうど地面が凍らされ出した。
カラムと同じく騎士の演習の中で特殊能力者についての対応策も身についているアーサーも、出所は同じように想像できた。
地面から延長線上で氷を張れ、繋がった場所。自分たちのいる舞台裏に凍りが広がっていないことから判断しても、一瞬に見える氷の張り巡りの出所はすぐにわかった。カラムが氷を砕くよりも先に、アーサーも舞台裏から外へ回るべくテントを飛びだした。
これ以上プライドやカラムに危害を加えさせてたまるものかと眼光を蒼に光らせ、氷騒ぎの犯人を発見してすぐ取り押さえた。捻り上げ動きを奪った後も収まらない。うっすらと聞こえる歓声に紛れ「バレねぇと思ったのかよ!!」とまた怒りを露わにする。
「アレスさん!!アンタこっち側だったンじゃねぇのか!!」
「……ばっ……。……ッハァ、ちょっ、わかったから待てアーサー。先、氷………」
「氷出したら利き腕折ンぞ」
「ちげーって……まず舞台の氷片付けさせろ……あれじゃまた氷撤収時間かかる……また嫌味言われる……」
アァ?!と、大した抵抗もなく虫のように身体をうねらせるだけのアレスに、アーサーが唸る。
最初こそ腹の一撃に声どころか呼吸も出なかったアレスが言い逃れか虚勢を張るかと思えば、まるでわざとふざけているのかと思うような台詞に拘束する腕に力が籠もる。
しかし、覇気を漏れ出させるアーサーにアレスは口を食いしばりながらも自由な顎で必死に猛獣用の入口を指し示した。氷の塊が内側から塞いでるそこを見れば、アーサーもやっとアレスの言おうとしていることも理解した。彼の演目でも、一度張った氷を最後に砕いたのも彼だ。そうでないと次の演目の為に片付けも手間と時間がかかると話していたことも覚えている。
特殊能力が身近なアーサーは、アレスが直接氷に触れないと割れないのだろうこともすぐに察しがついた。
口がにわかに開いたまま、腕の力はそのままにじっと猛獣用入口を見る。するとアレスから再び「もうカラム達は終わったんだろ」とダメ押しが放たれる。
「お前に勝てねぇのはわかってんだよ。ジャンヌ達の終わったなら俺も客逃がして何も得ねぇーし、頼む」
「…………何か少しでも変なことしたら容赦しねぇですから」
あまりにも無抵抗過ぎるまま口だけが早口のアレスに、アーサーも訝しみながらも仕方なく彼の上から降りた。
背後に捻った腕のまま反対の手で肩を掴み身体を起こさせる。そのまま連行する形で歩かせ、猛獣用の入口で膝を付かせた。その間逃げようとするそぶりもなく、少し急き気味に足を速めるだけのアレスは、膝をついてすぐに拘束された手の代わりに足を前に出し蹴りつける形で氷の塊に振れた。力一杯延ばしても全く動く気配のない氷の塊に、やはりカラムの特殊能力はとんでもないと頭の隅で思う。
触れた途端、バリンと内側からみるみる崩壊するように氷の塊が砕けた後、今度は氷の張った足下をアレスはやはり足で踏みつける形で触れる。アーサーからは見えないが、それでもパリパリと硝子の亀裂のような音が聞こえれば何が起こっているかは察した。
最後には盛大に砕ける音と、おおおおおぉ!という歓声。追うように進行役から「冬の魔術が解けました!!次の演目まで少々お待ちください」という声が続けば、アーサーも音には出さず息を吐いた。
氷を処理し終わったアレスから「ありがとな」と平然とした顔で振りかえられれば、本当に彼がやったのかと現行犯にも関わらずアーサーは疑いたくなる。
肩透かしにも近い感覚に、それでも拘束は絶対に緩めないと意識した。もう使わない猛獣用の入口の横にズッカリと足を崩してそのまま座るアレスに、拘束具を何も持っていないアーサーも会わせて片膝をつきしゃがむ。
「……ンで、なんでこんなことしやがったンすか。アンタ、ジャンヌ……フィリップの賭けでこっちの味方と思ってましたけど」
しかし代わりに頭は覚めた。捻り上げられたまま一度も「放してくれ」と言わないアレスを見つめながら、まだ疑いたい自分がいる。今までサーカス団で一番自分達に協力的だったアレスである。
ステイルの表向きの正体も知りながら、あくまで新入りとして他の団員にもラルクにも秘密を守り続けてくれた。その後もカラムやアラン、そしてステイルを始めとする自分達にも協力的だった彼が誰よりもラルクを止めたかった筈だと思う。
第二部でも自分とアランの空中ブランコが滞りなくできたのはアレスのお陰だ。第一部では自分から空中ブランコの細工も修繕してくれた筈のアレスに、まさかそれも全て偽っていたのかと考える。ずっとラルクばかりを警戒していた所為で、アレスからの攻撃は全くの想定外だった。
アーサー自身の目でも一度も目立った取り繕いがあったようには見えなかったアレスが、そこまで周到に自分達を騙していたのかと思えば肩にまた力が入る。
アーサーの問いかけに、アレスは大きく息を吐いた。首ごと項垂れるように落とし、それからゆっくり顔を上げる。一体どこまで、誰が計画していたのかと考えるアーサーの視界の隅に、プライドとカラムが駆け寄ってくるのが見えた。二人の無事な姿を安堵しながらも今はアレスから目を離さない。
「俺が邪魔しねぇと、ラルクが賭けに負けちまうだろ」
「ですから、それがなんで。アンタは俺らの協力者でしょう。団長守りたいンじゃなかったんすか」
「今俺が守りてぇのはオリエだ」
空白と、その直後に悪寒がアーサーの背筋を駆け巡った。
ぞっ、とあまりの衝撃に喉を鳴らし、意識していなかったら手を緩めていた。目の前のアレスが、自分の知っている人物と別のような感覚にうっすらと胃の内容物がこみ上げた。
プライドとカラムが接近してくる中、彼らにも言いたい言葉はあった筈なのに今はそれも全て上塗られる。ぞわぞわと全身の毛が逆立つ感覚に咽喉が上下した。この違和感を、自分はよく知っている。
血走っていないのがおかしいほどに瞬きなく目を見張るアーサーに、無抵抗のままアレスは続ける。
「あいつが誰にも近づきたくねぇって言ってんだよ。嫌だっつってんのにンな無理させられるか!」
言葉も出ないまま口の開きも硬直するアーサーの隣に、とうとうカラムとプライドも立つ。自分達に目も向けずアレスを凝視するアーサーに、自分達も呼び掛けるよりも彼の言い分に耳を傾ける。
声を上げたアレスの言い分も誰のことかラルクのことかと想像しかできない。綿密に計画していたとしても、何故最後にあんな犯人が自分だとわかるような強行に及んだのかも気にかかる。彼の仕業であることも、当然自分達どころか団員もそして観客にも気付かれている。少なくともラルクに罪を被せる為ではない。
アーサーの顔色が悪くなる中で、プライドとカラムも険しい顔でアレスへ続きを促した。
「オリエの手は汚させねぇ。それにラルクも。あいつまでやる気ねぇんじゃ俺がやるしかなかったんだよ」
サァーーッ……とプライドから血の気が引いていく。
カラムもすぐに理解し、思わず息を飲んだ。拘束するアーサーも指が取り押さえた形のまま強張り固まる。
まるで平然と、当然の言い分かのように、アレスの優先順位が書き換えられた。本人すらもその変化に自覚がない。
別人になったのでもなく、自分達が知るアレスのままに一部だけが変わっている。そんなことができる人物は、全てのどの要素からもたった一人しか思い当たらない。
─ オリウィエル……!
第四作のラスボスの存在に、プライドは細い拳を静かに握った。