Ⅲ146.義弟は見定める。
……どうなっている。
「ええ、……変わらずずっとですね。熱も僅かにありますが、風邪というほどでもなさそうですし……」
どちらかというと泣いている所為の微熱かとと、そう困惑の色を露わにする医務担当である先生の説明に俺も掴めず考えあぐねる。
医務室テント。団員の体調不良時に対応する為のテントの中は物が多い分、外から見た時の印象よりも狭かった。カルテを書く為の机と椅子二脚。壁際には大きな本棚、薬棚、診察台代わりの簡易ベッドと三面囲われるよう置かれているせいで複数人いるだけでも窮屈な感覚を覚える。
視線の先では簡易ベッドの上に腰を下ろすラルクが、俺達に目を向けることなく俯いていた。
持たされたのだろうタオルを膝の上に持ちながら、目にあてることなく呆然と涙を流す姿は不気味なほど人間味が感じられなかった。肩が微弱に震えていなければ、人形にも見えたかもしれない。
アラン隊長とアーサーの話を聞いて、演目を控えているプライドに代わり様子を見に来た俺だったが、想定以上の状況に眉をひそめてしまう。同行してくれたアラン隊長もため息交じりに頭を掻いていた。
ケルメシアナサーカスのテント敷地内。怪我人や体調不良者用の医務室テントは、やはり移動型サーカスだからか場所を取る医療器具どころか棚もない簡易的な作りだった。
治療担当である先生用の椅子と机、そして患者用の椅子とベッドが置かれ、消毒液の香りだけがここが医務室代わりとわかる特徴だ。ざっと見る限り消毒液や包帯に体温計、最低限のだろう薬箱一つ。他の医薬品や医療道具は必要な時に荷車から取りに行くからいちいちと全てを取り出す必要はないらしい。周囲に何もないベッドに座ったまま背を丸くするラルクが余計に空虚に見えた。
突然の異変で団員達により連行されたラルクは、医務室に着いた時にはもう殆ど抵抗しなかったらしい。
疲れたように両腕を垂らしながら涙ばかりを流す彼に、先生も最初は体調不良か風邪を疑ったと。すぐに衣装を脱がせ、一度はベッドに横にして健康状態を確認したが、目立った異常部分はなかった。簡易的な検査では判明できることも限られてはいるが、どういう状態でも今のラルクの状況は医療的には説明がつかないだろう。
彼に最も敵視されているだろう俺相手にならばいくらか反応を示すかと思ったが、今は俺のことが視界に入っても情報が脳にまで届いていないのかもしれない。呆然とした表情で涙を流す彼は、関係の浅い俺にとっても気分が良い姿ではない。
脱水症状にならないかが心配だと話す先生は、ラルクが連れてこられてからずっと見張りの団員と共にここにいた。そして、ラルクはたったの一度も医務室を出ることはなく、この状態のままだ。つまりプライドとカラム隊長への妨害工作もする暇はなかったということになる。
「とりあえず二部の終幕挨拶は控えておいた方がいいと。もう少し休ませても変わらないようであれば、ちゃんとした医者の元へ連れていくべきとも幹部達に言っておきました」
ここも栄えた街である以上、当然医者もいる。確かに今の状態ではそう判断するのが妥当だろう。簡易医療では手におえる範囲は限られている。
先生の話へ一言返しながら、最初にアラン隊長がラルクに歩み寄った。一定距離で先生の話を聞いていた状態からラルクの正面まで立つ。「あのー」と言いながらひらひらとラルクの視線に入るように上下へ手を振った。しかし目が開いたままのラルクは反応しない。視界が滲んでいる所為でよくは見えていないだろうが、それでも光量の加減で影程度はわかる筈だ。
連れ出された時はアラン隊長へ悪態もついた筈の彼は、今はそれも反応しない。先生も「ずっとその状態で」と眉を垂らした。
プライドの演目が終わるまで気を失わせようとは思っていたが、こんな状態ではもし賭けに買ったとしても彼に約束を守らせることは難しい。
まさか、それをわかってわざと演じているのかとも考えるがすぐに思考を断じる。アーサーが、ラルクが演じていないと言ったのだから間違いない。これは彼の嘘偽りない状態だ。……ならば余計に、謎は深まる。一体何をされればここまで急変するのか。
舞台の前に一時的に持ち直し、幕を超えて再び崩れた。そしてアレスの証言でも、彼がそうなったのは前兆もなく突然だったという。せめて、何かきっかけがあれば納得できた。それを、理由もなく急変し別人のようになってしまうことなど
『気安く呼ばないでちょうだい。私はプライド・ロイヤル・アイビーよ?』
「ッ……ーーー」
駄目だ。やめろ今はそれを思い出すなあり得ない。
一瞬頭に過った最悪の記憶を、首を振って払う。意識的に力を込めて瞼を閉じ、奥歯を食い締める。気付けば拳も握っていた。またあの時のことに囚われるわけにはいかない。
プライドのあの時と、今は状況も違う。まず彼は既にオリウィエルの支配下だ。
そしてアラン隊長の話によればそれも今は変わらない。もし万が一にも奴がここに潜んでいるとして、ラルクを狙う理由がない。我が国にも奪還戦にも何も関係のない一般人だ。
何より、あの男の特殊能力とは状態も全く違う。彼は廃人にもなっていなければ、狂人というわけでもない。敵意は見せた時はあっても今は特に大人しいものだ。……いや、狂人になったからといって全員がああなるわけでもないと……、……?
思考を深めれば深めるほど、奈落に落ちていくようだ。万が一を考えれば最悪の方向ばかりを考えてしまう。
せめてもっと情報が欲しい。特殊能力者は奴が唯一無二なわけでもない。プライドも予知したオリウィエルの特殊能力に確証がないといっていた以上、これも彼女の手中という可能性も多いにある。
ラルクの眼前に立つアラン隊長に並ぶようにして俺も歩み寄る。俺が近づく気配に、アラン隊長も振り返りつつ護衛するように位置を変えてくれた。
「どうも、ラルク。フィリップです。話は聞きました。調子はいかがですか」
まずは呼びかけ、彼が敵視する名を名乗る。しかしやはり応じない。
聞こえていないのかと思うほど、呆然とした表情に変化がない。まるで、と。……、また嫌な記憶が抉る。違う、母上や父上もヴェスト叔父様とも状態が似てはいるが非なるものだ。なんでも奴に繋げるな。
口の中を噛み、気付けば顔が強張った。フィリップ?とアラン隊長に尋ねられ、意識的に表情を消す。
呼吸を深く飲み、無表情へと切り替える。俺の不安にアラン隊長まで巻き込むわけにはいかない。咳払いをし、今度はもう少し挑発的な言葉をかけてみる。恨まれ役は苦でもない。
今度はアラン隊長の時も反応した、賭けについてだ。
先生が「ラルク~?」と心配そうに呼びかけても反応を示さない彼に、俺はさっきよりも張りを加えた声で呼びかける。
「泣くのは構いませんが、賭けは守って頂きますよ。二部が終えたら彼女に会わせて頂けるのが今から楽しみです」
「……………………彼女に。…………」
ぴくりと肩が動いたと思えば、やはり言葉も返ってきた。
やはり支配下だからなのか、オリウィエルの存在をチラつかせると違う。先生も背後で「あっ今」とラルクが反応したことを驚いたように声を溢す中、念の為ここに入った時と同じようにラルクが丸腰であることを確認する。
今の彼がいくら暴れようとも、大した害はない。変わらず警戒は緩めず、しかし距離も開けずに彼へと呼びかける。まだ口を動かすだけで、開いた目を俺達へも向けず俯いた彼に殺気を向けさせるつもりで言葉を選ぶ。頼むから、奴らの影を否定してくれと脳の端で祈る。
今の彼は会話も可能で、廃人と呼ぶにはほど遠いのだと確証が欲しい。あとでいくら恨まれようとも良いから、今は俺の思い込みの影響なく彼に何が起きたかを正確に把握したい。
「そうです」と、はっきりと彼の耳に届く声で肯定する。怒りでも良い、原動力になる言葉を選び彼の意識へ叩き込む。
「オリウィエルに、必ず会わせて頂きます。今日、この後。それが賭け上での約束ですから。今更泣いて誤魔化そうなどと子どもじみたことは考えていませんよね?それとも貴方がそのまましくしくと己を哀れみ泣き続けていたいというならば、僕らも勝手にさせていただきましょうか。貴方の紹介などなくとも彼女へ会うことくらいできますから」
ピクリ、ピクリとが揺れ、膝の上でタオルを握り絞める手に力が込められていく。
今の彼にとって最も許せない、享受できないであろう言葉を重ねればやっと顔の角度も上げてくれた。俯いて俺たちに向けられていたつむじから、薄紫の髪がサラリと揺れて桃色の瞳が俺へと向けられる。
止めどなかった涙が、ぽろりと目の縁に溜まった分だけ落ちて止まった。しっかりと目の焦点を向けてくることに、表情には出さず安堵する。
息を吐く音も気付かれないように無表情で睨み返しながら、本当に良かったありがとうと今は彼の両肩を叩きたくなる。
やはり、今の彼はある意味正常だ。それに、あの男に操られているとしたら逆に言動と感情のブレも激しすぎる。
ただ、てっきりまたあの鋭い眼光を向けてくると思った彼は中性的な顔立ちを崩さないまま俺を見た。
鏡のような瞳で、そこに怒りや憎しみも感じない。まだ頭に上手く入っていないのかと、もう一度彼に刺激を通すべく言葉を決める。今は喧嘩でも悪態でも良い、彼から話しを聞くことを優先する。
まさか俺に負けるのがわかって泣き出したのか、彼女を守れないことがそんなに悔しいのかと更に鋭い針を考え彼へと
「……約束は、当然守る。だが、決して傷付けないと約束しろ。たった一言でも彼女に、指一本でも触れ傷付けたらお前達全員殺してやる」
……?
再び浮かんだ彼の強い敵意にも感じる眼差しに、妙な違和感が胸を騒がせる。
一貫しているようにも感じるが、少しおかしい。今までの彼とはやはり異なるように思えて仕方がない。
あれほどあからさまな妨害に及んでまで賭けに勝とうとしていたというのに、何故急に会わせることに肯定的になった?むしろ誘っているかのように聞こえる。
気付けば勝手にまた眉の間に力がこもった。ラルクと睨み合うままに口を結んでしまう。
アーサーがこの場にいれば、もう少し判断材料を得られたものを。少なくとも俺の目には、彼が演じているようには見えない。少なくともこの敵意は本物だ。
本当は会わせたくないのに、嫌々それを認めてやっているような不快感までにじみ出ている。
アラン隊長へ訪ねるように視線を向ければ、彼もやはり読み切れないように首を短く捻った。本当に会わせることを認めているのか?それとも誰かに言わされているのか。まさか脅されているわけではないだろう。特殊能力の支配が他者の脅しに屈する程度とは思えない。特殊能力者の程度にもよるだろうが、少なくともオリウィエルによる支配はその域だった。……まるで暗室から手招きされているような気味の悪さだ。
少なくとも会話をできるようになった彼に、俺も思考が落ち着いてきた。
代わりに憎しみが混じりだしたが、その程度はどうでも良いことだ。今更気がついたように自分の手のひらからその周りを見回す彼は、鞭をアラン隊長に没収されたこと自体忘れているのか。ならばあの時には意識も殆どなかったのだろうか。
試してみるか、と。俺は向けようとしていた針を一度しまい、別の言葉で胸を探る。
「そこまで強気な貴方が何故急に泣き出したのですか。早くも僕らに負けるのを認めたということでよろしいでしょうか?」
「ッそんなわけがあるか!これは、急に勝手にっ……あんなデカ女がまともに人前で踊れるわけがない!!」
「その呼び方止めて頂けますか?貴方こそ器も背も小さいではありませんか」
なんだと?!と、とうとう自分の力で立ち上がった。
人形のような虚ろさと比べれば活力の戻った彼に胸が安らぎつつ、……ちょっと本気でムキになってしまったと自分を叱咤する。今のは俺も口が悪い。
彼が自分の意志も感情も見せてくれたことに少し気が抜けた途端、まともに言葉を受けてしまった。プライドがその言葉に傷付いていたのを思い出すと、そんな場合ではないとわかっていても聞き捨てならない。
しかしプライドのダンスを侮ってくれているのはこちらとしても大いに都合が良い。まさか、それだから俺達全員に妨害する必要もないと判断して日和見していたとは思わないが。
このまま勝手に失敗すると思い込んで余計なことをしないでくれるならばそれが一番良い。
ベッドから音を立てて立ち上がった彼と睨み合いながら、今は自分の眼光を鋭いままを維持するように意識する。
泣いたまま会話不可能よりは今の彼の方が遙かに良い。泣いたことを指摘した俺に、目を指で擦りながら必死に弁解した彼の言い分を信じるならば、本当に原因はなく急に悲歎に駆られたということになる。
頭に血が登っても生気は戻った彼に、席から立ち上がった先生が水差しから注いだカップの水を差し出した。しかし彼は片手を立てて断ると、「先生」と俺へと打って変わった透き通る眼差しで見返した。
「僕は大丈夫です。終幕の挨拶にも出ます。猛獣達に会いに行ってきます」
「う〜ん……確かいま君は終幕まで猛獣古屋には近付かないように連絡が回ってたような……」
落ち着いた声で断言するラルクに、先生が困り笑顔で腕を組む。渡そうとしたカップを持ったまま、視線を浮かせた。「ジャッキーも外に出すなって言ってたし」とそのまま部屋の隅で今もラルクを見張る団員を目で示す。すると、ジャッキーさんもそれを肯定するように首をブンブンと横に振った。当然だ、第一部であんな所業をしておいて猛獣達に近づかせられるものか。
しかしラルクは「なにもしません」と言い張る。信じられるわけがない。大体彼はアラン隊長の話だと
「……猛獣達よりも、彼女のもとに行きたいのではなかったのですか」
ギラリと。言ってみた直後にまた睨みで返される。人間に戻ってくれて何よりだ。
まさかオリウィエルのことを忘れていたわけでもないだろう。それをプライド達の演目が近付いている今、猛獣に近づけられるわけがない。場合によっては俺とアラン隊長で同行してやることも考えたが、わざわざ彼の独壇場になる場に連れて行ってやる必要もない。
「っ……どうせ、お前達も付いてくるんだろ。ならわざわざ彼女に近付かせるわけにいかない」
「賭けにさえ勝てばどうせ近付くどころか会うことになるのだから一緒ですよ」
上げ足を取り、彼を言葉で止める。
どうせ俺一人でも、当然アラン隊長一人でも戦う術も限られた彼を取り押さえることはわけないが、また先程の状態に戻られたら困る。
結果として想定以上に持ち直してくれたラルクだが、また何をきっかけに泣き出すかわからない。症状の明確な発症原因も緩和要因もわからない今、このまま長引かせながら様子を見た方が良さそうだ。
腕を組み、両足を肩幅まで広げ立つ。このままお前の前に居座るぞと態度で示す。
プライドのダンスが観れないのは残念だが、またラルクをあの状態に戻してはこれまでの苦労が無駄になる。
なんだと?!と歯を剥く彼に、アラン隊長も俺より半歩前に出ながらも少し目が笑って見えた。流石彼も俺の意図はわかってくれたらしい。
見張りの団員に「俺らあと見ときます」と断りをいれてくれた。俺やアラン隊長見ている限り、ラルクを逃すことはあり得ない。
先生も半笑いの顔のままカップと共に再び席に戻った。いっそ彼も他の場所に避難させたいが、どう理由をつけようか。
「調子に乗るな新入りの分際で。口には気をつけろ」
「申し訳ありません。猛獣を操る危険人物に対してまで口を改めるような教育は受けられなかったもので」
敢えて無表情のまま言ってやれば、今度はまた身体を揺らし唇をきゅっと結んだ。……下唇を噛み、また険しい顔になる。本当にこの男の情緒はどうしたんだ。
また目尻に薄くだが涙を滲み出す彼に、思わず溜息が漏れた。自分でも冷ややかな眼差しになってしまっていると自覚する。
アーサーの言う通り、確かにこの表情も演じているようには見えない。むしろこの俺を相手に泣く姿など本来ならば見せたくもない筈だ。
「……先生。もし宜しければこのままラルクは僕らが見ています。少し話があるので、ジャンヌ達の演目が終わるまで舞台裏にいて頂けますか?またアンジェリカさんが演目後に体調を崩されるのも心配なので」
戻られたら成功不成功も聞かせて頂けると嬉しいです、と。そう理由付けて笑みを作れば、意外にもラルクからも文句は出なかった。眉と目の間を広げてきょとんとする先生の方が驚いて見える。
もし急患が来たら責任持って舞台裏まで報告に行く、彼と喧嘩して暴れ出したら先生が危ないのでと重ねれば戸惑いつつも頷いてくれた。
受け取られなかったカップを置き薬箱だけを抱え、じゃあ何かあったらと言葉をくれながら任せてくれた。
ラルクも隙を突くように先生の後へと続き出ようとしたが、すかさずアラン隊長が腕を伸ばし阻む。
くっと歯を食い縛るラルクを横目に、患者用の椅子に俺が腰掛ける。
「やましいことがないならどうぞこのまま大人しくしていて下さい」
気を失わせないだけ穏便だと思ってくれ。
そう思考の中だけで続けながら、彼を見定める。当初の予定を執行しても良いが、目が覚めてまたああなられたら困る。
今は彼の気持ちが落ちないように、荒立ててやる。ついでにオリウィエルについて情報を溢してくれればさらに良い。
苛立たしげに俺を睨むラルクへ俺から笑んでみせる。もう二度とプライドの邪魔をさせてなるものか。
ラルクではなくベッドを手で差しながら、挑発するように彼を促す。
「どうぞお寛ぎ下さい。貴方の猛獣も俺の魔術も無しで、公正に結果をお互い待とうではありませんか」
……まさかこの判断に俺自身が歯噛みをすることになるとは、思いもせずに。