そして始まる。
「……団長の化粧、あれ本当に一人でやられていたのですか?」
「ああ、はい。そりゃもう手慣れた様子でした」
耳打ちするように声を潜めるプライドに、アーサーと同じくアランも耳を傾ながらそこで頷いた。
遠目にも団長の横顔を見れば、比喩でもなんでもなく文字通りの別人だった。自分やアーサー、そしてアレスをも上回るほど化粧で顔全体を塗りたくった顔に、どうりで行きつけの酒場の店主も市場も街の誰も団長の目撃談がなかったと理解する。
本来であれば、サーカス団が訪れる時期と同時に現れる客など印象にもつきやすいものである。自分達も「見慣れない顔」と街の人間に何度か言われたことも思い返せば、団長の目撃談ももっと当然。
テントの外にサーカス団員として出る時は被り物までして素顔を隠す彼らだが、サーカスを見に来たことがある者であれば団長の顔を覚えていてもおかしくない。それを誰も街では見ていないというのも、全ては団長の舞台化粧が原因だった。
白粉のように白く全面的に塗りたくった顔に、本来の口の端をはみ出し口裂け女のように引かれた口紅。目も本来の大きさよりも大きくそして強い印象を残すように周りを黒で塗られ、両目を縦に割るような線が引かれるように描かれている。
衣服こそサーカス団での普段服と大差変わらずジャケットやネクタイで社交パーティーにも足を運べそうな格好だ。底の深い帽子と、この時だけに染料で染められた青い髪もそれだけであれば気品も感じられる。
しかし、塗りたくられた化粧は、その印象全てを翻す〝道化〟だった。
ピエロのように鼻も赤くなければ変な帽子や衣装でもない。膨らんだ腹も大きな靴も履いていないその姿は、プライドの目にはサーカスに付き物のおちゃらけたピエロというよりもトランプのジョーカーのような印象だった。スラリとした団長の体格も手伝い、格好良いとすら思う。
あれをたった一人で塗り作ったのかと思えば、流石は熟年の団長だと見直した。
時間が経過し、アレスが残りの団員全員の化粧を仕上げ終えた。
化粧道具の片付けを下働きに任せ、出番の早い演者からちゃんとテント裏に来ているか声を掛ける。途端に他の幹部から「それは俺の役目だ出しゃばんな!」と怒鳴られれば、小さく舌打ちを溢した。アレス自身、いつもの調子のつもりでも焦燥はある。
フィリップとラルクの賭けと条件を覗いても、新入り五人。技術はあってもサーカスの段取りどころかサーカスそのものの知識も怪しい異分子が混ざり込んでいる。一人ならまだしも五人一気に未経験者のデビューなど滅多にない荒技であることは、経験の短いアレスでもわかりきったことだった。
仕方がない、技術だけは本職並みだと団員達も自分を騙し騙し団長の決めた演目表に従うが、不安がないわけでは決してない。本番に悉く近い予行演習を済ませたところで、本番で何が起こるかは誰にもわからない。
一人一人が衣装を終え化粧を終え髪を終え、演目の早い者から準備と最後の打ち合わせと大道具の配置を裏方達と済ませる。ただ時間が来るのを待つばかりの演者は、舞台裏へ集まる数が増えるごとに緊張感は増していく。カチリカチリと時計の針の音が妙に耳へと引っかかれば、時間が近い証拠でもあった。
「時間だ」と。時計を全員が注視する中で、誰よりも晴れやかな顔で団長が呟いた。それを合図にしたように、テントの明かりが落とされる。
視界が突然塞がれ、一瞬のざわめきの後に客の口が自然と結ばれた。始まるのだと、視覚的に知らされたのを感じ胸を高鳴らす。
突然の明かりが落とされたのは、客席と舞台だけでなくプライド達もまた同じだった。暗闇に包まれた舞台裏の中、自分や団長を守るべくアーサーとアランが警戒を強める。ピンと張り詰めた空気は、姿が見えない騎士二名も同じだろうと理解しつつプライドは一点から変わらず目が離せなかった。
明かりが消えるその寸前に見た、団長の爛々と目を輝かす横顔を。
間を開け、再び明かりが灯される。舞台全てを照らすのではない、舞台中央のたった一点を輝かす光だ。それへ目掛け、誰の合図も必要なく団長は幕を自ら捲り上げそして駆け出した。
それに合わせ、護衛のアランも幕の裏まで速やかに移動しその隙間から舞台をそっと覗いた。プライドもアランの見る光景をただ自分もという欲だけで駆け出したいのをぐっと堪えた。幕の向こう側を堂々とと観れるのは舞台裏の自分達ではなく、客の特権だとわかっている。
代わりに瞼を閉じ、聴覚を研ぎ澄ます。
「紳士淑女の皆様!本日は我らがケルメシアナサーカスへようこそおいで下さりました!!」
初老近い男性の声とは思えない、響きのある高らかな声が舞台裏まで空気を揺らす。
今日まで何度も聞いた大声と種類が違う。女王である自分の母親の声を彷彿とさせられた。式典の声明と同じ、その場の全てを惹きつける響かせだ。気付けば自分の胸をぐっと両手で押さえてしまう。
道化の男が現れたにも関わらず、息を呑む音以外溢されない。子どもすら笑うのも忘れてしまう堂々たる男を前に目を奪われる。
「これから先の奇跡は皆様にとっても極上の時間となることでしょう!」
声明よりも断言に近い、大きく出た言葉を誰も笑わない。むしろ期待を膨らまされる。それは他でもない語る本人が、自分の言葉を嘘ではなく真実だと信じているからだ。
その目には偽りもなければ迷いもない。人生で何百何千と繰り返しただろう謳い文句を、まるでこの時だけのもののように大事にそして一生物のように強く語る。
客を惹きつけるままに己が紹介からサーカスの短い歴史までの語りは、物も知らない子どもすらも耳を傾けてしまう。
指の先から足の組み歩き、軽い咳払いから戯けた動作まで全てが洗練され計算尽くされたものだと、幕の影から覗くアランも、そして正面から見定めるレオンとセドリックも空気の張りで理解した。……理解〝させられた〟。
酒場で似たような語りを聞いたレオンすら、覚えているのに別物のように魅力的に耳を通った。きっとこれが初めてでも、二度目でも、それ以上でも彼は変わらず舞台の上では今が最上の時だと信じて叫ぶと思う。
「そして更には新鋭による晴れの舞台!その全てを目にできる皆さんはこの日を生涯誇ることとなるでしょう!さあいよいよ始まります!!」
流れのままに勢いも良く、団長が大きく手を広げれば音楽演奏家達が楽器を吹き鳴らす。
客の期待値を最大まで引き上げたままに、最後に音楽に後を引き継ぎ大きく厳かに礼をした。社交界でも通じるであろう美しいその礼に、期待値とはまた別にレオンとセドリックも拍手した。
美しい所作の礼儀に礼儀で返しつつ、軽やかな音楽と共に団長が幕の向こうへと消えていく。入れ替わりに間を一秒も置かずして大きく開かれた幕の向こうからジャグリングで球を手から空へと回し転がす男達が二人現れ、団長とはまた別の進行役の男が彼らを紹介する。
瞬く間のうちに始まったサーカスの演目に、客も一瞬で注視を引っ張られた。
火吹き男が一息で炎を吐いたかのように見せれば、観客から悲鳴に近い歓声も上がった。特殊能力を知るセフェクやケメトもあまりの迫力に互いの身を寄せ合いながら目を輝かせる。
「……ん。演目の段取りも流れも良いな。人を飽きさせない工夫がされてる」
「ンなつまんねぇ見方さっきからしてやがったのか坊ちゃんが」
ハァ、と。深い溜息を吐きながら顔を顰める。
騒騒しい楽器演奏と共に織り成される演目と歓声に混じりながらも、隣の席のレオンの声が聞こえればヴァルも思わず呆れが出た。純粋に楽しんでいるセフェクとケメトはともかく、まさかのレオンが内容よりも主催者側の視点で見てたのかと思う。
ヴァル自身他の客のように楽しんでいたわけではないが、俯瞰した感覚で眺めていた所為で妙にレオンの声も耳に届いてしまった。演目の段取りも流れもヴァルには全く興味も理解もできないが、そんなもんで演目自体に目が入っていないレオンはある種の職業病と思う。
「いや面白いよ」と指差し語るレオンの言葉を聞いても、良いから黙って見てろと思う。しかしレオンもヴァル相手にそんな配慮は今更しない。
「……!ほら、ここで一度客を落ち着けるように速度の遅い演目を入れてきた。ずっとわいわいしていると、見ている側も正気に戻るからね。集中力が続かないから静かな」
「うぜぇ」
また喋り出したと思えば僅かに早口になるレオンに、落ち着いてるように見えてこれで興奮してる方なのかと思い直す。
目の前では速やかに次の演目へと映り初めていた。先ほどまでの高速回転のような演目から音楽もゆったりとした曲調に変わっていく。色を通した明かりが怪しげな雰囲気を醸し出す中、空中に横向きに吊るされたいくつものポールの一つに女性が腰掛ける。
存在を主張するように観客へ手を振り、時には魅惑的なポーズをとって見せる女性にケメトやセフェクは思わず手を振った。
顎を上げ、テントの上空へ誰もが注視する。
「客の目が上に向いている間に下で片付けと大道具。上と下の空間を使うのも団長の語った魔法の一つかな」
「でぇ?その魔法のタネをわざわざほじくり返しやがるのは何の嫌がらせだ」
「君、こういうのに情緒を感じる類だっけ?」
ケッ、と吐き捨てながらヴァルは顔を逸らす。
別に純粋に楽しみたいわけではない。ただレオンがうるさい。
ちらりと目を向けたが、上空を見上げるセフェクとケメトには届いていないと確認すればまたうんざりと息を吐くだけで止まった。
少なくともその二人の隣で口を開けて首を前に伸ばすセドリックよりは、自分がレオンの隣でいる方が平和だったと検討づける。セドリックが楽しもうとレオンに夢を壊されようとどうでも良いか、セドリック相手にも問答無用でレオンは悪気なく夢を壊すだろうと理解する。
レオンの言う通り上空のポールではなく、舞台の方を見れば団員達が声掛けもせず無音で網を張り、そしてトランポリンと垂直のポールを配置していく。後方上ではポール渡り、前方舞台ではポール登り。その順序を眺め配置する流れは、レオンには戦の陣営組にも似たものがあると思う。
相手の目を逸らし、まるで突然現れたかのように思わせる。教師にも学んだ策の一つだ。
「アレが置かれるってことはそろそろジャンヌか?」
「どうかな。配置的にあれは飛び込み台の役割だけだと思う。ジャンヌは単独演目だと言っていたし、今は上と下の連携かな」
頬杖をつき、レオンの会話を遮断するのは諦めたヴァルも喧騒の中で寝れないよりはマシだと考えることにする。
サーカスの演目もつまらないわけではないが、さっさと自分の知る面々の誰かが来ないと待たされている感覚が強い。酒もとっくに飲み終えてしまった。それならばレオンの雑談に付き合う方が気も紛れる。
「確かにあのバケモン共じゃ出たら上でも下でも構わず喰っちまうか」
「カラムは団員と組むらしいよ?」
「その通りっ!君達も是非楽しみにしていてくれたまえ!!」
バシリ、と。聞き覚えのあり過ぎる声と共に腕がぶつかり合う音が重なった。
突然背後に現れた男が、二人の両肩へ手を置こうとして片方だけが取り押さえられた。レオンに置こうとした手はアネモネの騎士に掴み止められ、ヴァルの肩だけが叩かれた。
声だけで既に嫌な予感がしたヴァルは振り返るよりも先に肩を回し払い落とす。むしろヴァルの隣に座っていたケメトの方がびくりと肩を揺らし、一番に振り返った。
一拍遅れほぼ同時にレオンとヴァルも振り返れば、そこには輝かしい笑顔を浮かべた団長がアネモネ騎士に完全に取り押さえられたところだ。
「あーあー!エリックわりぃ!もうやらかしてる!!」
「?!申し訳ありませんリオ殿!ニコルさんジョンソンさん!」
団長の後をエリックに任せようと情報共有をしていたアランも流石に焦る。
ほんの少し目を離した先にアネモネ王国の王子に絡むとは思わなかった。慌てて任されたエリックも、レオンとアネモネ騎士達に謝罪しながら席を立つ中、単なる商人相手としか思わない団長は取り押さえてきた護衛にも大して焦らない。
レオンから許可を下されて拘束を解いた騎士達も半歩引く中、上着を羽織ったアランとエリックも代わりに謝罪しながら団長をまた押さえた。
大人しくしててと言いましたよね?!公演中ですから!!と声を抑えつつ、距離を取らせる。
化粧を剥がし終わり、衣装も着替えた団長に舞台の道化男と同一人物と気付く客はまずいない。騒がしい迷惑な男が入ってきたと一瞬気を逸らした後はまた舞台に目を向けた。
エリックが自分の席を譲るから座って下さいと言うが、団長は立ち見のままに端席のレオンの隣にしゃがみ座った。
「気にしないでくれたまえ!客席は客のものだ。私はここで楽しませて貰おう」
君達も気になることがあればなんでも聞いてくれ、と。我が家そのもので寛ぎ地面に足を組む団長に、顔だけでなく身体もケメト側へなるべくヴァルは逸らした。
レオンもまた曖昧に笑い、友人との雑談も自然と途絶えたことに小さく肩を落とした。




